008 探偵は夜を徹する

「ごちそうさまです」

 手を合わせてのそのそと立ち上がったつばめちゃんは、「じゃあ仕事に戻るですかね」と伸びをした。

「今からやるの!?」

 てっきり翌日から取り掛かるのだと思っていた。

「言ったでしょう、うちは二十四時間営業と。昼とか夜とか、そんなの地球サイドの都合です」

 君は地球サイドではないのか。

「それにサイバー犯罪への対応はスピードが命ですから」

 彼女はパソコンを持って来ると、再び炬燵に潜り込んでカタカタと叩き始めた。

 さっきまで別の事件で駆けずり回っていたのに、この華奢な体のどこにそんな体力が……肉のおかげか?

 まあ、こちらは依頼している立場だし、彼女の仕事のやり方に口を出すつもりもない。

 やることもないので三階に上がろうかとも思ったが、せっかくなのでしばらく彼女の横顔をガン見、じゃなくて鑑賞、でもなく、仕事ぶりを見学することにした。

「なにガン見してるですか」

 おっといけない。

「いやほら、ノートパソコンの実物って珍しいから」

 誤魔化すように言うと、つばめちゃんは迷子の子パンダのような顔をした。

「まあ確かに最近はみなさんパソコンは持たないみたいですが……スマホとかタブレットなんて、あんなのは子供のオモチャですよ」

 つばめちゃんがパソコンをいじっている姿も、子供がオモチャで遊んでいるようにしか見えないのだが。

 それからしばらく黙って見ていたが、彼女の指は一時も止まることなく動き続けていた。ものすごい集中力だ。

 何をしているのか気になって画面をのぞき込もうとすると、

「それ以上ご主人に近づくと斬るぞ、下郎」

 脇にいたパピコが目ざとく威嚇してきた。

「彼女はいま何をしてるの?」仕方なくパピコに問いかける。

「パソコン作業だ」

 馬鹿にしてんのか。

 しかし考えてみれば、人工知能にパソコンの画面から作業内容を読み取って説明しろというのはさすがに酷な話か。パピコはよく喋るので、つい普通の人間のように接してしまう。

 つばめちゃんのパソコンは、歌うように打鍵音を鳴らしていた。

 表面が剥げて文字が見えなくなったキーボードの上を、細い指が踊り狂っている。無数のウィンドウが星の瞬きのように開いては閉じる。

 タイピングの速さも相当なものだが、それでいてキータッチはとてもソフトで、まるで小粒の雨がアスファルトを優しく濡らしているようだ。

 いつしか俺は目を奪われていた。

 彼女の瞳は画面を見てはいない。ここにはない、何か巨大で途方もないものを見つめている。瞳と指だけで対話をしている。

 身体は依然として炬燵に横たわっているし、動いているのはただ指だけ。

 それなのに、大空を翔ける渡り鳥のように、彼女は自由に見えた。

「ご主人は景色が見えると言っていた」

 パピコが突然そんなことを言い出した。

「景色?」

「ご主人の意識は今、サイバー空間の中で別の景色を見ているのだ。たとえばこういう具合らしい——ネットワークは複雑に張り巡らされたチューブ。ファイアウォールは炎の壁。マルウェアは狂暴なモンスター。とな。そのイメージによってプログラムやシステムの構造、そして弱点が立体的に見えるのだとか。ご主人はその感覚を『ハクスタジア』と呼んでいた」

「ハクスタジア……」

 聞いたことのない言葉だ。彼女が自分で命名したのか、あるいは本当にそういう能力が存在するのか。

 共感覚のようなものだろうか。音楽を聴いて匂いを感じるとか、言葉に色や数字を連想するとかいうあれだ。しかしそういった五感の共振とはまた別物のようにも思える。

 それからまた、しばらく何もない時間が続いた。コーヒーを入れて炬燵の上に置いてみたが、サイバー空間を冒険しているつばめちゃんは気付かない。

 不思議な心地良さがあった。

 彼女に自分と似た空気を感じているからかもしれない。普通に生きることを許されなかった人間、孤独を友人として受け入れている人間特有の空気感。

 もっとも、そんなのは俺の独りよがりな願望に過ぎないかもしれないけど。

「貴様、よもやご主人に懸想しているのではあるまいな」

「別にそんなんじゃないって」

 パピコはじっと見つめてくる。彼のセンサーは「嘘ではない」と判断したらしく、それ以上追及してくることはなかった。

 コーヒーのお代わりを飲み終わってもつばめちゃんの意識が戻ってくることはなく、俺は三階に引き上げることにした。

 明日、つばめちゃんが起きてから結果を聞こう。


***


 ——夜。

 車の後部座席に座っている。

 どこを走っているのだろう。周りの景色からすると高速道路か。ネオンサインが残像を瞬かせながら過ぎていく。

 車内には家族がいる。

 運転しているのは父、助手席には母。隣には妹が。

 みな楽しそうに笑っている。どうしてか俺には話の内容が聞こえない。

 俺は必死に身体を縛りつけているシートベルトを外そうともがく。

 急がなきゃ。早く外さなきゃ。

 でもうまく手が動かない。焦るほどにベルトは固く締まっていく。

 皆は俺の様子に気付かずに笑っている。

 何してるんだ、早く逃げないと!

 俺は叫ぶ。

 大丈夫?と俺の顔を覗き込む妹。

 ダメだ、刹那。お前だけでも。

 手を伸ばしたその瞬間、視界が真っ赤に染まり——


 ——ノックの音がした。


***


 扉を叩く音と、俺が目を覚ましたのはほぼ同時だった。

 スマホで時間を確かめると朝の七時。寝坊という時間ではないが、なんだろう。

「すみません、起こしちゃったですか」

 扉を開けると、目の隈をいっそう深くしたつばめちゃんがのっぺりと立っていた。

「いや、起きてたよ。どうしたの?」

「ご飯の時間です」

 えっ?

「もしかして朝ごはん作ってくれたの?」

「そんな馬鹿な。私がごはんを作るわけないでしょう」

 そんな馬鹿な。

 どうやら昨晩の夕げから、俺は彼女の中で炊事当番として認定されていたようだ。

 朝になったら朝ごはんを作る。つまりちゃんと仕事をするよう催促しに来たということらしい。

 階段を下りながら、先ほどの夢を思い返す。

 毎度お馴染みの夢だ。

 何度も見ているが、何度見ても夢の中でそれが夢だと気付くことはなく、目を覚ましてから胸を撫でおろす。そして笑ってしまうのだ。あの悪夢の続きこそが今なんじゃないかと。

 この二年間、決まり事のように繰り返している。

「意外と朝早いんだね。てっきりお昼くらいまで寝てるんじゃないかと思ってた」

 朝食の準備をしながらそう言うと、「寝てませんよ」という答えが返ってきた。

「寝てないって、一睡も?」

「徹夜です。つばめだけに、渡り徹夜です。なんちゃって」

 意味不明なことを言ってクックッと笑うつばめちゃんは、確かに睡眠不足でおかしなテンションになっているように見えた。

「依頼しておいてなんだけど、そんなに根詰めなくても……」

「でも、おかげでわかったですよ」

「何が?」

「もちろん、犯人がです」

 あやうく手に持った卵を落としそうになった。

「あ、卵落としたですよ」

 落ちていた。

「もう犯人がわかったの!?」

 彼女の腕は信用しているし疑うつもりもないけれど、それでもさすがに驚いてしまった。警察には「立件は難しい」と言われ、ここに来る時もダメで元々だと思っていたのに。それがまさか、こんなに早く。

「知りたくばご飯を作るですよ。等価交換はこの世の原理原則です」

 そう言ってのそのそと炬燵に入り、猫のように背中を丸めた。

 この世の原理原則には従う他ない。はやる気持ちを抑えて手早く朝食の準備を終える。

 朝食メニューはクラッカーのカナッペにした。具はクリームチーズにスモークサーモン、アボカド、ゆで卵を混ぜ合わせたマヨネーズソースなど。きっと彩り豊かで見栄えもいいはずだ。

 しかしつばめちゃんは浮かない顔をした。

「クラッカーですか……」

 そう呟いて、複雑そうに口に運んでいる。アレルギーは無いと言っていたが、クラッカーは苦手なのだろうか。

 食後のコーヒーを飲んでまったりしていると、「パピコ、テレビを」とつばめちゃんが指示を出した。パピコが「はーい」と返事をすると、天井のプロジェクタから壁のスクリーンに投影され、ニュース番組が流れ始める。パピコには音声認識リモコンの機能も搭載されているようだ……。

 ん?

「いまパピコ、何て言った?」

 何かが引っかかった。

「なにって、つばめに返事しただけじゃない。なによその顔、キモイわね」

「一晩の間に何があったんだよ!」

 別人もいい所だ。もしかしてこれがつばめちゃんが言っていた、その時によって喋り方が変わるとかいうやつか。ていうか声まで変わってるんですけど。年老いた野武士みたいな声だったのが、今は気の強そうな甲高い女性の声だ。

「一晩って、レディになんて質問するのよ。このヘンタイ」

「何がレディだ、いくらロボットでもオスかメスかくらいはっきりしろ」

「あっひどいロボットって言った! 人権侵害、差別主義者!」

「ロボットだろ! それにトカゲに人権なんてあるか!」

「トカゲじゃないわよこのサル!」

「しっ、静かにするです」

 人と機械の無為な応酬を制止したつばめちゃんの目は、スクリーンに釘付けになっていた。

 ニュース映像には『アメリカ人男性患者が重体、医療データ改ざんか』というテロップが出ていて、アナウンサーが原稿を読み上げている。

『昨夜未明、聖丸子病院に入院していた患者に誤った薬品を過剰投与したことにより、アメリカ大使館職員の男性が意識不明の重体となっていることがわかりました。病院側の説明によりますと、糖尿病の治療中だった男性に誤って多量のステロイドを投与したとのことです。病院側は今回の件について、医療ミスではなく、医療データが改ざんされていたことが原因であると説明しています。警察は病院への悪質なサイバー攻撃の可能性も考慮に入れて捜査を進めるということですが、コメンテータの玉見さん、これは——』

「怖いなあ。こんなことってあるんだ」

 思わず感想が口をつく。これが事実なら殺人未遂じゃないか。

 つばめちゃんは何も言わずに画面を凝視している。サイバー攻撃関連のニュースだから職掌的に気になるのだろうか……しかし俺の目には、それだけではないように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る