002 少年は出逢う

 このシリアスだかコメディだかわからない寸劇に至った経緯。

 事の起こりはほんの一時間前だ。

 ある悩み事を抱えた俺は、久しぶりに電車に乗って都心に出てきた。

 日差しが強く、じりじりと肌を焼いてくる東京の夏。大好きな昆虫たちが活気に満ち、生命を謳歌する楽しい季節である反面、屋外労働の多い俺のような人間にとっては厳しい季節でもある。

 御茶ノ水駅を降りて坂を下っていき、靖国通りに出る。スポーツ用品店と古書店の並ぶ神保町エリアをしばらく歩き、右に折れて少し進むと、狭い路地の片隅に目的の建物はあった。

 見た感じ、どこにでもある小さな雑居ビル。一階は駐車場、二階と三階がテナントスペースになっている。

 建物の入り口にやけにボロボロになったスタンド看板が置かれており、見ると、

『ひなのサイバー探偵事務所』

 探偵事務所にはそぐわない丸みのあるフォントでそう書かれていた。隅にはトカゲのイラストがあり、フキダシで「おなやみかいけつ!」と喋っている。なぜトカゲ?

 とまれかくまれ、ここで間違いない。

 汗と緊張をハンカチで拭い、意を決して建物に入ろうとした、その時だった。

「ふざけんなバカヤロオ!」

 怒声とともに、中年の男が階段をずかずかと勢いよく降りてきた。避けようとした俺に「邪魔だ!」と悪態をつき、そのままスタンド看板を思い切り蹴り倒して行ってしまう。

 なんだ一体……?

 と、男が降りてきた階段の上から、続けてひょっこり顔を出した者がいた。

 少女だった。

 のたのたと階段を下りてくると、こちらに気付き一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに倒れたスタンド看板を引き起こしにかかる。

 髪型はパーマがかったショートボブ、ビッグサイズのパーカに身を包み、ちんまりとしていて小動物のような愛らしさがある。その一方、少し濃い目のアイシャドウがくりっとした大きな目を際立たせ、アンニュイな雰囲気も醸し出している。不思議な印象の子だった。

 誰だろう?

 バイトというには若すぎる。探偵事務所というと、およそいかがわしい大人が出入りする場所というイメージが強く、その少女の出現はかなりの違和感があった。

「お客さんですか?」

 突っ立ったままの俺を怪訝に感じたのか、少女は看板を立て直しながら首をかしげて訊いてきた。

 “お客さん”ということは、やはりこの事務所の関係者か。

「えっと、ここの探偵事務所に依頼があって来たんだけど。あの、探偵さんは?」

 すると少女はずいと顔を俺に近づけて、ペットショップで品定めをする客のような目でまじまじと見つめてきた。

「え? あの?」

「手伝うです」

 そう言うや否や、いきなり俺の手を掴んでガレージの中へ引っ張り込もうとした。

「いや、俺は探偵さんに用があって」

「私ですよ」

 ワタシデスヨ?

 それは、いわゆる「ほら私ですよ先輩、覚えてないんですか?」「えっ、まさか中学の後輩だった〇〇ちゃん!?」の「私ですよ」だろうか。

 夏。それは恋の始まる季節。

「なに締まりのない顔してるですか。私が探偵の雛野つばめです」

「へっ?」

「仕事のご依頼ですよね? でしたら私の仕事を手伝うがいいです。これが片付いたら請けてあげられるですよ。ウィンウィンというやつです」

 訳の分からないことを言いながら俺をローバーミニの助手席に押し込み、彼女は運転席に座った。

 あまりに唐突な拉致行為に思考が追いつかないが、しかし今の発言は聞き捨てならない。

「君が探偵って、嘘だろ?」

「失敬ですね。どう見ても探偵でしょうに」

 どう見てもって……。

 改めて彼女を観察してみると、ショートボブはパーマではなくただ手入れをしていないボサボサ頭で、お洒落と思ったビッグサイズのパーカーは本当にただの男物の色気のないよれよれパーカーで、そしてアイシャドウだと思ったのは目の隈だった。何日徹夜したらそうなるんだと訊きたくなる、吸い込まれそうなほどに深い隈。

 こうなるとアンニュイな少女もただの寝不足のちんちくりんに見えてくるのだから、第一印象なんてまったく当てにならないものだ。

「……さらに失敬なことを考えてないDEATHか?」

 じろりと横目で睨んできた。

「いや全然! こんな小さくて可愛い子が探偵なんて信じられないなと思って! あと語尾の発音がやけに良かった気がするけど気のせいだよね」

「誰がちんちくりんですか。正真正銘、私が探偵DIE」

「思考を読まれた……!?」あと語尾の発音が。

「あのですね、探偵とはいっても、うちは『サイバー探偵』なのです。ハッカーに年齢は関係ありません。子供だからといって舐めないでいただきたいです」

 不満そうに言いながら彼女がスマホをいじると、ブルルルンとレトロなエンジン音が響いた。

「あれ、今どこも触ってなかったよね?」

「目的地セット完了、と。それじゃ出発です」

 俺の質問を無視して彼女がまたスマホを指でなぞる。ガクンと車が動き出し——

「ちょっと待った!」

「なんです?」急ブレーキ。

「もしかしてスマホで車を動かした!?」

「そんなの当たり前でしょう」

 いや当たり前ではねえよ。ラジコンかよ。

 それはそれで信じられないが、それより何より、

「というか君、車運転できる歳じゃないだろ?」

 そう指摘すると、はっとして、それからしまったという顔をした。おい。

「だいじょぶです、こう見えて十八越えてますから」

「さっき自分のこと子供って言ってたよね?」

「いい天気ですねえ」灰色の空を見上げてわかりやすくすっとぼける。

 やにわに頭が痛くなってきた。どういう状況だこれは?

 彼女が探偵だというのは、もうこの際信じてもいい。確かに事前に聞いていた「雛野つばめ」という名前からして女性かなとは思っていたし、俺にそんな嘘をつくメリットだってないはずだ。

 しかしいきなり仕事を手伝えとは……。

 まあ、いいか。

 腕は確かだと聞いてここまで来たのだが、どうにも心配になってきた。どんな仕事だか知らないが、依頼前にその腕を確かめてやるのも悪くはない。探偵の仕事というものに興味が無いわけでもないし。

 ——と、そんな風に考えていた時期が俺にもあったのだ。

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