第34話 スミノフの鳥
酒場『マリンカ』
近くの馬用の厩舎に馬を預け、富岡さんの後を追うように店に入った。まだ昼過ぎなのに店内の照明は、かなり暗い。見回すと、出入口の扉だけがガラス戸で、そこ以外に窓がないせいかもしれない。
大衆酒場というよりも、バーに近い。
ジャズのレコードがかけられている小洒落た雰囲気の店内は、まだ三人しか客が入っていなかった。
「……います?」
「いや…いない。」
小声で富岡さんに確認する。まだ、"スミノフ"という男は来ていないらしい。
カウンターで8席、2人掛けのテーブル席が4席だけの奥深で狭めな店内には、カウンターにぽつんと常連らしき初老の男がひとり、座って静かに飲んでいる。一番奥のテーブル席にも男女のカップルが一組、食事をしていた。
「トミーロカ様…!」
支配人らしき男がニコニコ笑って近寄ってきた。
「またいらして頂けるなんて!光栄です。ありがとうございます!」
白髪まじりの短髪をかっちりとスタイリングしている支配人は、細身の体にアイロンがかかった白いシャツに黒いスーツを着こなし、清潔感がある男だ。観察していると目が合った。
「トミーロカ様の…ご友人…様で?」
「あ、こいつ弟。その奥が友だちね。」
え…?
「どうも、はじめまして。」
柔軟なダニールは屈託のない笑顔をすぐに作ると、支配人に握手を求めている。驚くほど自然な所作で驚いた。
「ご兄弟様でしたか…!これは失礼致しました。」
にこりと自分に微笑みを向けられ戸惑う。
(弟、って…)
怪しまれない設定なんだろうけど、何か嫌だな。
「悪いね、気難しいから。こいつ。」
「はい?」
支配人は上品に吹き出し、首を振る。
「いえいえ、皆が通る道ですもんね…お若くて羨ましい。」
いや、思春期とかじゃないから!
富岡さんの希望で、出入口の扉に一番近いテーブル席に腰を下す。荷物を下ろして、一息ついた。
「その…"スミノフ"って男とはここで…?」
ダニールは、支配人が運んできた水を一口飲むと尋ねる。
「あぁ。昨日の夜この店に入って飲んでて…割と人も多くてさ。今みたいに俺がイゴールとの勝負に勝ったって他の客たちに騒がれたんだよ。そん時。」
目の前に置かれた水を飲む。氷は入っていなかったけど、ひんやりとして飲みやすい。
「一人だけ…全く微動だにしない奴がいた。それで引っ掛かったんだよね。」
「へぇ…なるほど。」
その時を思い出してるのか、富岡さんは楽しそうに話し続ける。
「で、とりあえず様子見ながら酒飲んでたんだけどさ…逆に完全にマークされてるって気づいたんだよ。」
「二人の位置関係は?」
ダニールはそんな富岡さんの勘を全く否定せずに続けた。真顔だし、すでに簡単な店内の間取りをメモしている。
「ちょうど…そこのカウンターで向かい合ってたんだよ。お互いに端と端でさ。今、じいさんが座ってるのが俺が座ってた席。」
見ると、この店は逆L字カウンターで、それを囲むように席が用意されている。初老の男が、一番奥で静かに酒を飲んでいた。
「なるほど…」
「ま、だから話しかけてみたんだよね。」
……え?
「ちょ…どういう事ですか?その…怪しい男に…話しかけちゃったんですか?!」
戸惑う俺には目もくれず、富岡さんは吹き出して続ける。
「騒ぐなよ。明らかに怪しいんだもん、そいつ。」
信じられない。
キバBかもしれない、とか考えないのか?!というか、キバじゃなくても今、この国は見えない殺人集団の存在に怯えているっていうのに…!
「おーなんか言いたいことありそうだねぇ…」
富岡さんは心底楽しそうに、こっちの反応を伺っている。
(いや…)
だめだ。ここで、過剰に反応したら、富岡さんの思うツボじゃないか。ここは、ダニールのように澄まして聴くしかない。
「それで?その男はどんな反応でした?」
一瞬…だったけど、富岡さんが固まった。ダニールが口笛を吹く。
「驚いてたよ。隣の席に座ってやったら流石にこっちに顔を向けたし」
さっきの支配人がウォッカと、ピクルスとキャベツの酢漬けが入った小鉢を人数分持ってきた。丁寧に目の前に並べて去っていく支配人の背中を見ながら、続ける。
「それで?その男は、どんな人だったんですか?」
「んー……イケメン?」
「ふざけないで下さいよ。」
富岡さんは嬉しそうに笑った。だめだ、やっぱ腹立つ。
「そのイケメンは地元の人?」
すかさずダニールが交代して質問する。出されたウォッカをひと口飲んだ。
見た目は水と変わらない。喉を通ったあと鼻にスッと抜けるようなアルコールの香りがしたかと思うと一気に喉が温まる。苦味や辛味がないので飲みやすい。
「ソルートから来てたらしい。」
あれ、ソルートってたしか…
「首都ですね。中央警察署があるのもソルートですし。」
ダニールの言葉に、富岡さんも数回頷きながら、ウォッカの入ったグラスに手を伸ばした。
「だろ?」
そう言うと、ぐいっと一気に飲み干す。
「だから『なんで俺のこと観察してたの?』って聞いてみたわけよ。」
すごいな。自分だったら、そんな切り返しはできない。富岡さんがピクルスをぱくりと口に入れたので、食べ終わるのを黙って待つ。
「それで…スミノフの反応は…」
「全然動じず『異国の者が気にならないほうが不自然だろう』ってさ。」
「へぇ…」
随分、相手も冷静だな。一筋縄ではいかなそうだ。
「悔しいから『キバ事件の犯人かもしれないから?』って試しに言ってみた。」
「ええ?ちょっと…相手が誰だかも分からないのにそんなこと言っちゃったんですか?!」
ダニールがなだめてきた。富岡さんは全く悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうに次の酒を頼んでいる。
「うん。なかなか手強そうなやつだったからさ。」
「嘘でしょ…信じられない。なんでそんな敢えて刺激するようなことを…!」
「刺激するのが目的だからだよ、ハルキ。」
「え…?」
横に座っているダニールを見ると、一気にウォッカを飲み干した。
「そゆこと。そいつ、さすがに一瞬言葉に詰まってたよ。ありゃ、当事者ってよりは関係者だな…勘だけど。」
(また、勘…)
「なるほど。キバ事件の関係者ね…」
ダニールはよほど富岡さんの勘を信頼しているみたいだったけど、それよりも先が気になって前のめりに尋ねる。
「で、そのスミノフは何て…?何て言ってきたんですか?」
「やはり旅人ではなかったか、何者だ。ってさ。」
いや、思いっきり疑われてるじゃん…!
「答えによっては危なかったけどな。ま、俺は犯人じゃないから。聞かれたことには全て答えて、向こうの誤解は解けたみたいだったけど。」
(スミノフこそ何者だよ…)
ダニールが人数分の水を追加で頼んでいる。
富岡さんは記憶と重ねるように、この店唯一のガラス扉をさして言った。
「あのとき、扉に何かがぶつかって—それ見たらその男、突然、血相変えて出て行っちゃったんだよね。」
今見ても、その扉には何も変わりはない。割れてるわけでもない。
「何が…ぶつかったの?」
ダニールの質問に、富雄さんも首を傾げながら呟いた。
「
「は?」
「
「いや、俺もおかしいと思ったよ。けど、この席に座ってた女の客がさ…たしかに鷲だったって騒いでたんだよ。不幸の前兆だって泣き喚いてさ。」
(あ…)
だから富岡さんは、その女の人が座ってた席を選んだのか。
「たしかに、この席からなら見間違えなさそうだな…外がよく見える。」
ダニールは再び出された水を飲み、口を開いた。
「なぜスミノフはその
「それが分からない。"戻らないと"って言ってたけど…」
「"戻る"…ソルートに?」
富岡さんも水をひと口飲む。
「たぶんな。けど、なんかスッキリしなくて気持ち悪い。胸くそ悪い、つーか…」
「ただのお酒の飲み過ぎでしょ。」
「おい…」
「どちらにせよ、俺たちもソルートに行くしかなさそうですね。」
ダニールも頷いてくれた。
「中央警察署に行かないと情報は得られなさそうだしね。リョウが泊ってる宿に寄ったら、すぐ出発しよう。」
全員が頷いて片付け始めたとき、だった。
「あの…トミーロカ様…」
支配人がおずおずと近寄って来た。なにやら様子がおかしい。
「もしや…先ほどお話しされていたのは…昨晩の…事でしょうか?」
富岡さんがそうだと答えると、支配人は周りを気にしながら、声を潜めた。
「あの…恐らく昨晩トミーロカ様と話されていた方は……王城の方かもしれません。」
え
「昨晩のあの大鷲は……王家の鷲じゃないかと…それに、あの方も…どこかで拝見した事のある方でしたから…」
「ちょっと待って…じゃあ、スミノフさんが言った『戻る』て…」
ダニールと富岡さんが同時に続けた。
「ソルートにある王城へ戻るってこと…」
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