第31話 アレクサンダー
宿『マシェスタ』地下喫茶前の廊下―
「あれ…いない…」
たしかキバの男とその連れは、二人揃って出て行った。
そこまで時間は経ってないはずなのに、すでに二人の姿はない。
「こっちだ」
確信に満ちたダニールが進むほうへ、慌ててついて行く。
しかし、ダニールの言うとおりで、静かに進んでいると階段を上がる二人の足が見えた。
「おかしいな…」
「え…」
「宿の外に出ようとしてる…」
夜中だぞ。こんな夜遅くに男二人で出歩くには、かなり不自然だ。
「ねぇ…かなり怪しくないですか?それに…」
「し…っ」
ダニールが真剣な表情で立ち止まる。それ以上は何も言えず、息を殺してダニールの背中を見ながら待った。どれくらい時間が経っただろう。ひっそりとした空気のなか、チリンチリンとドアベルが小さく鳴ったのが聞こえた。
ダニールと顔を見合わせ、一気に階段を駆け上がる。
古びた階段を上がりきると、宿の受付がある。夜中なので受付には眠そうな老人がひとりで腰掛け、新聞を読んでいた。見渡してもロビーには誰もいない。
「出て行っちゃったんですかね…」
「うん、そうみたいだね。すみません、今出て行った方は何人でしたか?」
ダニールが受付に座る老人に尋ねた。
「へ?あーたしか、お一人だったかしら。お連れ様はお部屋へ戻られましたよ。」
眼鏡のずれを直しながら、ダニールを見上げて老女は答えた。
(宿泊してるのか…)
ダニールは、ポケットからこの国の小銭を取り出し、悩ましげに頭を抱えながら受付の老女に告げる。
「困ったな。その方が先ほどお金を落とされたので届けたいのですが…どこの部屋に宿泊されてる方なんでしょう?」
(え…)
すごい度胸だ。よく瞬時にそんな嘘を思いつくよ。やはり、只者ではない。自然すぎて俺ですら騙されてしまいそうだ。
だけど、そんな個人情報を宿側が教えてくれる訳がな…
「それはそれは…!その方は…あ、お客様たちのお部屋の階の一番奥の個室の方ですね」
この宿のセキュリティ、激ゆるなんですけど!
「アレクサンダー様…っと、はい。206と書いたお部屋です」
いや、しかもご丁寧に名前まで!!
「ありがとうございます。行こう、ハルキ」
「あっ…はい!」
慌ててダニールについて行く。それにしても…
「同じフロアだったんですね…」
「うん。たぶん、アレクサンダーは偽名だと思うけど」
(まじかよ…)
偽名って。何だか自分はとんでもない世界に来てしまったみたいだ。
「ハルキ」
「あ、はい…っ」
「先に部屋に戻ってて。ちょっと用事済ませてくる」
「え、用事って…」
自分たちの部屋の前でダニールは立ち止まった。ダニールは何をすると伝えるでもなく、簡潔に済ませる。
「大丈夫。すぐ戻るよ」
「あんまり遅くならないで下さいね。ほかにもお客さんいるんですから…」
ダニールはくしゃりと笑った。
「ふっ…なんか心配されるっていいね。新鮮で」
「いや…」
ダニール、ごめん。正直きみに関しては全く、心配してないよ。こっちの思いとは裏腹に、ダニールは意気揚々と廊下を曲がって行った。
(大丈夫かな…)
ダニールの姿が見えなくなるまで見届けて部屋に入り、静かに扉を閉める。彼の普段の仕事については、とりあえず今は考えないでおこう。
部屋の共同照明は小さくされ、空調の稼働音が低く響いている。一番手前にある自分のベットに腰を下ろした。
座った途端、どっと疲れが襲ってくる。慣れないことをしすぎたせいかもしれない。
(ダニールが戻ってくるまで、毛布にでもくるまって待つか。)
備え付けられた宿の寝具に潜り込む。
「あ…」
そうだ。富岡さんとあとですぐ共有できるように、ダニールのメモに追記しておこう。起き上がり、隣のダニールのベット脇に置いてあるバックパックに手を伸ばした。メモとペンは手前のポケットから取り出し、ダニールが書いた最後のページを探す。
「え…」
ページをめくる過程に、見慣れた名前を見つけた。英語だが、たしかに自分の名前がフルネームで書かれている。
(俺の…こと書いてあるのか…?)
気になる。迷わず目を通した。心臓が急激に高鳴っていくのが分かる。
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ハルキ・クガ
リョウの相棒、20代半ば
日本、東京
印象:素直、中性的、好青年
ファーザーコンプレックス
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(高い)
・運動性神経
・外向性
・協調性
・外見的要素
--------------
(低い)
・神経性傾向
・チャレンジ力(開放性)
・勤勉性
--------------
結局のところ、よく分からない。
(くそ…難しい単語ばっかだな…)
文字の意味が何となく分かっても、それが高い・低いでどういう結果を指し示しているのかまでは全然分からなかった。ファーザーコンプレックスって単語は、すぐ理解できたけど。
「あ…」
ある文字に目が留まる。はしり書きだったが、その文字は総括するように書かれていた。
― a promising person.(有望な人材)
肩から力が抜けた。
(ダニール…)
カタ…
(っ……!)
小さな音が聞こえた気がして、我に返る。見渡したけど、何も変わった様子はない。
(そうだ、メモの続き…)
心が浮ついていたのかもしれない。外したペンのキャップが手元から飛んで床に落ち、勢いよく転がっていってしまった。
「あ…っ!」
落ち着け…舞い上がるな、冷静になれ。仕事中だぞ。自分に言い聞かせながら、深呼吸する。キャップは、部屋の一番奥のほうへ飛んだのは記憶にある。足音を立てないように慎重に進み、途中からは四つん這いで奥まで進んだ。
(あ、あった…!)
キャップは一番奥のベット下に転がっている。赤い仕切り布は、ベットを囲むように引かれている。すでに就寝したのか、ベット脇の灯りは消えていた。
(起こすのも悪いしな…)
手を伸ばしたら届きそうな距離だ。改めて屈み込み、転がるキャップに手を伸ばした。
(よしっ触れたぞ…!)
指先がキャップに届いたときだった。突然、向かい側の空間に子どもがひょこっと顔を出した。大きな緑色の瞳と目が合う。
(…ぁ…ッ!!!)
驚きすぎて、後ろに飛び下がった。思わず、せっかく触れたキャップも取らずに尻もちをついてしまう。
「え、こど…も…?」
もう一度、改めて見直そうと近寄ろうとした。
「そこで、何をしている。」
また突然—後ろから男の声が響いたので体がびくつき、度肝を抜かれた。
「あ、あの…すみません!ペンのキャップを飛ばしてしまって…っ!あ、あの、ここにあったので、すぐ…っこれ取って立ち去りますっ!!すみません!」
暗がりで顔までは見えなかったが、腕を組んでいるのは分かった。声も威圧的だったので、余計慌てて再びベット下を覗き込む。
(あ…れ…?)
さっき顔を出した子どもの姿はない。
(気の…せい…?)
「見つかったのか」
「あ、はい!ありました!ここにッ!これ!すみませんでした!お…っおやすみなさいっ!」
キャップを掴みとると、慌てて自分のベットへ駆け戻り、ベットに倒れ込んだ。ぎぎぃっと軋む音が妙に大きく聞こえる。ゆっくりと、慎重に息を吐く。
(はぁー…疲れたぁ…)
目を閉じたら、一気にほっとする。目を開けるのが面倒だとすら思う間もなく、そのまま、深い眠りの底へ沈んだ。
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