第5話 『寿人』



「……落ち着いたかね」

「はい……ありがとうございました」

 礼を言った僕に、彼女は不思議なものでも見るかのような瞳を向けた。

「それなりに手酷い扱いをしたと思うのだけど。存外、キミは男前なのかも知れないね」

「?」

「いや、こちらの話だよ。このまま立ち話もなんだし、付いてきなさい」

 そう言って、彼女はつかつかと歩いていく。置いていかれないように後を追おうとして、撃ち抜かれた足を思い出した。

「……あれ」

 痛みはない。撃たれた箇所を覆う衣服には穴が空いていて、固まった血がこびり付いている。

 足踏みをしたけれど、それでも何とも無かった。

「どうした? 早く来なさい」

「あ、はい」

 彼女の後に付いていくと、路地の中で景色の開けた場所に出た。どうやら駐車場らしく、体育館に近いサイズの敷地にぽつぽつと車が並んでいる。遠くから赤みがかった残照が照らしつけて、何故か昔懐かしいような気持ちになった。記憶が朧げでも、ノスタルジーは感じるものらしい。

比較的綺麗なその敷地内で、自動販売機の前にあるタイヤ止めに彼女は腰を下ろした。

 スーツを着た美人がするには、ちょっとやさぐれ過ぎた仕草だ。そのくせそれがやけに似合っているものだから、思わず吹き出しそうになる。

「キミも座りなさい。流石に少し疲れただろう?」

「……失礼します」

 少し離れたタイヤ止めに、僕も腰掛けた。身に纏う宇宙服がごわついて、少し鬱陶しい。だというのに、不思議と暑くは無かった。

「うん。ああ、そうだ。キミ、何か飲む?」

「ええと、お構いなく、です」

「そういうわけにもいかない。今後、私はキミの上司になるからね。多少なりともそれらしい振る舞いをさせなさい」

「……じゃあ、サイダーで」

「ん、よろしい」

 ふっとした笑いを浮かべて、女の人は立ち上がった。そのまま自動販売機に小銭を入れている。その光景は、今どき珍しい。自動販売機で買い物をするなら電子マネーを利用するのが当たり前の世の中だ。というか、買い物で現金を使う姿自体があまり見かけないものだった。

「まったく、おかしな話だろう? 街がこんな有様になっても、自動販売機にお金を入れている。けれど、これも人間として生きているからこそだ。文化的行動、というやつさ」

「……」

 どうやら彼女は人間らしさ、というものをとても大事にしているらしい。

 がしゃん、という音と共に、彼女が屈みこむ。それをぼうと見つめていると、サイダーの缶が目の前に飛んできた。

「うわ」

「それ、外し方は分かるかね? 右側の首元にハンドルが付いてるから、そいつを前に引けばいい」

 手探りでそれを探し当て、彼女の言う通りにハンドルを引いた。直後、がこり、という音が首元に響いた。

「あとは上に持ち上げるだけだ」

 想像よりも重かったヘルメットを外して、地面に置いた。

 少し鉄臭い臭いはあるけれど、新鮮な風が顔を吹き付けて幾らか気分が良くなる。

「……あの、なにか?」

 ヘルメットを外した僕の顔を、まじまじと見る彼女。

「いや、平凡を顔にするとこんな感じなのかな、と。しかし可愛げはある。趣味ではないが、不快感もない。要約すれば悪くない、ってところかな」

 彼女なりに打ち解けてくれているらしいけど、ちょっと失礼ではないだろうか。それを口にすると変な反撃をされそうだから反抗はしないけど。

「さて。まずは改めて自己紹介だ。私は遊佐満。下の名前で呼ばれるのはあまり好きではないから、苗字で呼んでくれると嬉しい」

「どうも始めまして……遊佐さん」

「うん。素直な子と話すのは中々新鮮だ。それで?」

 ……?

 遊佐さんは、僕をじっと見つめている。年上の美人に真顔で見られるのは、どうにも気恥ずかしい。

「……キミね。自己紹介はお互いにしないと意味がないと思うのだけれど」

「あ、すいません……ただ、その」

「うん? ああ、名前が恥ずかしいのか。それはお互い様だから気にしなくていいよ」

「いえ、そうではなくて。僕、自分の名前が分からなくて……」

 僕の言葉を聞いた彼女の顔が、ぴしりと固まった。

 そこからは、つい今さっきまでの穏やかさが消えている。

「……キミは、人間か?」

 背筋に凍るような感覚が走った。

 多分、これは殺気だ。

 直感ではあるけれど。回答次第で殺す、と彼女の目が語っている。

「……分からないです。その、寿人っていう友達がいたんですけど。いや、今となってはその名前が本当だったのかも分からないんですが、彼が言ったんです」

 遊佐さんは懐に手を伸ばして、僕の言葉を聞いている。

「確か、そう。薄く均したって。その前の記憶は曖昧なんです。確か寿人と昼休みに喫煙所でタバコを吸っている時に、突然眼の前が真っ暗になって。目が覚めたら空が曇ってて、『網膜ディスプレイ』を外したら血だらけになってて……」

 今日起きた出来事をとつとつと語った。

 正直色々とありすぎて、支離滅裂になっている気がする。僕の話を聞き終えた遊佐さんは、懐から手を下ろしてため息をついた。その表情からは、感情が読み取れなかった。

「……成る程。恐らく、例の“羽付き”か……そうか」

 どうしてか、彼女の表情を見るのが辛い。

「改めて、色々と合点がいった。それに、考えてみればヒトでない者にあいつが引き継ぐはずもない。いや、むしろキミのそれにこそあいつは……」

 遊佐さんは独り言のように呟いて、赤みがかった空を仰いだ。

「しかし、そうか。それは酷なことをしたな。私も、あいつも」

 彼女はそのまま、目を瞑っている。

「……あの。確かに、さっきまでは自分が良く分からなかったんですけど」

「……うん」

 彼女の顔は動かない。

「今は、多分遊佐さんのお蔭で。なんとなくですけど、自覚がある、というか。僕は僕だ、って」

「そうか。だが、それは……」

「……?」

 遊佐さんはそこで言葉を切ってしまった。僕も、どう返したらいいのか分からず黙り込む。それから1分近く沈黙が続いて、ふいに遊佐さんが口を開いた。

「いや、よそう。ただ、キミはよく頑張った。それだけは保証する」

「……ありがとう、ございます」

「――ふふ。それは、こちらの台詞なんだけどな」

 褒められるのは、少し意外で。わずかばかり、困ってしまった。

「しかし、そうであればキミには名前が必要だ。どのみち名乗ってもらう予定だったから、これからはそれを使うといい」

「名前……」

「うん……『久瀬行人』。それが、キミの名前だ」

 クゼ、ユキト。

 何故かその名前は、とてもしっくり来た。





「む。思いの外、時間がかかってしまったな」

 唐突に、遊佐さんが顔を上げた。その仕草の最中、彼女の右手首にきらりと光るものが見えた。どうやら、彼女も『網膜ディスプレイ』を使用しているらしい。

「少し待っていてくれ。連絡を入れないといけない」

 そう言い残して、彼女は駐車場から出ていってしまった。


 一人になった駐車場で、西陽に目を細める。

 空を覆っていた雲は殆ど晴れていて、夏らしい夕暮れ時を演出していた。時折吹きつける優しい風は、僕の髪の毛の間から熱を拭い去っていく。

 広い敷地の中で静けさに耳を傾けていると、ふいに遠くで蝉の声が鳴っていたことに気が付いた。これもまた、何処かで聞いたことのある音だ。

「あ、サイダー」

 せっかく買ってもらったのに、ぬるくなってしまっては勿体無い。サイダーと言えば、古くからの夏の風物詩。冷たいそれをぐびりと飲んで、また頬を撫でる風を感じた。

「……」

 久瀬行人。

 寿人と、行人。

 もしも本当にこれが僕の名前だったとしたら、僕と彼は意外と相性が良かったのかも知れないな、なんてぼんやり考えた。

 軍服の人が戻ってきたのを鑑みるに、多分寿人はもうこの世にいないのだろう。彼が僕の事を本当はどう思っていたのかも、今となっては分からない。けれど、やっぱり友達ではあったんだと思う――何故なら、僕には彼との思い出が残っているから。

 詳細は分からないけど、寿人は“羽付き”と呼ばれる化物だった。そして、寿人や遊佐さんの言葉から察するに僕の空白は寿人によるものだ。

 でも、だからこそ僕に彼との思い出が残っていることは、彼なりの友誼の証だったのだと思いたい。

 目的は分からない。けれど、僕を薄弱なものにするのなら彼自身との記憶だって本来必要ないもののはずだ。

……こんなことを本人に言うと「ほんと、お前ってお人好しだよな」なんて事を言われるんだろうか。あるいは、「よけい暑くなるからやめてくれ」とか言われるのかも知れない。


 こつり、とヒールの音が聞こえた。


「私達は別口で帰る旨を伝えた。レンタルではあるが車も用意させたから、それに乗って移動するとしよう。他にも説明する事は多いからね。道すがら、話して聞かせよう」

「分かりました。あの……これから、よろしくお願いします」

 僕の言葉に、遊佐さんはくすりと笑った。

「うん。キミのその素直さは美徳だ。有り体に言って、好感をおぼえるよ」

 美人に言われると、中々に悪い気がしない。

「あ、そういえばさっきのキミの話を聞いていて思ったんだが」

「?」

 話、とは今日の経緯のことだろうか。

「キミ、煙草いけるくち?」

「……多分、そのはずです。昼はメンソール吸ったと思うので」

「ふむ。メンソールは無いが、良ければ一本どうだい?」

 差し出された箱。

 有り難く一本頂戴して、借りたライターで火を着けた。

「う、けほっ」

「む。重かったか?」

「いや、大丈夫です。美味しいですよ」

 何故か、盛大にむせた。


 ふわりとした風が、もう一度頬を撫でる。

「そういえば……少し気になったんですけど」

「ふむ。なんだい?」

「この蝉、なんて名前でしたっけ」

 あらぬ方を見て、遊佐さんは教えてくれる。

「確か……ヒグラシ、だったかな」

「そうですか……なんだか、少し寂しくなる声です」

「そうかい? まあ、人によってはそう感じることもあるだろうさ。昔の日本では、ヒグラシは夏の終わりの象徴だったそうだからね」

 ノスタルジア、という言葉の語源を何となく思い出した。

 たしか、『帰郷』と、『心の痛み』。

「実際、八月ももう終わりだ。鬱陶しい季節だが、また一年待つと思うとそれはそれで惜しく感じるかもね」

「――はい」


 かつかつと歩く遊佐さんに続いて、僕もその場を後にした。

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