第八章 嵐の前触れ
自分の秘密を知られたくなかった。
自分が『妖魔』一族の生き残りだと、悟られたくなかった。
今まで『治癒』の力を見た者は皆、彼女が『魔術師』とは異なる存在だと悟ると、彼女の許から離れていった。
魔女と蔑まれた事もあった。
化物と罵られた事もあった。
人は自分とは違う存在を、容易く受け入れられない。それが、彼女のように異質な力を持った者なら尚更だ。
一族が滅んでからの十数年。学んだ事は数多くあったが、この事実に勝るものは何一つないだろう。
もっと自分の立場を弁えるべきだった。滅亡した存在だと言われている『妖魔』の力は、安易に行使されてはいけないものなのだ。
だから彼女は、力を隠して生きるようになった。もう誰にも嫌われたくなかったから。独りになりたくなかったから。
だがしかし、現実は決して甘くはない。どんなに上手く取り繕おうと、必ずどこかで綻びが生じてしまう。
彼女は一番知られたくなかった事を、一番知られたくなかった人に知られてしまった。
事実を知ってしまったあの少年はもう、今までと同じように接してくれはしないだろう。
悲しい気持ちも、寂しい気持ちも当然ある。
でも、後悔はしていない。この力を使わなければ、間違いなくあの少年は死んでしまっていたのだから。
死んで二度と会えなくなるくらいなら、嫌われる方がずっといい。
だから、後悔なんてしていない。後悔なんて――
「……そんなの、嘘に決まってるよ」
自虐的な笑みを浮かべてしまった瞬間、本心が声となって漏れ出していた。
あの時の選択に間違いはなくて、これは正しい事なんだと、どんなに正論を並べて心を律しようとしても、現実を受け入れる事はできなかった。
悲しいし、寂しい。後悔をしていないはずがない。
口が悪くて、態度が冷たい少年だったけれど、一緒にいる時は楽しかった。彼の方はどう思っていたのかわからないけれど、話せる相手がいる事が、とても嬉しかった。
だけどもう、あの幸せな時間が戻ってくる事はない。
彼女にできる事など、何一つない。
「……ディーン」
せめて忘れてしまわないようにと、彼の名前を呼んでみる。
返事が返ってくる事は、なかった。
◆ ◆ ◆
眼を覚ますと、そこには見慣れない光景があった。
視界を埋め尽くす、白い石造りの天井。どうやらベッドの上で仰向けになっているらしく、やけに肌触りの良いふわりとした感触が、身体を支えている。
何となく気だるい身体を起こして、俺は周囲を見回した。
壁も床も天井も、全て磨き抜かれた石造りの四角い部屋。窓の傍には木製の作業机。壁際には、金で細かい装飾のされた本棚が二つ。棚はどちらも四段造りになっていて、どの段も端から端までびっしりと分厚い本で埋め尽くされている。
部屋の中央には、客に応対するためなのか、四角い金属製のテーブルと、一人用のソファーが四つ置かれている。そのどれもが、棚と同じように値段の張りそうな、煌びやかな装飾で彩られていた。
……いかにも金に物を言わせて造った、って感じの部屋。いくら天下の『首都』とはいえ、ここまで部屋の模様に金を、もとい気を遣う宿はさすがに存在しないだろう。
ならば考えられる可能性は、ただ一つ。今いるこの場所が、王族や貴族が住まう巨城、『テルノアリス城』だという事だ。
俺には全く記憶が無いが、恐らく廃材置き場で気を失った後、騒ぎを聞き付けた正規軍にでも発見されて、ここに運び込まれたって所だろう。
部屋の中に時計らしき物は見当たらず、あれからどれぐらい時間が経ったのかわからない。が、ベッドの傍にある窓から見える空は、すでに夕暮れ時の明るさだった。
俺はしばらく、ただ黙して窓の外を見つめていた。
橙色を徐々に失いつつある空。遠からず、夜が訪れる事を感じさせる風景。
「……ハハ。何てザマだよ、全く」
自然と呟いてしまった瞬間、力のない笑みが溢れた。
記憶なんて整理するまでもない。結果的に俺は、守る事ができなかったんだ。
人眼に晒したくはなかったはずの力を行使して、俺の命を救ってくれた少女を。
リネ・レディア。彼女の正体は、滅亡したと言われる『妖魔』一族の生き残りだった。
『倒王戦争』終結から十二年。その長い年月を、彼女は一体、どのように過ごしてきたのだろう?
辛く感じる時はなかったのだろうか。
心細く思う日はなかったのだろうか。
そんな彼女の事を気にも掛けず、知ろうともせず、自分の事しか考えてこなかった薄情者は、一体どこの誰だ?
あの黒髪の少女との繋がりが、大切なものになり始めていたのだと、意識を失う寸前まで気付けなかった愚かしさ。全く以て本当に、情けないにもほどがある。間違いなく、この結果は当然の報いだ。
自然と俯いてしまった俺は、両手を強く握り締めた。白く透き通ったシーツに、クシャリと皺ができる。
と、その時だった。
部屋の扉が数回ノックされ、静寂な室内に乾いた音が響き渡った。
来客だとわかったものの、特に感慨の湧かなかった俺は、黙ったままベッドから降りなかった。すると、今度はドアノブを回す音が聞こえ、開いた扉から誰かが室内に入ってきた。
「……! ディーン、眼が覚めたのか」
ベッドに視線を落としていた俺は、呼び掛けられてようやく顔を上げた。
声の主はジンだった。俺が眼を覚ましていた事に安堵しているらしく、穏やかな表情を浮かべて、ベッドの傍へと歩み寄ってくる。
「……説明を求めても、構わないか?」
言いつつジンは、ベッドの傍にあった椅子に腰を下ろす。
心配そうな表情で告げられた友人の言葉に、少しだけ躊躇いを覚えたものの、俺は一部始終を話して聞かせた。
俺が話している間、ジンは一度も口を挟もうとはせず、ただ黙って、静かに耳を傾け続けていた。
「……なるほどな。それが、リネが語ろうとしなかった物の正体か……」
軽く俯いている俺は、ジンが何度か頷くのを気配で感じ取った。
「それなら、あの遺跡での出来事にも説明がつく。彼女が長髪の男の死を目撃して気を失ったのは、一族が抹殺される光景が重なって見えてしまったからだったんだろう。……尤も、その辺りは本人に聞いてみない事にはわからないが……」
ジンの推論をほとんど聞き流したまま、俺は尚も暗い気分に浸っていた。
命の恩人たる黒髪の少女は、今頃どこで何をしているのだろう? あのアーベントが傍にいる以上、彼女の身が危険に晒されている可能性は、充分に考えられるが……。
「――元老院の方々に報告した事で、ようやく思い出した」
重い沈黙がしばらく流れた後、ジンが話題の転換を図るかのように、そう切り出した。
「どうやらあのアーベントという男、『倒王戦争』が起こる以前は、貴族だったらしい。俺が聞き覚えがあったのは、『ディベルグ』というセカンドネームの方だったんだ」
「……へぇ」
真剣な話の最中だとわかっていて、それでも俺は気のない返事を返した。するとその瞬間、ジンとの間に張り詰めたような空気が一瞬流れる。
が、まるで気を取り直そうとするかのように、ジンは再び説明をし始めた。
「ディベルグ家はかつて、五大貴族と呼ばれていた貴族の一つでな。『倒王戦争』以前は、『魔王』の右腕として城に仕えていたそうだ。だが知っての通り、『倒王戦争』で前テルノアリス王が倒された後、『魔王』側に就いていた貴族の殆どは、その権利を剥奪され、城を追われる身となっている。奴もその中の一人だったという訳だ」
「……ふぅん」
ジンの説明を聞いても、特に何の感慨も浮かばない。今更そんな事を知っても、何かが変わる訳じゃないし、どうでもいいというのが素直な気持ちだった。
尚も生返事をし続ける俺を、ジンはしばらく無言で見つめていた。が、一旦椅子から立ち上がると、またすぐに説明を続けていく。
「元老院は、アーベント・ディベルグを最重要犯罪人と決定し、身柄を拘束、もしくは殺害も視野に入れて行動を開始した。今正規軍の内部で、討伐隊も編成され始めている。明日の朝には、大規模な捜索が始まるだろう。事態がここまで動いている以上、奴がすでにこの街にいるという事を、すぐにでも知らせなければならない」
「……そうだな」
俺から覇気が感じられない事に、ジンはとっくに気付いているだろう。ここまで敢えて指摘しなかったようだが、ついに我慢の限界が訪れたらしい。
ベッドの傍らに立ったジンは、俺の肩を力強く掴むと、少し苛立ちが混じったような声で詰め寄ってきた。
「ディーン、ちゃんと聞いているのか?」
「……聞いてるよ」
「悪いがそうは見えないぞ。今のお前は、完全に上の空だ。……まさかとは思うが、俺には全く関係ない、なんて思っているんじゃないだろうな?」
「……うるせぇな」
俺の中で、何かが我慢できなくなっていた。
辛辣とも言えるジンの詰め寄り方に、俺はようやく顔を上げる。両手を強く握り締め、威圧するつもりでジンを睨んだ。
「言われなくてもわかってんだよ! アーベントの野郎を止めるんだろ? 『首都』を守らなきゃいけねぇんだろ? 大切な事だって言いたいんだろ? そんな事わかってんだよ!! だけどそれが何だ! 何でそれをわざわざ俺に報告するんだよ!? それこそお前の言う通り、俺には全く関係ない事だろうが!!」
「本気でそう思っているのか? 自分には関係のない事だと」
「ああ、思ってるよ! だったら何だ!?」
「……なら聞くが、どうしてお前は責任を感じているんだ?」
「ッ!」
たった一言。冷静な口調で放たれた一言で、俺は簡単に反論の余地を失ってしまった。
俺が言葉に詰まるのを良い事に、ジンは一切黙ろうとしない。すぐさま追い討ちを掛けてくる。
「アーベントを止められなかった事に、憤りを感じているのか?」
「……うるせぇ」
「奴に敗北を喫した自分に、怒りを感じているのか?」
「うるせぇ!」
「それとも、リネを守れなかった自分の非力さを悔やんでいるのか?」
「うるせぇって言ってんだろ!!」
耳障りな雑音を吐き続ける誰かを、力任せに殴り付ける。そんな考えしか浮かばなかった俺は、ベッドから勢い良く立ち上がり、その誰かの胸倉を掴んで、右拳を思い切り、相手の左頬に叩き込んだ。
殴り付けた拍子に、相手を巻き込む形でベッドから転げ落ちてしまった。息を荒げ、相手の胸倉を掴んだまま馬乗りになった所で、やっと理性が戻り始める。
自分が誰を殴り付けたのか。
そして今また、自分は誰を殴り付けようとしているのか。
「……俺の、せいだ」
絞り出すように言葉を紡ぐと、床に倒れたままのジンが、静かに声を掛けてくる。
「彼女が連れ去られたのが、か?」
「……俺が、俺が弱いせいだ。何も……、見えてなかったからだ。何も気付いてやれなかったからだ……!」
自分自身に対する怒りで、ジンの胸倉を掴む手が小刻みに震えている。ふと気付くと、視界がぼやけて、俺を見上げる友人の顔が歪んで見えた。
その理由は考えるまでもない。
いつの間にか、俺の瞳には涙が溜まっていた。
堪え切れず、雫となった涙が、ゆっくりと頬を伝い落ちていった。
「――すまなかったな」
俺が落ち着きを取り戻した頃、窓辺に立っているジンが静かにそう告げた。
ベッドの端に腰を掛けていた俺は、理不尽な暴力を振るってしまった申し訳なさから、彼に背を向けたまま口を開く。
「何でお前が謝るんだよ……。悪いのは俺だろ?」
「フッ……。彼女と似たような事を言うんだな」
「えっ?」
疑問に思って振り返ると、ジンは「何でもない」と言って微笑した。やや腫れた左頬の事を気にする様子も見せず、彼は部屋の扉の方に向かって、ゆっくりと歩き出す。
「色々あって疲れてるだろ? リネが治してくれたとはいえ、怪我をしていた事に変わりはないんだ。今日はもう休め。――ああ、もう気付いてると思うが、ここは『テルノアリス城』の一室だ。その辺の宿に泊るより、色々と豪華だぞ」
「でも、本当にいいのか? 俺なんかが勝手に借りたりして」
「心配しなくても、王族に話は通してある。変に気兼ねせず、好きに使うといい。……とは言っても、それ相応の節度を持って使えよ?」
こちらに指差ししながら、何事もなかったかのように、ジンは優しく笑ってみせる。
そう言われても、こういう豪華な雰囲気って苦手なんだよな……。って言うか、王族と話ができるって、お前一体どういう立場の人間なんだよ?
内心首を捻る俺を他所に、ジンは部屋の扉を開けながら、ふと思い出したように視線を投げてきた。
「そういえばディーン。俺が教えた店、『ライム』には行ってみたのか?」
「え? ……あ、いや悪い。店の近くまでは行ったんだけど、邪魔が入っちまってさ」
「そうか、ならいいんだ。じゃあ、ゆっくり休めよ」
苦笑混じりにそう言うと、ジンはこちらの返答を待たずに、部屋を出て行ってしまった。
一人取り残され、言葉にできなかった疑問を、頭の中で繰り返す。
お前が行かせようとしてるその『ライム』って、一体何の店なんだ?
◆ ◆ ◆
「我らは明日、ついに行動を起こす。その行動によって生温い現政権は終わりを告げる。そして我らが奴らに取って代わり、新たな政治、そして新たな時代を創るのだ!」
アーベントが高らかに宣言すると、大勢の人間の怒号のような叫び声が辺りに響き渡った。
彼は今、壇上のような少し高い位置に立って、演説を行っている。それによって起こる空気の振動を肌で感じながら、後ろ手に拘束されているリネは、そっと周囲を見回した。
現在地は、ようとして知れなかった。
廃材置き場でアーベントに連行されたリネは、すぐさま銃を取り上げられ、両手を拘束されると共に、目隠しを施されてしまった。故に自分がどのような経路を辿って、ここに連れて来られたのか、全くわからないのだ。
(一体どこなんだろう、ここ……)
ほんの数分前に、目隠しを外されたばかりのリネは、少しでも情報を得ようと視界を巡らせる。
眼の前には、まるで小劇場のような空間が広がっている。先ほどのアーベントのように、演説する人間が上るための舞台はあるが、座席のような物は見当たらない。薄暗い空間を所々照らしているのは、壁際に不規則に配置された松明の炎だ。窓がない所を見ると、恐らくどこかの地下に造られた空間だと思われる。
その空間の至る所に、黒いフーデッドマントをまとった人間が佇んでいる。正確な数はわからないが、恐らく五十を下回ってはいない。
自由に歩き回る事ができれば、もう少し細かい所まで調べられるのだろうが、生憎傍らには、アーベントの部下らしき男が、監視役として張り付いている。いかに両足は拘束されていないとはいえ、迂闊な真似はしない方が懸命だろう。
「気分はどうだ、『妖魔』の生き残り。いや、『化物』と呼んだ方がいいか?」
演説が終わり、集合していた人間達が何処かへと散っていく。それに合わせて、アーベントがこちらへ近付いてきた。
開口一番にそんな台詞を聞かされたリネは、せめてもの抵抗の意思表示として、顔をしかめた。
不敵な笑みを湛えたその表情を見ていると、何だかとても気分が悪くなってくる。悪意の塊を人間に例えたら、多分この男が一番当て嵌まるのではないだろうか。
「あなたみたいな頭のおかしい人に付いて行こうとする人って、あんなに大勢いたんだね」
質問に対する答えではなく、精一杯の悪態をつくリネ。できるだけ口を悪くしたつもりだったのだが、やはりどこぞの少年のように上手くはいかない。
その証拠にアーベントは、痛くも痒くもないといった様子で軽く受け流してしまう。
「クク、小娘の割には強気な発言だ。……まぁいい。明日の今頃には全てが変わっている。いや、終わっていると言うべきか。『首都』の人間達には、新たな時代の礎となってもらおう。もちろん、貴様が守ろうとしていた、あの未熟者にもな」
「!」
弱みを見せないよう、必死に虚勢を張っていたリネは、最後に付け足された言葉で簡単に動揺してしまった。
強張るリネを嘲笑うように、アーベントは不快な笑みを見せながら顔を近付け、耳許で囁く。
「安心しろ。貴様が身を挺してまで命を救った人間だ。せめて奴を殺すのは、一番最後にしてやる」
「……!」
「さて。ではそのためにも、まずは貴様に役立ってもらうとしよう」
そう言って身体を離すと、アーベントはマントの内側から何かを取り出した。
視線を向けてようやく理解する。彼の手に握られているのは、刃渡り十五センチほどのナイフだ。
彼が何をするつもりなのか。自分が何をされるのか。リネは瞬時に悟った。
大切な少年を守るため、自らが提案した取引。自身の『血』を提供する、という言葉の意味がここにある。
『妖魔』一族の血には、『魔術』の力を増幅させる効力があるのだ。
『魔術戦争』時代、一部の『魔術師』達が『妖魔』の血を引く人間を捕らえ、血を一滴残らず絞り出し、『魔術』の力の増幅剤として使っていたという『史実』がある。一族の間で語り継がれていたその事実を、もちろんリネも知っていた。
だからこそ、覚悟できているつもりでいた。例え傷付けられても、堪え切れると思っていた。
しかし、いざ眼の前に脅威が現れた瞬間、それらの決意は実に呆気なく、音を立てて崩れ去ってしまった。
凶器を握り、不敵な笑みを浮かべたアーベントが迫る。
リネの身体に脈々と流れる、紅き液体を奪い取るために。
「あうっ!」
逃げる事は、叶わなかった。焼けるような鋭い痛みが、左の二の腕辺りに走る。
見るとアーベントが振るったナイフの刃先に、僅かに血が付着していた。どうやら左腕を、浅く切り付けられたらしい。
アーベントはリネの血で紅く染まったナイフを見つめ、どこか感慨深げに口を開く。
「『妖魔』の血か。彼の一族に関する史実が本当なら、これで俺の『印術』を強化する事ができるはずなのだが、さて……」
アーベント自身、史実を鵜呑みにし切れていない部分があるらしい。しばらくナイフの刃と無言の格闘を続けていたが、ようやく彼の腕が動いた。
ナイフの刃を口許に近付け、乾き始めていたリネの血を、唾で湿った舌でかなり強引に舐め取った。
眼の前でそれを見せつけられたリネは、傷その物の痛みと、自分の身体を舐められているかのような錯覚で、全身が総毛立った。
血を舐めるという行為自体、言葉にならないような気色悪さがある。だというのに、アーベントは意に介した様子が全くない。まるで、この程度で騒ぎ立てるなとでも言われているかのようだ。
血を呑み下し、ナイフを無造作に放り捨てると、アーベントは鎧をまとった両手に、静かに視線を落とす。
「……これといって変化は見られない気がするが、まぁいい。少し試してみるか」
やや気の抜けた言葉と共に、アーベントは左腕を正面に翳した。
焼き払われる――!
反射的にそう感じたリネは、咄嗟に瞳を固く閉じた。
自分の身体が焼かれ、真っ黒な屍になっていく様を想像したリネだったが、ふと気付く。
痛みがない。それどころか、熱ささえ感じない。
不思議に思い、恐る恐る目を開けた、その瞬間――
「ぐぎゃあああああああああああああっ!!」
背後から激しい熱波と共に、狂気に染まったような叫び声が聞こえてきた。
突然の事に驚き、振り返った瞬間。
眼の前が、紅く塗り潰されていた。
人間が燃えている。煌々と。紅々と。
まるで松明の炎のように燃え盛っているのは、リネの監視役を任されていた男。つい先ほどまで、何の疑いもなくアーベントに従っていたはずの人間だ。
「どうして……、こんな……っ!」
容赦のない、非道な真似ができるのか。この男は、仲間なのではないのか。
肌身を焦がすような熱気と畏怖に苛まれながらも、リネは炎を放った者を肩越しに見つめた。
「クハハハハハハ! これはいい! たった少量でこれほどの力が得られるとは! 最高だ! これがあれば俺は……! クハッ! クッハッハッハッハッハッハッ!!」
アーベントは笑う。強烈な笑みを湛えたまま、高らかに。
そんな狂気染みた男の姿に、自然とリネの身体は竦み上がった。悪寒が走り、背筋が凍り付いたような感覚に襲われる。
人の皮を被った人ではない者が、燃え盛る炎を見つめ、笑い続けている。
その純粋過ぎる邪悪さはまるで、死を撒き散らす悪魔のようだった。
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