第七章 過去から逃れる術は無く

『首都・テルノアリス』は、ジラータル大陸最大の都市であり、大陸内の政治を動かす王族や貴族が住まう、巨大な城がある街だ。都市全体を囲むように、二十メートルにも及ぶ高さの外壁が、東西南北二キロメートルに亘って張り巡らされている。

 外壁の袂には、徒歩専用の出入り口となる門が、東西南北にそれぞれ二カ所ずつあり、その門の横を通過する形で、線路が都市の内部にまで伸びている。

 リネは今回が初めてらしいが、俺は昔、ミレーナに連れられて何度か『首都』へ来た事がある。俺も初めて『首都』の街並みを見た時は、その広大さに驚いたものだった。

 上空から見る事ができれば、正方形型になっているはずの『首都』の中心にそびえるのが、目的地である『テルノアリス城』だ。

 体格の良い二人の門番が控える南西門の検問所を抜け、都市内部に入ると、そこにはまさしく別世界が広がっていた。

「うわぁ~! 凄~い!」

 まるで宝石でも眺めているかのように、リネは目を輝かせながら、忙しなく辺りを見回している。

 まぁ興奮するのも無理はない。今まで歩いてきた荒れ果てた荒野から、まさに様変わりという感じだからな。

 大小様々な大きさの建物が並ぶ大通りには、武具を扱う店、野菜や果物を売る商店、昼間から賑わっていそうな酒場、お洒落な看板を軒先に飾る洋服店などなど。初めて見る者にとっては、眼を引く物ばかりだ。大通りを行き交う人の数も、大陸に点在するどの街よりも遥かに多く、その広さも比較にならない。

 何度か来た事があるとはいえ、俺も気を付けていないと道に迷いそうだ。

「とりあえず、俺はこれから城に向かおうと思うが、お前達はどうする?」

 遠く都市の中心に見える白い巨城を見つめた後、ジンがこちらに視線を投げつつ尋ねてきた。

「そうだな、俺達は――」

 と、逡巡しようとしていた俺の耳に、明るく呑気な声が届いてくる。

「あ! あれ何だろ!? おもしろそ~!」

 一体何を見つけたのか、俺が振り向いた時には、すでにリネは何処かへ向かって走り出していた。

 ジンと共にその場に取り残された俺は、遠ざかる少女の背中を見つめ、盛大な溜め息を吐く。

「……とりあえず、俺はあのバカを回収してくる」

「フフ。ご苦労様、だな」

 苦笑するジンを横目に歩き出そうとした俺は、しかしある事を思い付いてその足を止める。そういえばまだ、肝心な事を決めていなかった。

「王族への報告が済んだら、どこで合流する?」

「ん? ああ、そうだな……」

 問い掛けると、ジンは顎に手を当ててしばらく考え込んだ後、何かを思い付いたようにこちらを見た。

「都市の東側、ジェニック通りにある『ライム』という店を知ってるか?」

「『ライム』? ……いや、聞いた事ねぇけど」

「わからないようなら、この先に都市の案内所がある。そこで店の場所を尋ねるといい」

 ジンは通りの前方を軽く指差しながら、どこか面白そうな表情で告げる。

 思わせ振りなジンの提案に、俺はやや首を捻った。わざわざ案内所を利用させてまで、その『ライム』とやらに行かせたい理由があるのだろうか?

「単なる待ち合わせ場所だってのに、妙に拘るな。その店に何かあんのかよ?」

「まぁ、行ってみればわかるさ。ジン・ハートラーの知り合いだと店主に言えば、それで通じるはずだ」

「はぁ……」

 生返事を返す俺の肩を軽く叩いて、ジンは人混みの中に消えていった。

 対して、一人取り残された俺は、首を捻り続ける。何だか隠し事をされているみたいで、酷く気になってしまう。

 ……というか、なるほど。今更になって、リネの心情が理解できたような気がする。確かにあんまり、気分の良いもんじゃねぇな。

「ってそうだ! リネの奴どこ行った!?」

 僅かな時間とはいえ、完全に失念していた俺は、慌てて辺りを見回してみた。

 だが当然と言うかやっぱりと言うか、近くにリネの姿は見当たらない。大通りには昼間というせいもあってか、多くの人々が行き交っている。

「あんの好奇心旺盛娘ぇ……! 少しはジッとしてらんねぇのか!」

 目を離したお前が悪い、とどこかの誰かに言われそうな気がしたが、構わず俺は走り出した。

 どうやら、ジンが紹介してくれた『ライム』という店に行くのは、確実に遅れる事になりそうだ。




 ◆  ◆  ◆




「……やべぇ。迷った」

 恐らく一時間は経過しただろう。リネを捜して、不馴れな街の中を右往左往している内に、気付けば自分が道に迷ってしまっていた。

 ジンに教えられた案内所に立ち寄っておけば、もう少しマシな結果になっていたかも知れない。やはり、何度か来た事のある街だからという油断が、仇となってしまったようだ。

 しかしどうすっかなぁ。一旦城を目指して、ジンに協力してもらうか?

 迷ってしまったとはいえ、都市の中心に位置する『テルノアリス城』の姿は、ここからでも辛うじて見えている。あれを見失わないように上手く進めば、辿り着く事は可能なはずだ。

 ったく、何だって俺がこんな面倒な真似を――

 と、行方不明である少女に対して、悪態をつこうとした時だった。ふと視界の端にある物を見つけ、歩みを止める。

 それは数メートル先にある、店の看板と一階建ての煉瓦造りの建物。その上部に掲げられた鉄製の看板に、『LIME』という文字が書かれているのだ。

 見間違い、読み間違いでなければ、あれは『ライム』と読むのではなかろうか。

「もしかしてジンが言ってた店って、これか?」

 おいおい、見つけちまったよ。まさかリネより先にこっちを見つけるとは……、何か複雑な気分だ。

 俺は少し離れた所から、その建物の様子を窺ってみた。

 建物には『LIME』と書かれた看板以外、目立った装飾類が見当たらない。どういう店でどんな商売をしているのか、外側からではわからなかった。

 ……一体、何屋なんだよあの店。こんな怪しい店にジンが出入りしている事も不思議だが、あいつが何のために俺をここへ行かせようとしていたのかが、さっぱりわからない。


 あまりに質素な外観のせいか、逆に怪しさすら感じてしまう。こんな得体の知れない店にジンが出入りしていることも不思議だが、彼が何の為にここへ行かせようとしていたのかがさっぱりわからない。

 いずれにしろ、ここでジッとしていても埒が明かない。あの店が何なのかを確かめるには、中に足を踏み入れるしかないだろう。

 意を決して、俺は店の入り口に向かって歩き出した。

 しかし、その瞬間。

「また会ったな、紅い髪の少年」

「!」

 突然、背後から聞き覚えのある声がして、俺は思わず立ち止ってしまう。声の主に、心当たりがあったからだ。

 昨日の今日で忘れるはずがない。昨夜あの遺跡で遭遇した謎の男、アーベントの声だ。

「おっと。動くなよ」

 振り向こうとした俺の背中に、何か鋭く尖った物が触れた。恐らくナイフのような物だろう。

 俺はその場に佇んだまま、背後のアーベントに声を掛ける。

「まさか、こんな所であんたに会うとは思わなかったぜ。買い物でもしてたのか?」

「クク、本当にそう思うか?」

 背後でアーベントが愉快そうに笑う。動くなと言われたばかりだったが、ほんの少しだけ首を回し、背後に視線を向ける。

 アーベントは最初に会った時と同じように、フードを被ってその表情を隠している。

「冗談に決まってんだろ。……ここで何してやがる」

「まぁ、ちょっとした下準備をな。その作業も終わりそうだという所で、偶然貴様を見つけたという訳さ。――良い機会だ。少し話をしようじゃないか、少年」

「話? テロリストが俺に何の用だ」

 訝しく思って尋ねると、アーベントは僅かに辺りを気にするような素振りを見せた。

「ここでは人目につく。せっかくだから場所を変えよう。余計な邪魔が入らないためにもな」

「俺がそれに従うと思うのか?」

 挑戦的な俺の言葉に、アーベントは「ふむ……」と声を漏らした。そして数秒考えるような仕草を見せたかと思うと、平淡な口調でこう言い放ってきた。

「ならば仕方がない。昼間から街の大通りで、惨劇を見る事になるだけだ」

「! まさかてめぇ……!」

 告げられた瞬間、俺はその言葉の意味を悟った。

 従わなければ、周りの人間に危害を加えると、暗にこちらを脅している。

 通りを歩く人々は、俺達の間でどんなやり取りが行われているのか、全く気付いていない。自分達の身に危険が迫っていると、想像すらしていないだろう。

「察しが良くて何よりだ。さぁどうする? 少年」

「……!」

 肩越しに見えるアーベントは、フードのせいで表情が読み取れない。だが、その声を聞けばわかる。この男は本気だ。俺が従わなければ、周りの無関係な人間に危害を加えてしまうだろう。

 こうなるともう、選択の余地はない。

「……わかった。どこに行けばいい?」

 黙って従う事に若干の抵抗を覚えたが、今はこうするしか方法がない。

 俺が同意すると、アーベントは満足そうに口を開いた。

「そこの角を右に曲がれ。目的地に着くまで、妙な真似はするなよ」

 背中をナイフのような物で軽く押され、俺はアーベントと共に歩き出す。

 通りを行き交う人混みに紛れ、『首都』を狙うテロリストと、まるで友達のように街中を歩くという、何とも奇妙な体験の幕開けだった。




 ◆  ◆  ◆




「どうしよう。迷っちゃった……」

 大通りの一角で、一人肩を落とすリネ。同行者である少年二人と逸れてしまってから、どれくらい時間が経っただろうか。

(やっぱり、無理してはしゃぎ過ぎたのがいけなかったかな……)

 様子がおかしいと悟られたくなかったリネは、元気を装ってあちこち動き回っていた。

 それが完全に仇となったのだろう。ふと気付けば、後を追ってきていると思っていた二人の姿は見当たらず、自分が今どこにいるのかすらわからなくなっていた。

 今頃二人はどうしているだろう? 恐らくジンなら、リネの身を案じてくれそうなものだが、問題はディーンの方である。


『何で俺が捜さなきゃいけねぇんだよ、面倒臭ぇ』


 と、仏頂面を浮かべて捜そうともしない様子が、リネには容易に想像できてしまうのだ。

(こういう時のディーンって、特に冷たいもんなぁ……)

 髪の色とは正反対の冷たさを発揮するディーンの姿を思い出し、自然と俯くリネ。しかし、何気なく自分の右手を見つめた瞬間、ある思いが湧き上がってきた。

 この街を訪れる少し前、リネが無理矢理握った手を、ディーンは振り払おうとはしなかった。しばらくして照れ臭くなった彼女が手を離すまで、ずっと。

 こうして右手を見つめていると、あの時感じたディーンの体温が、蘇ってくるような気がする。

 それが本当に、とても嬉しくて。

「捜してくれてるといいな、あたしの事」

 気が付くと、リネはそんな風に呟いて微笑んでいた。それが隠しようのない本音だと理解しつつ、リネは右手を優しく握り締める。

 捜していてほしいのは事実だが、だからといって人任せにしておく訳にはいかない。こういう時こそ、自分から捜しに行くべきだ。

 そう思って、歩き出そうとした時だった。

「――準備はできたか?」

 人気のない裏通りへと続いている、建物と建物の間にできた細い脇道。その入口付近に差し掛かったリネは、誰かが小声で話している事に気が付いた。

 何となく不穏な雰囲気を感じ取ったリネは、建物の陰に身を隠し、そっと裏通りの方を覗いてみた。

 距離は五メートルほど離れているだろうか。陽の光が届きにくくなった裏通りの一角で、黒いフーデッドマントをまとった複数の人間が、輪を作って何かを話し込んでいる。皆一様にフードを被っているため、人相も性別もはっきりしない。

(あんな所で何してるんだろ?)

 疑問に思うリネを他所に、怪しげな人物達の内の誰かが口を開く。

「問題ない。いつでも行ける」

「よし、ならば急ごう。直にアーベント様も、指定の場所に着くはずだ」

(! アーベント……!?)

 確かその名前は、昨夜ディーンとジンが遭遇した、テロリストのリーダーの名前ではなかったか。

 衝撃のあまり声が出そうになったリネは、慌てて自分の口を塞いだ。裏通りの方の様子を窺ってみるが、どうやら気付かれてはいないらしい。

 やがて件の人物達は、裏通りの奥へ向かって足早に進み始めた。その背中が、足音が、徐々に遠退いていく。

(もしかして今の人達、テロリストの一味なんじゃ……)

 物陰から出たリネは、裏通りの奥を見つめて立ち尽くした。

 証明できるものは何一つない。アーベントという名前も、ただ同じだけの別人のことかも知れない。

 だが、もしも自分の予想が当たっていたら。このまま彼らを見送る事で、何らかの被害が出てしまったとしたら。

 また目撃する羽目になるかも知れない。

 あの悍ましい光景を。

 ずっと忘れられずにいる、あの惨劇を。

「……確かめなきゃ。自分の眼で」

 不安も恐怖も確かにある。だが、だからといって見過ごせない。

 ディーンやジンが、『あの光景』に巻き込まれる可能性がないとは、言い切れないのだから。

 挫けそうになる心を律して、リネは裏通りへと足を踏み入れた。

 眼前には、闇へと繋がる道が続いている。




 ◆  ◆  ◆




 強制連行を余儀なくされた俺が辿り着いたのは、街の外壁近くにある廃材置き場のような所だった。未だ微かに見えている『テルノアリス城』の姿と、太陽の位置から考えると、どうやらここは街の南東、丁度外壁の角の部分のようだ。

 いくら人が大勢いるこの都市とはいえ、さすがにここまで来ると人気は全くない。

「ここまで来れば問題ないだろう。ではゆっくり語らうとするか、少年」

 背後でアーベントが立ち止まるのを感じて、俺は前方に進んで距離を取り、振り返った。

 するとアーベントは、右手で深く被っていたフードを捲った。短く尖った山吹色の髪が現れ、不敵な笑みを湛えた顔が露わになる。

「昨日と同じ質問をもう一度させてもらう。貴様は一体何者だ? ミレーナ・イアルフスと、どういう関係にある?」

 悠然と佇むアーベントの動きに警戒しつつ、俺は意を決して口を開く。

「ミレーナは戦争孤児だった俺を拾い、育ててくれた恩人だ。それと同時に、『魔術』を教えてくれた師匠でもある」

「ほう……、親代わり兼師匠とはな。また随分と慈悲深い行いをしたものだ」

「あんたの方こそ、ミレーナとはどういう関係なんだ?」

「白々しい質問だなぁ、イアルフスの弟子。薄々勘付いてはいるんだろう?」

 アーベントは語りながら、警戒する俺の隣を歩いて通り過ぎていく。

「『倒王戦争』の生き残り、なのか」

「ああ、その通りだ。俺は『魔王軍』、あの女は『反旗軍』。陣営こそ違うが、共にあの戦を生き抜いた人間だ」

 立ち止まり、俺の方を振り返るアーベントは、再び不敵な笑みを見せた。

「奴とは戦場で何度も顔を合わせた。だからこそ、誰よりも『深紅魔法』の事は知っている。あの女の忌々しい『魔法』は、今でも脳裏に焼き付いているからな。しかしまさか、それを操る全くの別人が現れるとは、夢にも思わなかったが……」

 余裕を感じさせるその表情に、少々の苛立ちを覚えながら、俺はアーベントを睨み付け、再度問い掛ける。

「ミレーナは今、どこにいる。あんたなら居場所を知ってるんじゃないのか?」

「ほう……。貴様がそんな台詞を吐くという事は、どうやら『あの噂』を耳にしたようだな。なるほど、それは弟子の立場からすれば、さぞ心中穏やかではいられまい」

「はぐらかすな! ミレーナはどこだって聞いてんだよ!」

「さぁ、どこだろうなぁ。噂通りその辺の村か街で、テロリストと仲良く戯れているんじゃないのか」

「てめぇ……!」

 嘲るようなアーベントの態度に、己の自制心が緩くなっていくのを感じる。少しでも油断すると、身体に籠り始めた熱が、一気に爆発してしまいそうだ。

「そう熱くなるな。心配せずとも、『首都』を相手にした戦は直に始まる。余分な熱さは、その時まで取っておけ」

 敵愾心を剥き出しにする俺を制するかのように、アーベントはあくまで落ち着き払った口調で語る。

 奴の態度は癪に障るが、確かにそれも一理ある。上手く情報を引き出すためにも、ここで冷静さを欠くべきではないだろう。

 小さく、静かに息を吐き、俺は高ぶり掛けた心を落ち着かせる。

「あんた、本気で王族を殺すつもりなのか」

「無論だ。そのために俺は、こうしてここにいる」

「現政権の顛覆なんてくだらない真似して、一体何がどうなるってんだ?」

「はて……、問われている意味がわからないな」

 言いつつアーベントは、心底呆れたような表情を見せた。気だるそうに右手で頭を掻いたかと思うと、だが次の瞬間には、俺の心臓を射抜くかのような鋭い眼差しを向けてくる。

「どういう意図があって、そんな質問をしている? 王族を殺そうとする俺を制止するためか? それとも俺の行いを愚行だと決めつけ、否定するためか? だとすれば片腹痛いな。どうやら貴様は、何もわかっていないようだ」

「何だと?」

「何かを変える事が目的なのではない。戦いを求める事に、戦う事に意味があるのさ。あの戦争で歪んでしまった俺のような人間は、所詮そうする事でしか己の『存在意義』を確かめられない。――それは少年。『魔術師』である貴様にも言える事だぞ」

 俺の周囲をゆっくりとした歩調で回りながら、アーベントは躊躇う素振りも見せずに続ける。

「『魔術師』とは歪んだ存在だ。殺傷に特化した自らの技術を使い、他者の命を奪う。そんな悍ましい行為がこの大陸で、一体どれだけの間続けられてきたと思う? 永きに渡る争いで数が減少しているにも拘らず、未だに『魔術師』が存在し続けているのは、どうしてだと思う? ……答えは簡単だ。『魔術師』となった者達も皆、戦いを求めているからだよ。他者と争い、戦う事でしか己の『存在意義』を見出せない。俺と貴様の間には、区別できる差など何一つないのさ」

「そんな事――」

「ならば問うが、貴様が慕うミレーナ・イアルフスはどうだった? 今の貴様のように、胸を張って違うと否定していたのか?」

「!」

 即座に否定しようとした俺は、その言葉で口を噤んでしまう。

 そんな俺の反応を面白がっているかのように、再び正面に立ったアーベントは、不愉快な笑みを浮かべてみせる。

「フッ、どうやら思い当たる節があるようだな」

 思わずとはいえ黙り込んでしまった自分自身に苛立ちを覚え、俺は奥歯を強く噛み締める。

 実際、奴の言葉は的中していた。

 ミレーナは俺の前で、一度たりとも自身の立場を誇った事などない。常日頃から繰り返し、自らの存在をただの人殺しだと言って蔑んでいた。自分は決して、称賛されるような立派な人間ではない、と。

 恐らく、彼女は否定し続けていたんだ。

 人を殺すために造り出されてしまった技術を。

 自らが手にした力である、『魔術』を。

 俺は、そんな師匠の姿を見ていたくなかった。自分を蔑む言葉を吐き続ける彼女を目にするのが、耐えられなかった。

 だから俺は、『魔術師』になって証明しようと決めたんだ。

『魔術』は、人を殺すためだけの技術ではない、と。

 そんな経緯を、この男は一切知らない。知っている訳がない。だからわからないんだ。

 俺がどれだけ、ミレーナとの誓いを大切に想い続けているのかを。

「貴様も認めてしまえば楽になるぞ? 俺『達』は、互いに戦いを求め続ける存在なのだと。そして理解するんだ。戦いを、争いを求めるためには、それを奪おうとする現政権、元老院や王族の者共を抹殺するしかないとな!」

「……何もわかってないのはあんたの方だろ」

 拳を硬く握り締め、俺は口を開く。

 胸の内に、煮え滾るような熱い感情を生み出しながら。

「邪魔だから殺そうってのかよ。そんなくだらない理由で、ミレーナが……『英雄』達が必死の思いで作った今の平和を、あんたはブチ壊そうって言うのか?」

 溢れ出る怒りに任せて、俺はアーベントを強く睨み付けた。

 だが、意に介した様子のない敵対者は、氷のように冷たい眼差しでこちらを見つめ返してくる。

「……『平和』だと? 貴様は一体、この世界の何を見ている? どこを見てそう言っている? 戦争と呼ばれない争いなど、この世界のどこにでも、数え切れぬほど存在しているだろう。それを無視して貴様は、『世界は平和だ』などと綺麗事を抜かすのか? クク、何とも傲慢な考え方だな。――覚えておくがいい。争いのない世界など、所詮は夢物語に過ぎんのだ。争いが生まれる事で戦いが起こり、戦いが起こる事で戦争へと繋がるのさ」

「ふざけんな! あんたのその言葉こそが傲慢だ! 戦いを起こそうとしてる張本人が、そんな台詞吐いてんじゃねぇよ!」

「クク、何とでも言え。すでに戦いの準備は整っている。我々を止めたければ、力尽くで止めてみせろ、イアルフスの弟子!」

 アーベントが高らかに叫んだ、その直後だった。周囲の路地から、複数の足音が聞こえてきた。

 俺を取り囲むかのように現れたのは、黒いマントに身を包み、フードで顔を隠した六人の人間。容姿も性別もはっきりしない人物達は、不気味なほど無言のまま、俺を見据えて佇んでいる。

 炎剣を造り出すため、俺はほんの僅かに右手へと意識を向けつつ、正面のアーベントを見据えた。

「大人数でなぶり殺そうって訳かよ? 見た目通り悪趣味なんだな、あんた」

「褒め言葉として受け取っておこう。心配しなくても、こいつらはただの見物人だ。貴様の相手は、直々にこの俺がしてやる」

 そう言って、アーベントは黒いマントの内側からロングソードを抜き出した。切れ味の良さそうな刀身に、奴の不敵な笑みが映り込む。

 それを合図と受け取って、俺は突撃を開始した。発生させた炎が右手に集束し、一瞬で紅い剣へと姿を変える。

 上段高くに構えた炎剣を、一気呵成に振り下ろす。

 それで全ては決する。アーベントのロングソードは、爆炎によって刀身が砕け散るのだから。

 だが俺の予想に反して、アーベントは後退しようとしなかった。上段から放った一撃を、下段からの逆袈裟斬りで迎え撃とうとしている。

 やがて互いの斬撃が、衝突した瞬間だった。


 視界に捉えた光景に、我が眼を疑ったのは。


 爆炎が、発生しない……!?

 驚愕する俺を嘲笑うかのように、『深紅魔法』の能力は発揮されないまま、通常の剣同士が衝突した時のような、鍔迫り合いの状態が続くばかりだ。

 一体どういう事だ? どうして俺の『魔術』が――

「不思議で仕方ない、と言いたそうだな」

「!」

 俺の表情から内心を悟ったのか、アーベントは不敵な笑みを浮かべて言う。

 確かにその通りだが、こいつに指摘されると酷く気分が悪い。露骨に顔をしかめると、アーベントは待っていたと言わんばかりに続ける。

「その炎剣、『紅蓮の爆炎剣フレイム・ロングソード』の能力が発動しないのは、俺の持つこの剣が特別製だからだ」

「何?」

「『導力石』だよ。あの石は、『魔術兵器』を造り出すための重要な鍵となる代物だが、複数の使い道がある。その一つが、『魔術』に対する耐性を、あらゆる物質に備えさせるというものだ」

 その恩恵が、この結果を招いたという事なのか。

 俺達の間で鍔迫り合う刀身が、ギリギリと耳障りな音を発している。

「勉強不足だなぁ、イアルフスの弟子。『首都』を叩こうとする以上、敵側に『魔術師』がいる可能性を考慮しない訳がないだろう?」

 アーベントを睨み、小さく舌打ちを返した俺は、剣を弾いて後退し、距離を取った。

 こうなるともう、尚更油断できない。『導力石』を用いた特別な武器まで準備しているこの男の事だ。まだ何か、隠し玉を持っている可能性は充分にある。

 すると案の定、アーベントが愉快そうな笑みを湛えながら、不審な動きを見せた。

「さて、物はついでだ。貴様に一つ、面白い物を見せてやろう」

 意味深な発言に警戒心を強めていると、奴はマントの内側から銀色の分厚い鎧を纏った左腕を出し、それを胸の前に掲げてみせた。

 その瞬間、『それ』は出現した。

 ゴウッという音がしたかと思うと、鎧に包まれたアーベントの左手の部分に、激しく燃え盛る真っ赤な炎が生まれたのだ。

 何をどう見ても、自然現象なんかじゃない。あれは間違いなく、『魔術』によって引き起こされた現象だ。

「あんた、『魔術師』だったのか?」

「いいや。残念ながら、俺は『魔術』を扱う素質を持ってはいない。だが『こいつ』のおかげで、『魔術』の真似事くらいならできるようになったのさ」

 そう言ってアーベントは、左手に炎を灯したまま、左腕の前腕部分を見えるようにした。するとその部分に、奇妙な形をした記号のようなものが彫り込まれている。

 五つの菱形を四つの線で結んだ、十字型の記号。『魔術』に詳しくない者が見ると、それはただの落書きにしか見えなかっただろう。

 だが俺は違う。その文字の、記号の意味が理解できる。

 それが意味するものは、炎。『印術』と呼ばれる、『魔術』の力を記号として刻み込んだ事により、奴の左腕の籠手には、炎を生み出す能力が備わっている訳だ。

「一体そんなモン、どうやって手に入れやがった」

「簡単な話さ。金に飢えた『魔術師』に、報酬をやると言って造らせたんだよ。昨夜の遺跡で俺が殺した、あの男にな」

 ……そうか。あの時アーベントが長髪の男から受け取っていた、白い布に包まれた何か。あれは『印術』の彫り込まれた、あの籠手だったんだ。

 炎を灯した左手を興味深げに見つ、アーベントは楽しげに語り始める。

「しかし面白いものだな。初めて実感したが、炎を生むとはこういう感覚なのか。術者は自身の炎の熱を感じないと聞いてはいたが……。何事も試してみなければわからんものだ。なぁ、イアルフスの弟子!」

「!」

 愉悦と狂気に溺れた表情のまま、アーベントは左手を前方へと突き出した。

 瞬間、その動作に合わせて勢いを増した炎が、紅い波涛となって襲い掛かってきた。

 俺は咄嗟に、身体を捻ってそれを回避した。


 この局面でその行動を取る事が、いかに愚かな事かを理解しないままに。


 短絡的な俺の行動を眼にした瞬間、アーベントは盛大な高笑いを上げる。

「クハハハハハ! これは何という事だ! まさかとは思っていたが、ミレーナ・イアルフスの弟子ともあろう者が、『紅の詩篇フレイム・リーディング』を使えないのか!? クハハハハハ! 滑稽だな少年!」

「……ッ!」

 余計な情報を与えてしまったと、そう気付いた時には手遅れだった。

 この男は、ミレーナの事を深く知っているが故に、『深紅魔法』の事も熟知している。そんな人間の前で『炎を避ける』という行動を取れば、『紅の詩篇フレイム・リーディング』が使えないのだと見抜かれないはずがない。

 自分に対する迂闊さと、どうにもならない未熟さに苛立ちを覚え、俺は歯を食い縛った。

「ククク、その程度の腕で、よく『魔術師』を名乗れるものだ。『深紅魔法』の使い手が聞いて呆れる。――あの女め。弟子にする人間を見誤ったようだな」

「うるせぇ!」

 失望したと言わんばかりに落胆した様子のアーベントに、俺は猛然と斬り掛かった。

 だがアーベントは、上段からの攻撃も、下段からの攻撃も、軽く身を捻るだけで躱してしまう。

 それでも俺は、攻撃の手を緩めない。どんなに躱されても、斬撃を放ち続ける。

「ミレーナを侮辱すんな! ミレーナは……、俺の師匠は偉大な人なんだ!」

「偉大だと? クク、笑わせるな。所詮、罪の意識から逃れるためだけに貴様を拾った人間が、本当に偉大だと言えるのか?」

「! 何だと?」

 聞き捨てならないアーベントの台詞に、俺は思わず攻撃する手を止めてしまう。

 それを狙っていたかのように、アーベントは呪いの如き言霊を口にする。

「貴様もあの女から聞いているはずだ。奴は戦争中、多くの人間の命を奪った。奴自身、それを悔やんでいたんだろう? だから奴は貴様を拾ったのさ。せめてもの罪滅ぼしにと、戦争孤児だった貴様を育てる事で、人殺しという罪の意識から逃れようとしただけだ。そんな矮小な考えしか持てない人間の、一体どこが偉大だと言うんだ?」

「なっ……!?」

 息が止まるかと思った。まるで見知ったように話すアーベントの言葉によって、俺は完全に動きが鈍っていた。

 ミレーナが俺を拾ってくれた理由。それがもし、奴の言う通りだったとしたら。闇のように重く暗い感情が、心の内にあったとしたら。かつて目にしてきた師匠の言葉は、表情は、それを物語っていたのではないか。


『私はただの人殺しよ』


「……違う」


『決して称賛されるような立派な人間なんかじゃないわ……』


「違う……! 違う違う! ミレーナは……、ミレーナはそんな人間じゃねぇッ!!」

 全身を縛り付けるような不信感を振り払い、俺は猛然と突き進む。目前に迫ったアーベントへ向けて、力任せに炎剣を振り下ろした。

 だが感情任せで単調な攻撃であるそれは、難なく受け止められてしまう。アーベントの顔には、俺を哀れむかのような表情が浮かんでいた。

「全く、愚かとしか言いようがない。どうやら貴様は何もわかっていないようだな。この世界の理どころか、己の師匠の事すらも!」

 鍔迫り合いの状態から、アーベントは鎧を纏った左手を、俺の胸の中心に押し当てる。

 その瞬間、発生した炎の渦に俺の身体は巻き込まれ、容赦なく後方へと吹き飛ばされた。

「があっ!」

 数メートルほど地面を転がった所で、ようやく身体の回転が止まった。俺はどうにか上半身を起こしながら、自分の身体を確かめてみる。

 大丈夫だ。炎の『魔術』を操る俺は、『炎属性』の攻撃に対して、ある程度の耐性を持っている。服のあちこちが炎に焼かれ、軽い火傷を負ったようだが、戦えなくなる程じゃない。

 俺はすぐさま立ち上がって、相対するアーベントを強く睨んだ。

「俺の事なんかどうだっていい。あんたは俺の師匠を侮辱した。その事実だけで充分だ!」

 ギリッと、右手に生まれたままの紅い剣を強く握り締める。

 そう、もう充分だ。例え『魔術』に耐性を持つ剣を携えていようと、炎を生み出す籠手を備えていようと、絶対に目の前の男を倒す。

 大切な人を侮辱するような人間に、絶対に負ける訳にはいかない。

「フン、くだらん。本当に愚かだな、イアルフスの弟子。……いや、貴様のような愚か者など、弟子と呼ぶには値しないな」

 心の士気を上げていた俺を嘲笑うかのように、アーベントは吐き捨てる。心底つまらなそうな表情を浮かべ、奴は平坦な口調でこう続けた。

「そうやって眼の前の事にしか気を配らないから、大事なものを見落とすんだよ、貴様は」

 告げられた言葉の真意が掴めず、俺は思わず眉根を寄せてしまう。

 どういう意味だ? この状況で見落としているものなんて、何も――

「ディーン!」

 その時、裏通りに響き渡った、聞き覚えのある声。自分の名前を呼ばれて、そこで初めて気が付いた。廃材置き場の入口付近に、リネが心配そうな顔をして佇んでいる事に。

 一体いつからそこにいたのか、俺には全くわからない。アーベントの言う通り、眼の前の事にしか意識を向けていなかった。

 最悪の状況だと歯噛みする俺を見据え、あろう事かリネは、こっちに向かって駆け出そうとしてくる。

「バカ野郎! 来るんじゃねぇよ!」

 自ら死地へ飛び込もうとする少女に、俺はほとんど怒鳴り付けていた。しかしそれは、俺自身に隙を生む行為に他ならなかった。


 視線を逸らした僅か数秒の間に、アーベントは俺の懐へと接近していたのだ。


「戦闘中に余所見とは、命知らずにもほどがあるぞ!」

「――ッ!」

 捨て台詞と共に放たれた、左下段からの逆袈裟斬り。

 防御も回避も、不可能だった。

 気付いた時には斬撃を浴びせられていて、身体がほんの少し宙に浮く感覚がして、最後には地面に叩き付けられていた。

「あッ、ぐっ……!?」

 途端、胸の辺りに焼けるような痛みを覚え、思わず右手で庇う。

 いつの間にか炎剣は消え去っていて、胸に触れた右手が感じ取ったのは、滑り気のある不快な感触。掌をゆっくりと裏返した瞬間、俺は息を呑んだ。

 紅い液体が、流れ出たばかりの鮮血が、俺の右掌を悉く汚している。

「ぐっ! がはぁッ!」

 上半身を起こそうとして失敗した俺は、我慢する事もできずに吐血した。

 身体が熱くて堪らない。全身から刺すような汗が噴き出している。

 致命傷を受けたのは間違いない。このままじゃ――

「いやああああああぁぁぁっ!!」

 朦朧とし始める意識の中、誰かの悲鳴が聞こえてきた。地面に倒れたまま、何とか首を動かして、声のした方を見やる。

 その瞬間、悲痛な表情を浮かべたリネと目が合う。彼女は俺の許まで走ってくると、両膝をついて顔を覗き込んできた。

「ディーン! しっかりしてディーン! 死んじゃダメ!!」

 黒真珠のような瞳から、流れ落ちる大粒の涙。必死な様子で叫び続ける少女の姿から、俺は目が離せなくなった。

 ずっと距離感を図りかねていた。どうしても心を許し切れない自分がいた。

 リネがそれに気付いていたかどうかはわからない。だが彼女は、いつだって明るく笑い掛けてくれた。

 ディーンには怪我してほしくない。

 知り合ったばかりの頃、彼女にそう言われて面食らった事を覚えている。経緯はどうあれ、リネはいつだって、俺の身を案じてくれていたんだ。

 彼女に何か言ってやりたい。そう思うのに、声が上手く出せない。それどころか、瞼まで重くなり始めている。

 もう一度立ち上がって戦いたい。師匠を侮辱した男を、アーベントを倒したい。

 だがどれだけ強くそう願おうとも、身体の力は徐々に抜けていく。立ち上がるどころか、指の一本すら動かせなくなっていく。

 もう俺は、俺の命運は、ここまでなのだろうか?

 そんな思いが、胸の内に湧き上がった時だった。傍らで涙を流し続けていたリネが、左手で両眼を乱暴に拭うと、意を決したように、両手に嵌めているグローブを外し始めた。

 何をする気なのかと疑問に思った直後。俺はふと、ある物を視界に捉えた。

 それは、グローブを外したリネの両掌。その中心に、大型の鳥が翼を広げているかのような、不思議な形の痣がある。

 左右共に、大きさも形もやけに整っているせいか、普通の痣とは何かが違うように感じられる。

「リ……、ネ……?」

 酷く掠れた声で名前を呼ぶと、リネは優しく微笑み返してきた。

 見る者を釘付けにしてしまいそうな、切なさを混じえた表情で。

「安心して、ディーン。あなたは、あたしが助けるから」

 そう言ってリネは、両掌を俺の傷口の上に翳した。

 その瞬間だった。

 突然、両掌の痣が光を放ったかと思うと、リネの身体から、ランプの灯火のような淡く優しい光がいくつも発せられ、まるで吸い寄せられるかのように、俺の全身を包み始めたのだ。

 ずっと昔、ミレーナに抱き締められた時のような、心地良い感覚が身体を満たしていく。ふと気付けば、焼けるような熱さと痛みを感じなくなっていた。

 訳がわからないまま呆然としていると、すぐ近くから驚いたような声が聞こえてきた。

「他者の傷を癒す、だと……!? 貴様、なぜ当たり前のように『治癒魔法』が使える!?」

「!」

 アーベントから発せられたその言葉が、俺にも衝撃をもたらした。

 なぜ『魔術師』が、人殺しと揶揄されるのか。その理由の一つが、『魔術』そのものの性質にある。

『魔術』とは、悉く殺傷に特化した技術であるが故に、人を生かし、活かすという概念を一切持ち合わせていない。それはつまり、『回復』や『転移』といった、他者の助けになり得る能力を有していないという事に他ならない。

 そんな側面があるからこそ、『魔術師』は人殺しだと揶揄される事がある訳だ。

 だというのに、彼女は平然と『治癒魔法』らしき力を使っている。存在しないはずの『魔術』を。

 ……いや、待てよ。確かミレーナから聞いた事があったはずだ。かつてこの大陸に存在していたという、生まれながらに特異な能力を持っていた、『とある一族』の話を。

「クハハハハハハハ! そうか、そういう事か! これが事実ならば、何という巡り合わせだ!」

 つい先ほどまで訝しげな顔をしていたはずのアーベントが、突然愉快そうに笑いながら、リネへと視線を送る。恐らく奴も、俺と同じ結論に達したのだろう。

「女! 貴様、『妖魔』一族の生き残りだな!?」

 アーベントが高らかに発した瞬間、リネが辛そうな表情を浮かべたのを、俺は見逃さなかった。

『妖魔』一族――

 大昔、この大陸で起きた『魔術戦争』の時代から存在していたとされる、特殊な力を持った人間達。

 その特殊な力というのが、『治癒』。

 他者を救う、補助的な力を一向に生み出せなかった『魔術師』とは対照的に、『妖魔』一族は生まれながらにして、その能力を有していた。

 だが、本来ならそれは有り得ない話だ。

『魔術』とは、鍛錬や修練によって後天的に手に入れる力である。故に『妖魔』一族のように、先天的に力を有する事など、普通は考えられない。もしかしたら彼らの力は、『魔術』とは違う、別の何かなのかも知れない。

 ミレーナも真偽はわからないと言っていたが、それは一族だけが持っている特殊な力だったらしい。

 だからこそ、一族は命を狙われる羽目になった。


 自身にとっての反乱分子になるかも知れないと危惧した、前テルノアリス王に。


 かつての『魔王』が行ったのは、大量虐殺。反乱分子になるかも知れないという理由だけで、一族は男も女も子供も老人も、無慈悲なまでに抹殺されたという。

 その虐殺は止まる事を知らず、ミレーナ達が前テルノアリス王を倒す頃には、『妖魔』一族は滅亡していたそうだ。

 だが、どうやらその一点だけは、誤った情報だったらしい。

 現に滅亡したはずの一族が、『治癒』の力を使っている少女が、眼の前にいる。

 俺もよく知っている少女、リネ・レディアが。

「お……、前……」

 悲劇的な滅亡を遂げた一族の生き残り。これこそが、彼女が自身の生い立ちを語ろうとしない理由だったのか。

『魔術師』に何か因縁があるのか?

 以前そう尋ねた時、リネの表情に陰りが差した事があった。その理由は恐らく、彼女の村を襲撃した『魔王軍』の中に、少なからず混じっていたからだろう。

 殺戮を、簒奪を、破壊を由とする冷徹な『魔術師』が。

『倒王戦争』の折、『魔王』側にも『魔術師』が所属していた事は、当時の事をあまり語りたがらなかったミレーナでさえ、幾度となく口にしていた。

 それは史実であり、事実であり、この少女にとっての真実だったのだ。

 絞り出すように声を出したものの、掛けるべき言葉が見つからない。何をどう慰めればいいのか、わからない。

 そんな俺の葛藤を見透かしたかのように、リネは切なそうな笑顔のまま、静かに口を開く。

「やっぱりディーンも知ってたんだね、『妖魔』一族の事。……そう。あたしはその生き残りって訳。いつか、ちゃんと話そうと思ってたんだけど……」

 ごめんね、こんな形になっちゃって。

 そう呟くと、リネは徐々に微笑みを消した。そこにはもう、悲しげな表情しか残っていなかった。

 彼女の表情に目を奪われていた俺は、そこでふと気が付いた。

 いつの間にか全身を包んでいた温かな光が消え、胸の痛みが全くなくなっている。だがどういう訳か、依然として意識は朦朧としていて、身体を動かそうとしても上手く動かない。

「怪我人の治療ご苦労、と言いたい所だが、まさかこの状況で逃げられるとは思っていないだろうな?」

 絶望をもたらす声が、すぐ傍から聞こえてきた。いつの間にかリネの傍らに立っているアーベントは、彼女の首筋に、ロングソードの刀身を向けている。

「そんな事、あなたに言われなくてもわかってるよ。……だから、あたしと取引して」

「取引?」

 首筋に凶器を突き付けられているというのに、リネは物怖じした様子もなく、力強い眼差しでアーベントを見据え、告げる。

「あたしがあなたの人質になる。その代わり、ディーンを見逃してほしいの」

「!?」

 突然リネが言い放った言葉に、俺は耳を疑った。

 一体なぜ、彼女がそんな台詞を口にするのか。

 何の力にもなれない、こんなに惨めな自分のために。

「ほう……。そうまでして、その少年を助けたいという訳か」

 心底愉快そうな表情を浮かべ、アーベントは倒れている俺を一瞥してきた。

「だが貴様が人質になるというだけでは、見返りとして些か安過ぎる。その覚悟は素直に評価してやるが、条件を呑む訳には――」

「あたしの『血』を提供する、って言ってもダメ?」

「! 何……?」

 言葉を遮る形でリネが切り返した瞬間、アーベントが訝しそうに眉根を寄せる。

 二人のやり取りを見上げている事しかできない俺にも、今の発言の意図は読み取れなかった。

 血を提供する、とはどういう意味だ?

「『妖魔』一族の事を知ってるあなたなら、あたし達の『血』にどんな効力があるのか、知ってるんじゃないの?」

「無論知っているとも。だからこそ問わせてもらうぞ女。……貴様、本気か?」

「冗談でこんな事言わないよ。でもその代わり約束して。今この場で、ディーンには手を出さないって」

「クククク……。クハッ、クハハハハハハハハハハハハッ!」

 リネの首筋から刃を離すと、アーベントは気でも狂ったかのように笑い始めた。

 倒れ伏す俺とは違い、この男はリネの言葉の意味を理解している。心底愉快げなアーベントの様子から、それだけは察する事ができる。

「これは面白い! 小娘にしては中々見所のある奴だ。――いいだろう! 貴様の意気とその『血』の力に免じて、この場は退いてやる」

 アーベントはロングソードを仕舞いつつ、動けない俺を見下すように見つめ、皮肉気な笑みを浮かべて告げる。

「命拾いしたなぁ、未熟者。この健気な少女に感謝するといい」

「……ッ!」

 アーベントはリネの華奢な右腕を掴み、無理矢理彼女を立ち上がらせる。その顔には、絶望的な何かを決意してしまったような、悲痛な表情が浮かんでいる。

「待ち……、やがれ……っ」

 せめてもの抵抗の意思として、弱々しく右手を伸ばして制止を試みる。

 だがその程度の行動で、アーベント・ディベルグという男は止まらない。相変わらず、こちらを蔑むような表情で、挑発するように告げる。

「おいおい。せっかく拾った命を無駄にするつもりか? 少しはこの少女の決意に報いてやったらどうだ」

「て、めぇ……!」

「本当に愚かで哀れだな、貴様は。まぁ、所詮はそれが貴様の限界だ。世界や師匠の事どころか、身近な人間の事さえわかっていない愚か者。そんな人間が自分の命を、況して他者の命を守れるはずがない」

「!」

「そこで不様に寝転がっていろ。『魔術師』気取りの未熟者が」

 何も言い返せない。例え声が出せたとしても、反論できなかっただろう。

 それだけアーベントの言葉に、俺の心は悉く打ちのめされていた。

「大丈夫だよ、ディーン」

 薄れ掛かった意識の中で、リネだけが優しく語り掛けてくる。

「言ったでしょ? あなたはあたしが助けるって。あたしがこの人に付いて行けば、それで全部解決する。……だから、ディーンはゆっくり休んでて」

 何だそれは、ふざけんな! 何が全部解決するってんだ! お前が付いて行ったって、アーベントが『首都』襲撃を止める訳じゃない! 争いの火種がなくなる訳じゃねぇんだ!

 少女に対する憤りが、不満が、沸々と胸の内から湧き上がる。だがどれ一つ、俺は言葉にする事ができなかった。

「じゃあね、ディーン」

 リネを連れ戻したいと思っても、

 アーベントを止めたいと願っても、

 自分にはもう、何もできない。

 敗北を認めてしまったその瞬間、朦朧としていた意識が輪を掛けて重くなり始めた。

 意識が途絶える前のほんの一瞬。遠ざかっていくリネの背中に、いなくなってしまったミレーナの背中が重なって見えた。

 そこまで至って、俺は今更のように気付いてしまった。もっと早く、気付くべきだったんだ。

 黒髪の少女、リネ・レディア。

 自分で思っていた以上に、彼女との繋がりが、とても温かく大切なものだったんだ、と。

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