03 来訪
家の天井にシミがない。だから、家の天井のシミを数えながら夏休みを過ごすことができない。
暇だった。
友だちがいない。いや、いることにはいるのだけど、3時間の向こう側にいて、3時間をかけてまで会いに行くほど切実な友だちはいないのだった。新しい街を見に行こうか、でも独りでは面白いものを全然見つけられない気がして二度手間だし、学校が始まって友だちを見つけてからにしよう。そうやってただ家にいる。
5日前のことが浮かんでくる。名字だけを名乗ったその人は「じゃ」と言って宇宙船の中に吸い込まれていってしまった。自転車は、とか、だれ、とか言おうとしたけど、誰かはもう聞いたんだったと数秒前のことを思い出したりした。でも名前だけってあんまりじゃないかな、キリノミヤって霧ノ宮みたいな? それにわたしの名前は言わなくてよかったのだろうか。興味ないのかな。ないか。
「おー」
音楽でも聴くか、の「お」だけが口から漏れる。
そういえばヘッドフォンしてたな、音楽すきなのかな。今度訊いてみよう。そもそも同じクラスになるのかもわかんないけど、と変な予防線を張りながら思う。
そのとき。
ポーンと音がする。ポーンって何だっけ。再び、ポーン。あ、チャイムだ。家が変わるとチャイムも変わるのか。
母は出かけているようだった。のそのそと動いて扉を開けると。
「キリノミヤ……さん?」
「はい」はいってなに。
ポーンの正体はキリノミヤさんだった。無感情な顔でこっちを見ている。どうしてわたしの家に、というかそもそもどうして家の場所を知っているのか。
「あの」
「はい」はいってなに。
「どうして、うちを——」
「あなたのお母さん」
「わたしのお母さん?」ミドリ。38歳女性。シングルマザー。
「がね、わたしの担任の先生と幼馴染なんだよね」そう言って笑う。なんで。笑うと目がくしゃっとしてかわいい。
それでも言いたいことは大体わかった。その担任の先生から住所を訊いたということだろう。
「あの、キリノミヤさん」
「ミヤ」
「みゃ?」
「ミヤって呼んで、長いから」
「ん、うん」
「それでなーに?」
「なんでうちに来たの」疑問その2まで辿り着く。
「ふふん」ふふんじゃない。
「いや、ね」彼女が言う。「名前を訊いてないなって、思って」
わたしがフルネームを名乗ると、ミヤは下の名前だけを舌の上で転がすように何度か繰り返した。
「ユウ、ユー、ユ」口がすぼまる。
「ユウだよ」
「ユーね」何かが違う気がする。
「あのさ」また名前だけで終わらせてしまうのは癪だ。「ツアーガイドを探してるんだけど」
目がぱちっと開く。腕を見る。腕時計はしていなかった。
「いーよ、行こう」
* * *
「……で、公園。たまにシュウが寝てる」
シュウって何だろう。猫か何かかな。
家の近くをミヤに引っ張られるままにうろうろして、学校にほど近い公園まで来た。ミヤはわたしより少しだけ背が低い。わたしも高い方ではないけれど、それでも歩幅はわたしの方が大きいはずだった。けれど彼女は足を動かすのが妙に早く、わたしも自然と早足になった。
「座ろう」ミヤがベンチを指差す。
思ったより長い時間歩いていて、気づいたら日も傾いていた。ベンチに座るとミヤはさらにちょこんとした感じになった。隣に座る。
「前ここに座ったらさ、下にシュウがいて、蹴っ飛ばしちゃった」
やっぱり猫らしい。
「ユーも気をつけなね」
「んー」今度写真とか見せてもらおう。
強い風が正面からばっと来る。ミヤの髪がはねて、ヘッドフォンに巻かれた首が露わになる。髪がするすると落ちてまた首が隠れる。砂が入ったようで目をこすっている。
「前もしてたよね、ヘッドフォン」温めていた質問がこぼれる。「音楽、すきなの?」
「んー……とね」少し黙る。こっちを見て、口を開く。
「父方の祖父の耳がね、ちょっと前に聞こえなくなってさ」わたしを見ているのに遠くを見ているみたいな声で喋る。「それがすごく寂しそうで、怖くなったんだ、だからね」
「聞けるうちに聞く、みたいな」
「それもあるかも。音が何も聞こえなくなっちゃってもさ、昔すきだった音楽を覚えてられたらいいなって、思って」
ミヤはそう言って耳たぶをとんとんと叩いた。
「というお話なのですよ、ユーさん」
やっぱり何か変だ。
「なんか、いいねそれ」
「そ?」
「わたしはすきだよ、そういうの」
「すきなんだ」
「いやすきっていうか」
「っていうか?」
「……っていうか」何なのかわからなくなった。
ミヤがまた何もつけていない腕を見て、ぱっと立ち上がった。
「今度教えて、じゃっ」
そう言うと行ってしまった。次はわたしも「じゃ」って言おう、と思った。
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