第30話
「まさか…」
北川の口から低い声が漏れた。
「そんな事…そんな…」
顔色が、どんどん青ざめていく。
その尋常でない狼狽ぶりに、驚いた美嘉が声をかけた。
「先生。北川先生!」
「あ、あぁ」
北川は、悪夢から覚めた子供のように身震いをした。
「大丈夫ですか?」
覗き込む美嘉と目が合うと、引きつった笑顔を浮かべる。
「すいません。あまりにも意外だったんで…」
そう言うと、立ち上がり部屋の中を忙しなく歩き始めた。
「それで、相手の名前は聞いたんですか?」
「いえ、それは…」
「そうですか」
北川は、美嘉に背を向けるようにドアの前に立つと
「この事、僕以外の人に話しましたか?」
「いいえ…」
良かった…呟く声が聞こえた。
「山崎先生」
突然大きな声で名前を呼ばれ、美嘉はびくっと体を震わせた。
「詳しいことは、僕が彼女から聞き出しますから
この件は内密にお願いします」
「え、でも…」
反論しようとすると、それを遮るように
「僕は担任ですから。責任を持って対処します」
「でも、とてもデリケートな問題ですし、やっぱり女同士の方が
話しやすいんじゃないでしょうか?」
「チッ」北川が小さく舌打ちした。
「勿論、先生のご意見もうかがわせていただきますよ。
ただ、勝手に行動して騒ぎ立てて欲しくないと言ってるんです」
「騒ぎ立てるなんて!私はそんな事しません」
憤慨して言い返しながらも、時間の無駄だと思った。
当事者抜きで、言い争ったところで何も解決しない。
美嘉は、北川に背を向けると机の上を片付け始めた。
北川が動く気配を感じたが、帰り支度をする手は止めなかった。
これ以上、二人きりで部屋にいるのは耐えられない。
突然、机の上に北川の手が伸びてきた。
「これで、お願いできませんか?」
北川が手を引くと、その下には数枚の1万円札が置かれていた。
驚いて振り返ると、すぐ後ろに北川が立っていた。
「どういう意味ですか?」
美嘉が睨みつけると、お得意の韓流スマイルを浮かべる。
「僕に任せておいて欲しいんです」
「口止め料ですか?」
「嫌だなぁ、そんなに怖い顔しないで下さい。
とにかく余計な口をはさまないでくれればいいんですよ」
じゃあ、そういう事で…北川は美嘉の肩をポンと叩くと
足早に部屋を出て行ってしまった。
美嘉は、机の上の金を掴むと、後を追って飛び出した。
廊下の角を曲がる、北川の背中に呼びかけようとした時
いきなり「山崎先生」と声を掛けられた。
英語教師の橋本里美が手を振りながら向かってくる。
美嘉はとっさに、白衣のポケットに金をつっこんだ。
「どうしたんです?そんなにあわてて」
「別に…橋本先生こそ何か用ですか?」
「今日ご飯食べに行きません?私いいお店見つけたんです」
里美とは年が近く、お互い独身だった事もあり、学校帰りに
誘い合って食事に行くことも多かった。
美嘉が黙っていると、
「ごめんなさい。先約ありました?」
と表情を曇らせる。
美嘉はあわてて手を振った。
「あ、違うの。私、明日から研修入っちゃってるから
あまり遅くまでは付き合えないけど…職員玄関で待っててもらえる?」
里美は、笑顔を浮かべ
「じゃあ、また後で」
と会釈をして歩き出した。
里美の姿が廊下の角に消えていくと、美嘉は大きなため息をつき
保健室のドアを開けた。
ポケットの中の1万円札を取り出し、机の上に広げる。
1…2…3…4…5…北川が置いていったのは5万円だった。
お金でどうこうしようなんて…あまりにも馬鹿にしている!
こんなお金、受け取れないわ。
すぐにでもつき返してやりたいけど…
美嘉は、悔しさにグッと唇を噛みしめた。
明日から3日間研修で、学校を不在にしなければならない。
研修が終わるまでの辛抱!そう自分に言い聞かせるのだった。
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