火のない所に煙は立たぬ(一)


― 王国歴1042年 秋


― サンレオナール王都




 ルクレール家ではその朝早く出勤したジェレミーを見送った後、アナは彼が昨晩脱いだ服を畳んでいた。ズボンを洗濯に出そうとしてポケットに何か入っているのに気付く。


「まあジェレミーさまはまたハンカチをぐしゃぐしゃに丸めて……」


 アナがそれを取り出すと一目でその物体がハンカチではないということが分かった。みるみるうちに血の気が引いていくアナだった。目の前が真っ暗になった。


「まさか、ジェレミーさまが? そ、そんな……」


 幻覚ではない。アナが何度瞬きをしても実体を持ったそれはアナの手の中にある。




 結局その日一日アナは何も手につかなかった。幸いなことに学院での授業は入っていなかったため、ずっと魔術塔の研究室にこもって考え事をしていた。


 アナとジェレミーが結婚して十数年、三人の子供達にも恵まれ幸せで満ち足りていたのはアナだけだったのだろうか、という疑問が持ち上がってきた。例えジェレミーのアナへの愛が冷めても、彼はニッキーにはずっと夢中だろう。そのためアナのことも見限ったりはしない、という妻の醜い打算までが持ちあがってくる。


「ジェレミーさまはニッキーに会いたいがために……私とも……」


 そう独り言を呟き、涙で視界が霞んでしまったアナだった。


「だめだわ、子供たちのためにも私がしっかりしないと……」




 その日帰宅したアナはジェレミーに思い切って聞いてみるかどうかまだ迷っていた。子供達の相手をし、宿題を見て、家族で夕食を取り、アナは努めて普通に振る舞った。


 その夜、自室で未だに悶々としていた彼女の所にジェレミーが顔を出す。


「どうした、アナ、仕事を持ち帰ってんのか?」


「あ、いえ。旦那さま……えっと私今晩はこちらで……いえ、あの、お聞きしたいことがあります」


「何だ?」


(この黒いレースの女性の下着がどうして旦那さまのズボンのポケットに入っていたのですか?)


 その質問が喉まで出かかったが、結局言えなかったアナだった。


「旦那さま、アナに何か隠し事をしていらっしゃいませんか?」


 代わりにこう聞いたそのアナの問いを笑い飛ばすだろうと期待していたというのに、ジェレミーの反応はアナの不安をさらに駆り立てるものだった。


「な、何だよ急に、そ、そんなんしてねぇに決まってるだろーが! じゃあな、俺先に寝るぞ!」


 明らかに目が泳いでいるジェレミーだった。衝撃を受けたアナは咄嗟に彼を問い詰めることなど出来なかった。そしてジェレミーはさっさと自分の部屋に戻って行ってしまう。


「ジェレミーさま……やっぱり……」


 その夜アナは後ろ向きな考えに囚われ、ろくに眠れなかった。


「これからどうすればいいの、私」


 夜明け近くまで眠れず寝返りを繰り返していたアナはいくつかの考えを思いつく。


「そうだわ……」




 まだ暗いうちから起き出したアナは自分の箪笥を開け、目的のものを取り出した。そしてジェレミーがまだ良く寝ているのを確認し、彼の寝室に入る。


「ムニャムニャ……ああニッキー、俺そんなとこ舐められたらさ、もうダメ……」


 呑気に寝言など言っているジェレミーはアナの作業中も全く起きる気配がない。


(アナをないがしろにしているとニッキーにも会えなくなるのですからね!)




 その日早目に出勤したアナは本宮の宰相室を訪れ、文官の一人に声を掛けた。


「アントワーヌ・ソンルグレ補佐官はもう出勤されていますか? 彼に少しお時間があればお会いしたいのです。魔術塔勤務のアナ・ルクレールでございます」


「は、はい! 聞いて参りますので少々お待ちください」


 そうしてアントワーヌの執務室に通されたアナだった。彼女の顔は青ざめており、ニコリともせず硬い表情である。


「アントワーヌ、お忙しいところお邪魔してごめんなさいね。でもどうしても貴方に聞いて欲しい相談、というかお願いがあるのです」


「ええ、何でしょうか?」


(何なんだ、夫の次は妻のアナさんが……)


 一昨日ここでジェレミーがアナのものも含まれているだろう下着の山をぶちまけたばかりである。アントワーヌが警戒するのも無理はない。


「とても言いにくいことなのですけれど、でも貴方以外の誰にも話せなくて……端的に言うわ。主人が外に愛人を作っていないかどうか、調べて下さらない?」


「はい? ルクレール大佐の浮気調査ですか?」


「あの、夫婦間の問題なのにアントワーヌを煩わせてごめんなさい……でも誰にも相談できなくて……」


「アナさん、何があったのですか?」


 アナの思い詰めた様子はただ事ではないと察したアントワーヌである。


「恥ずかしいことなのですけれど、昨日主人のズボンのポケットからこんな……私のものではない下着が出てきたのです!」


 アナはハンカチに包んでいたブツを取り出した。その黒い布切れはアントワーヌも何となく見覚えがあった。一昨日の記憶を頭の中で再生してみる。そう言えば……




『一枚残っていますよ、わざとですか? 義兄上』


『おっ、すまねぇな。これなんかさ、どう見ても姉上の好みだよなぁ……』


『広げてまじまじ見ないで下さいよ!』


 ジェレミーはその黒レースの下着を袋に戻さず、確かズボンのポケットにねじ込んでいた。




 あまりにバカバカしくて噴き出しそうになるのを堪えたアントワーヌだった。目の前のアナが今にも泣き出しそうな悲愴な表情をしているからである。


(僕、今まであの義兄のせいで笑いを堪えないといけない試練は何度もあったけれど……今回のこれは……か、かなり苦しい)




 その頃執務室の外では再びアントワーヌの部下たちが大真面目な顔で話していた。


「今の女性って、補佐官の義理の姉上にあたるルクレール魔術師ですよね」


「今度は何だろうな、王家絡みの件に違いないよ」


「次回の王族のパレードの警備、魔法防御壁を張る段取りとか?」


「いや、年末の舞踏会の花火打ち上げについてだよ、きっと」


 扉一枚挟んだ向こうで何が話されているか露とも知らない彼らだった。




 アントワーヌは切羽詰まった表情のアナを前にし、何を言えば良いか必死で考えていた。


「な、何かの誤解ですよ。義兄上に直接聞かれなかったのですか?」


 しかし何か言葉を発するだけでも笑い出してしまいそうで大変だった。


「私に何か隠し事なさっていませんか、と尋ねました。そうしたら明らかに目を不審に泳がせて『し、していないに決まってる!』とはぐらかしてしまいました」


(逆切れ? それって何か別のやましい秘密じゃないの?)


「僕が思うに、義兄上はアナさんに隠れて浮気なんてそんな器用なことができる人ではないですよ。取り越し苦労でしょう。夫婦でもう少しきちんと話し合ってみたらどうですか?」


「でも、この下着はれっきとした証拠ですわ!」


 アナは思わず声が上ずってしまう。




(二)に続く




***ひとこと***

大変なことになっておりますよ!ここは是非とも王妃様に仲裁に入ってもらってもっと面白く……いえ、失礼、笑い事ではありませんね。

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