過ちては改むるに憚ること勿れ(二)

 昔の過ちを思い起こしたジェレミーはかなり気を落としている。


「旦那さま、もうこの話はやめましょう。アントワーヌがどうして今更この話題に触れたのかちょっと分かりませんけれど……きっとナタンに何かを伝えたかったのでしょうね……」


「俺、しばらく落ち込みモードだ」


「まあそんな……気を取り直して下さいませ。そろそろ夕食の時間ですわ」


 アナはジェレミーの両手をしっかりと握った。そして立ち上がって、彼も立たせようとする。


「食いたくない」


 ジェレミーはそこで長椅子にごろっと横になった。


「旦那さま、駄々をこねないで下さいませ。上着がしわになりますわ。それに夕食に下りていかないと子供達が心配いたします」


「もっと慰めてもらわないと立ち直れねぇ……」


 アナはため息をついて呆れる。


(はぁ、この人はいい歳して子供より手の焼ける……)


「私のことを思ってそんなに沈まないで下さい。さあ、子供達の顔を見ると気分も晴れますわよ」


 アナは少しかがんで彼の髪をなでて彼の額に口付けた。そこでジェレミーは上体をそろそろと起こして立ったままのアナを抱きしめる。


「ああ、そうだな。お前の言う通りだ」


「旦那さまは本当に甘えん坊さんなのですから……」


「食事の後、またいやしてもらったら完全に立ち直れるかな」


「そうですか、うふふ」


「うん、アナのお陰で気分も半分は上昇した。でもニッキーにも慰めてもらわないと100%復活できない」


(はい? 何をどさくさに紛れて!)


「まあ旦那さまったら! 今夜ニッキーに会えたらもうねないで下さいね!」


「ああ! そうと決まったら、飯食いに行くぞ!」


 先程とは打って変わってジェレミーは元気よく立ち上がった。


「今晩は嬉し恥ずかしニッキープレイ、楽しみだなぁーっと!」


(全くもう……十分立ち直っているではないですか!)




 その夜現れたニッキーのお陰か、翌朝のジェレミーはやたら機嫌が良かった。出勤するために玄関に下りてきた彼は大きい布の袋を担いでいる。


「旦那さま、何ですかその袋は?」


「あ、ああ、これは稽古着だ。俺は今晩少し遅くなると思うから帰りはお前が馬車を使え」


「分かりました。ありがとうございます」


 そして王宮に着くと騎士団のある東宮に向かうジェレミーは先に馬車を降りる。




 その日の夕方、アナは帰宅前に学院に寄り、図書館で勉強していたナタニエルに声を掛けた。


「こんにちは、ナタン」


「伯母様……あの、今日伯父様は?」


「遅くなるそうなの。だから私一人よ。この後送って行くついでに昨日の話の続きをしましょうか」


「はい、ありがとうございます」


 馬車に乗ってからアナは話し始めた。


「実は昨日あれから伯父さまをなだめるのがちょっと大変だったのですよ」


 アナは昨晩のことを思い出し、少々顔を赤らめた。それをどう思ったのかナタニエルは慌てる。昨日あれからずっと心配していた彼である。


「えっ、伯父様ももしかして伯母様に手を上げたりなさるのですか?」


 幼い頃、実父が母親に暴力を振るっていたのをずっと見ていたナタニエルは咄嗟にその考えが浮かんだのである。そして思わず顔を強張こわばらせた。


「いえ、そうではないのです。伯父さまはすぐカッとなって怒鳴るけれど、ああ見えても人に危害を与えることはないのですよ。騎士ですしね、暴力の怖さは人一倍身にみて分かっているのです」


「ああ、良かったです。気になっていたのです。父にも言えませんし……」


「そうね……ちょっと外を歩かない、ナタン? 貴方もしっかり着込んでいるから寒くないわよね」


「はい」


 アナは御者に近くの公園に向かうように指示を出した。王都の秋はもうそろそろ肌寒くなってきていた。公園の木々は紅葉も終わりかけている。


「伯父さまと結婚する前のことなのですけれどね、私は当時、変幻魔法で髪や目の色を変えてニッキーと名乗って飲み屋でピアノ弾きをしていたのです」


「えっ? 侯爵令嬢だった伯母様が、ですか?」


「ええ。昔、私の実家は経済的にとても苦しくて、何でもいいから仕事をしたかったの……それで、その飲み屋で伯父さまはニッキーに出会って恋に落ちたのよ。私達も若かったわ。昨晩は久しぶりに伯父さまと一緒にその頃のことを懐かしんだわ」


 アナは遠くを見つめながら語った。


「ですから本当はありもしない身分差の問題が二人の間に立ちはだかっていたのですね」


「そうなの。伯父さまもね、次期侯爵としてピアノ弾きのニッキーとの将来は築けないだろうと諦めて、侯爵令嬢のアナと婚約したのです」


「伯父様はその時まだニッキーが伯母様だと知らなかったのですか?」


「私もね、そこまで伯父さまが一介のピアノ弾きに執着されているとは思ってもいなかったのよ。ニッキーのことなんてすぐお忘れになるだろうと、正体を明かさなかったのです。美しい思い出として残しておいて欲しいという気持ちもあったことですし」


「伯父様がニッキーの正体を知ったのはいつですか?」


「結婚後数ヶ月してからよ。それまで私たち夫婦は完全にすれ違っていたのです。伯父さまにとってニッキーはただ一人の人でしたから」


「僕の父は最初から全てを知っていたのですか?」


「ええ、私も確信はなかったけれど多分そうだろうと。ニッキーの正体を知っている人はアントワーヌの他に数人しかいないのですよ」


「伯父さまは父が秘密を知っているとは思ってもいなかったのですね」


「そうなの。だから昨日はあれほど慌てていたのよ」


「……伯父様と伯母様にそんな経緯があったとは……何だかまだ色々聞きたいことはありますけれど、とりあえず納得できました。あの、伯父様は僕に対してまだ怒っていらっしゃいますか?」


「もう誰に対しても怒っていませんよ」


「ああ、良かったです」


「さあそろそろ帰りましょうか」


 二人は色とりどりの落ち葉の小道を進み公園の出口に向かった。




 その数日後、ナタニエルはジェレミーにも改めて無礼を謝られた。


「ナタニエル君よ、先日は悪かったな。声を荒げたりして」


「いいえ。伯父様、僕の方こそ失礼しました」


「お前の質問に改めて答えてやる。人を好きになるのなんてな、理性で制御できねえからな、身分も性別も何も関係ねぇんだよ」


「そうですか、でも性別って?」


「お前、アナに全部聞いたんじゃねぇのか?」


「はい、聞きました。ピアノ弾きのニッキーのお話を……えっもしかして……」


「アナの奴がニッキー少年に化けてたって話だ」


「ニ、ニッキーって男の子? えぇー!」


「なんだ、アイツそこまで話してなかったのか? 水臭ぇなあ、アナ伯母様はよぉ」


「ちょ、ちょっと僕冷静になって考えをまとめる必要が……若かりし日の伯父様は少年ニッキーを好きになって……でもニッキーは実は女の子で……ニッキーであるアナ伯母様も伯父様のことが……うぅー、僕の容量を超えています!」


「ああ青少年よ、大いに悩め」


「全て伯父様と伯母様のせいです!」


 多感な年頃のナタニエルに大きな影響を与え事態は収束したのであった。




― 過ちては改むるに憚ること勿れ 完 ―




***ひとこと***

実は収束したように見えたこの事態、他の人達も巻き込んで少々変な方向へ向かうことになります。次回の番外編をお楽しみに!

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