番外編

墓穴ホリオ君


― 王国歴1030年 春


― サンレオナール王都 ルクレール侯爵家



 ある夜のことである、ジェレミーはその日遅番で夜に帰宅した。朝早いセバスチャンはもう休んでいるようだった。居間からは明かりが少し漏れており、その前を通りかかるとフロレンスとアントワーヌの押さえた話し声が聞こえてきた。


「それでね、ナタンったらアナさんのお腹に向かって話しかけているのよ、うふふ」


「そうなのですか? 可愛らしいですね」


「彼の中では赤ちゃんは男の子に決定みたいなの」


 見たくもないイチャラブカップルの姿がジェレミーの目に入ってきた。長椅子でアントワーヌの膝の上にフロレンスが横座りしている。


「お前ら何だよ、乳繰り合うなら部屋でしろ! 視界の邪魔! 迷惑だ!」


「あら、お兄さまお帰りなさいませ」


「失礼しました、義兄上。でも私、今晩は泊まる予定ではないのでこうして居間に居るのです。フロレンス様の部屋で二人きりになると結局は帰宅できなくなってしまうので。ねえ、フロレンス?」


「まあ、いやだわ、アントワーヌったら」


 失礼と言いながらもアントワーヌは膝の上でしっかりと抱き締めているフロレンスを解放する素振りも見せない。ジェレミーはイライラを隠そうともせず吐き捨てた。


「ケッ、何が『ねえ、フロレンス?』だ! この桃色遊戯男子が! ここの空気は甘ったるくて耐えられたもんじゃねえ……じゃあな!」


「お休みなさいませ、お兄さま。うふふ」


「お休みなさい」


 そしてジェレミーが立ち去るのも待たずに二人は熱い口付けを交わし始めた。しかし、二階に上がったと思ったジェレミーはすぐにドタドタと階段を駆け下りてくる。


「オイ、そこでブチュブチュベタベタいつまでやってんだ? それどころじゃねえよ、アナが居ないんだよ、アイツの部屋にも俺の部屋にも。お前らもしかしてアイツが出て行くところなんて見なかったか?」


 大慌てのジェレミーであった。流石に今度はフロレンスもアントワーヌの膝から下りて立ち上がった。


「お兄さま、落ち着いて下さい。そんな屋敷中に響き渡る足音に大声を出してはナタンやもう休んでいる使用人達を起こしてしまいますわ。きっとアナさんはナタンを寝かしつけてそのまま寝てしまったのでしょう。今見て参ります」


「そ、そうか? 俺も行く」


「お兄さまはここでお待ちください。そんな形相で大声を上げながらナタンの部屋に駆け込まれては二人が起きます!」


「お、おう……」




 そしてフロレンスは足早にしかし音は立てないようにナタニエルの部屋に向かう。部屋の扉をそっと開けて中を覗いてみたら案の定アナもナタニエルの横で寝入っている。途中まで読み聞かせていたのだろう、本が一冊枕元に転がっていた。フロレンスは微笑んで本を片付け、アナをそっと揺すって静かに声を掛けた。


「アナさん、起きて下さい。兄が先程帰宅しましたよ」


「……ニャーニャー、ジェレミーさまぁ、そこくすぐったいですニャン」


「にゃん? まあアナさんったら」


 フロレンスは思わず吹き出してしまう。そこでゆっくりとアナは目を開け、我に返ったようだった。


「あれ? フロレンスさまですか? あ、私ナタンの隣で眠ってしまったのですね……」


 アナはゆっくりとナタニエルに掛けられた肌掛けをめくらないように起き上がった。


「ええ。兄が今帰宅してアナさんが居ないって騒いでいるのです」


「まあ、大変。もうそんな時間なのね」


 アナは隣のナタニエルがまだぐっすり眠っているのを確認して、欠伸を噛み殺しながらそろそろと寝台から下りた。


「フロレンスさま、お休みなさい。ナタンの次はいい年した大人の旦那さまを寝かしつける番ね。三歳児よりも手がかかるのですから。ふぁー」


「お休みなさい、兄はまだ居間ですけれどすぐにお部屋に行くと思うわ」


 ジェレミーのことを世話の焼ける大人などと言っている割にアナは非常に嬉しそうに自分達の部屋に戻って行った。




 その頃階下ではアントワーヌと二人きりになったジェレミーが少々気まずい思いをしていた。


「義兄上、まあこちらにお座り下さい。蒸留酒でもいかがですか?」


「蒸留酒でもいかがってこの屋敷の主人は俺でお前は客だろーが! 飲みたかったら自分で注ぐわ!」


 ジェレミーはアントワーヌの向かいにドカッと座った。


「ところで、先程アナさんが出て行ったかどうか心配されていましたね。今までにそんなことがあったのですか? それとも彼女に出て行かれるような心当たりでも?」


「ゲッ……お前には関係ねぇよ」


 やたら鋭いアントワーヌである。


「関係ないことはないでしょう。アナさんは私の大切な友人であり、義理の姉になる方ですから。お義兄様に愛想を尽かして出て行かれたとあっては……」


「だから! それは違うってフローが確認に……」


「また何をそんなに大声出されているのですかお兄さま。アナさん、やはりナタンと一緒に寝ていました。もう起きてご自分の部屋に戻られましたから落ち着いて下さいませ、全くもう」


 フロレンスが居間に戻ってきていた。


「全くもうって、お前な、ナタンの母親だろーが! 自分で寝かしつけろよ! 毎晩のようにコイツと浮かれてないでさ!」


「それは少々失礼ではないですか? まるでフロレンス様が母親業を放棄しているようなおっしゃり方ですよ。それに時々はフロレンス様と僕の二人でナタンをお風呂に入れて寝かしています」


「うるせぇ、通い婚くんは少し黙ってろ!」


 まだ結婚前だから通って来ているんじゃないか、反論したかったアントワーヌだったが口をつぐんだ。


「『フロレンスさまが結婚されてナタンとこの屋敷を出ていかれるまでは、出来るだけナタンのお世話をさせて下さい』とアナさんの方からお願いされたら断れませんわ」


「そ、それはそうだけどさ」


「それにアナさんとナタンは初めて会った時から大の仲良しですもの。アナさんが婚約中から頻繁にラングロワ家に来て下さっていたこと、お兄さまもご存知ですよね」


「ああ……まあ何だ、今晩は悪かったな邪魔して……お休み」


 ジェレミーはスゴスゴと、しかし同時にいそいそと部屋に戻って行った。




「アントワーヌ、何をそんなにニヤニヤしているの?」


 フロレンスは再びアントワーヌに引き寄せられて彼の膝の上に腰かけた。


「いえ、お義兄様の慌てぶりとナタンに嫉妬する様子が何とも可笑しくて……」


 アントワーヌは先程からジェレミーの前で笑いをこらえるのに苦労していた。


「それはそうと、先程アナさんを起こそうとしたら寝ぼけていらしたのかしら、変な寝言をおっしゃっていたわ。『にゃんにゃん、ジェレミーさまぁ、そんなところ触っちゃぁ、あっ、いやぁん、くすぐったいですにゃーん!』みたいなことを」


「へぇ? にゃんにゃん? ハハハッ」


 彼はもう笑いが止まらなくなってしまった。


「ええ。猫になった夢でも見ていらしたのかしらね?」


「そうですねぇ、それともお二人はそういうプレイがお好きなのかも……」


「アントワーヌったら! もう、やだわ! でもその可能性大ね、うふふ」


 ジェレミーの前では良く笑うのを我慢しないといけないので、彼のいないところではその反動で大笑いしてしまうアントワーヌである。


「あぁもう僕駄目です。先程から可笑しくて可笑しくて……ハハハハハ」


 ルクレール家の夜はこうして更けていくのであった。



***ひとこと***

またまたアントワーヌ君の呼び名が増えてしまいました。

桃色遊戯男子、通い婚くん


ジェレミーとアナの話はシリーズ第三作「奥様は変幻自在」になります。未読の方はよろしければそちらもお読み下さい。どうしてアナがニャンニャン言っているのかが分かります!

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