第四十三話 鬼の目にも涙
フロレンスはアントワーヌを客用寝室に案内した。そこでは侍女が一人、風呂の準備をしている。
「早く貴女と二人きりになりたいです」
侍女の目を盗んでアントワーヌはフロレンスの唇にさっとキスをした。
「私もよ。もう待てないわ」
「ねえフロレンス、今度僕の別宅にいらっしゃいませんか?」
「コライユたちのお邪魔じゃないのかしら?」
フロレンスはドウジュに会ったことはないし名前も知らないが、アントワーヌの諜報員でコライユの婚約者である彼の存在は知っている。
「新しい別宅は十分広いですよ?」
「そうなの? うふふ」
再びアントワーヌはフロレンスに軽くキスをした。
「さ、お風呂に入ってさっぱりしてきます」
風呂の準備を終えた侍女を下げ、フロレンスも部屋を出て居間に戻ったところ、ジェレミーが一人でいた。ナタニエルはアナとまだ庭で遊んでいるようだ。
「何だフロー、お前一緒に風呂に入らなかったのか? アントワーヌ、お背中流しましょうか? とかそういう雰囲気になるだろ普通? そんでもってついでに手と口でサクッとシて差し上げま……」
「ジェレミー・ルクレール侯爵、人前でそんな卑猥なことをおっしゃらないで下さいませ……私、恥ずかしいです……」
「お前、何アイツの口真似してんだよ!」
「しょっちゅうそんなことアナさんにおっしゃっているのですね、お兄さまは」
「いや、だってさ……」
アントワーヌが風呂から上がり、身繕いをし終わった頃にはフロレンスの両親、アルノー、テレーズ・ルクレール前侯爵夫妻も既に到着していた。ルクレール家の居間からは賑やかな声が聞こえてくる。
アントワーヌは以前からフロレンスに両親のことを教えてもらっていた。父親のアルノーは特に王妃やジェレミーには手を焼いていたが、彼らに比べると末っ子のフロレンスは大人しく問題も特に起こさなかったので彼女には優しかったそうだ。母親のテレーズは上の二人に振り回されるアルノーを宥めたり慰めたりする役だったらしい。
フロレンスによると彼女の両親は気さくな人のようだったが、それは実の娘から見た人物像なのだろう。赤の他人の、身分も違うアントワーヌにも同じように接してくれるとは考えにくい。
そこで恐る恐る遠慮がちに居間に顔を覗かせたアントワーヌだった。フロレンスはすぐに彼のところへ駆け寄り、手を取って中に招き入れた。
「お父さま、お母さま、アントワーヌ・ペルティエさまを紹介致しますわ」
「初めてお目にかかります、ルクレール前侯爵夫妻。あの、この度はフロレンス様が無事に……」
少々緊張気味のアントワーヌは無事に離縁が成立というのも変だな、などと言葉を選んでいたのだが、アルノーに
「おお、君がフロレンスを助けてくれたという……父親として感謝の言葉もない……ああ、この私が不甲斐なかったせいで……ううう……」
そしてアルノーは言葉に詰まってしまった。
「いえ、その……」
「まあ、アルノーったら涙をお拭きくださいな。アントワーヌさんが驚いていらっしゃるわ。私からもお礼申し上げます。フロレンスとナタンが犯罪や危険に巻き込まれそうになっても、無事に我が家に帰ってこられたのは全て貴方のお陰です。ありがとうございます、アントワーヌさん」
アルノーにハンカチを渡したテレーズも涙ぐんでいた。
「勿体ないお言葉です、前侯爵夫妻。私は自分に出来ることをしたまでです」
そこへアナがナタンを連れてやって来た。
「おじいさま、おばあさま、こんばんわ!」
「お義父さま、お義母さま、お久しぶりでございます。皆さま、そろそろ食事の準備ができたようですわ」
食事の間は主にアルノーがフロレンスの子供時代の逸話をたくさん披露してくれた。フロレンスからは家族のことは色々聞いていたアントワーヌだったが、彼女自身の昔の話を人から聞くのは新鮮だった。
食後、すぐに前侯爵夫妻は部屋に引き取った。彼らはしばらく王都のこの屋敷に滞在するらしい。
アナはナタニエルを寝かしつけると言って連れて行った。
「フロレンスさま、アントワーヌとごゆっくり」
「お母さま、おじさま、アントワーヌさま、おやすみなさい」
「あいつ、ナタンが家に来てからもうあんな調子で寝ても覚めてもナタンナタンって……」
何だかいじけているジェレミーは蒸留酒の瓶を開けた。
「お前も飲め」
「いえ、私は結構です。これから馬で帰宅しますので」
「泊っていけ」
「はい?」
「え、お兄さま……」
「フローの部屋に今晩泊まることを許可するって言ってんだよ。ただし明日の朝は両親やナタンが起きてくる前に出て行けよ」
アントワーヌは少し赤面してジェレミーに礼を言った。
「あの……ありがとうございます、お兄様」
「オニイサマ言うな。まあ何だ、婚約が成立したらそう呼ばせてやる。先日ランジェリーの野郎に義兄上と呼ばれた時は悪寒が走った……だいたいアイツの方が年上なのにさ」
フロレンスとアントワーヌは顔を見合わせて微笑んだ。
「お前、さっき両親にフローとの結婚の許しを請うかと思ってたぞ?」
「それは日を改めて書類が整い次第伺います」
「何の書類を揃える必要がある? フローもお前もこれ以上待てないほど待っただろ、ぐずぐずすんな、とっととくっついちまえ」
「ありがとうございます」
「お兄さまったら」
その後、お休みなさいを言い、居間を出て行く二人にジェレミーは声を掛けた。
「フローも晴れて未亡人、じゃなかった、出戻りだから中に出しさえしなければ何ヤッてもいい、許す」
「旦那さま、またそのようなはしたない事を人前で堂々と……恥ずかしいですわ……」
「何でお前またアイツの口真似してんだよ!」
アントワーヌは笑いを噛み殺しながらフロレンスの耳元に囁いた。
「血は争えませんね」
「ええ、そうね」
「オイ、何を二人こそこそ話してる?」
「二年ほど前、お姉さまの部屋で密会させて頂いたのです。お姉さまも同じようなことをおっしゃいました。それが懐かしくて」
「侯爵、この私がフロレンス様の名誉を傷つけるような危険をむざむざ冒すとお思いですか?」
「いや、思わない。ちょっと言ってみただけだ、石橋ワタル君」
二人はまた見つめ合ってくすくすと笑った。
フロレンスの部屋に入って扉を閉めるなり、アントワーヌは彼女をしっかり抱き締め、そして二人は貪るように口付けを交わした。
「ああ、アントワーヌ、好きよ、愛しているわ。学院に居た頃からずっと」
「貴女の口から初めてその言葉が聞けました。嬉しいです」
「他の男性と婚約、そして結婚した私が何を言っても虚しく響くだけだったのですもの。今やっとフロレンス・ルクレールに戻れて貴方への愛が語れるようになったわ。長い間待ってくれて、そして私を救い出してくれてありがとう、アントワーヌ」
「陛下が離縁の王命を下さった日が今までの人生で最良の日だと思いました。でも、こうして貴女が自由の身になって、僕の腕の中に居る今日のこの日はもっと素晴らしいです」
「これからもっともっと素晴らしい日々を二人で迎えましょうね」
「ああ、フロレンス、僕の大輪の花よ。愛しています。僕もやっと直接貴女への愛を口に出来るようになりました」
***ひとこと***
ジェレミーさまは一人手酌で飲んでいます。アナがナタニエル君に夢中なので妬いているのですね。
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