第三十八話 窮鼠猫を嚙む
ラングロワは領地にとんぼ帰りしたが、その翌早朝に事件は起こった。まだ夜も明けないうちに侍女のリリアンが動いたのである。彼女は屋敷中が寝静まっている中、そっと自室を抜け出しナタニエルの部屋に侵入した。眠っている彼を抱きかかえ、階段を下り勝手口から屋敷を出た。
リリアンは屋敷の裏口に手配した馬車を待たせており、そこへナタニエルを抱いて運ぼうとしていた。ナタニエルは少し目を覚ましたがまだ寝ぼけた様子である。
「ねむいよう、おかあさまー」
リリアンはギクッとして彼に囁いた。
「しーっ、お坊ちゃま。これから楽しく遊べる場所へ連れて行って差し上げますからね」
「たのしいところってどこ? なにしてあそぶの?」
「そうですねぇ、馬車でしばらく山を越えて行って、そこには大きなお屋敷があってお庭には色々な遊具もありますよ」
「おにごっこやかくれんぼできるかな?」
「ええ、もちろん出来ますよ」
その時、アントワーヌに送り込まれ、厨房で働いているモードは起き出したところだった。目を覚ますため、冷たい井戸水で顔を洗っているところに人影を発見した。まだ辺りは暗くてはっきりと見えなかったのだが、観察力が優れているモードはその人の足運びで誰かすぐに分かった。
(あの歩き方は……リリアンさんだわ! 何を抱えているのかしら? あ、動いた、それに何か話し声も聞こえる……え、もしかして……)
リリアンの行動には特に気を付けろと言われていたモードである。朝の四時に屋敷の裏口に向かうなどリリアンでなくても異常な振る舞いである。モードは思いっきり大声を上げ、コライユに渡されていた笛も吹いた。
「リリアンさぁーん! そこで何をなさっているのですかー? もしかしてお坊ちゃまもご一緒ですか!」
丁度そこにコライユも笛の音を聞くまでもなく現れた。しかし、モードの声にハッとしたリリアンはナタニエルを下ろして立たせ左腕を彼の首回りにまわした。そして右手で短刀を取り出し、それをナタニエルの首にあてて叫んだ。
「近寄るな!」
ナタニエルを人質に取られていては動きようがなかった。コライユは実際間者としてこんなに焦ったことは初めてだった。
リリアンはナタニエルと一緒にそろそろと裏口の方へ後ずさりしている。このまま彼女がナタニエルを連れて馬車に乗ってしまう前に彼を取り返さないと面倒なことになるのは明らかだった。幸いナタニエルは怖がる様子もなく、目をぱちくりさせている。
「ねえ、リリアン、みなでかくれんぼするの?」
「え、ええ、そうです。お坊ちゃまこれからかくれんぼしましょう」
やや動揺しながらリリアンがそう答えている。その言葉にハッとしたコライユはナタニエルに声を掛けた。
「お坊ちゃま『大かくれんぼ大会』のことを覚えていらっしゃいますか?」
「あっ、そうだった! 『大かくれんぼ大会』だ! じゃあね、これからかくれるからね!」
そしてナタニエルは忽然とリリアンの腕の中から消えたのである。コライユが呆然としているリリアンから短刀を奪って気絶させたところに、フロレンスもモードの大声が聞こえたのか、駆けつけてきた。
「コライユ、何があったの? もしかしてナタンに何か?」
モードは何が何やら分からず、あっけに取られたまま井戸の側に立ち尽くしている。
「フロレンスさま、ご安心ください。お坊ちゃまはリリアンに誘拐されそうになりましたが、ご自分で危険から逃れられました」
そしてコライユは彼女の側に行き耳元にそっと囁いた。
「瞬間移動で、何処かへ。おそらくルクレール家だと思われます」
フロレンスは力なくその場にへたり込んだ。
「ああナタン、本当に大丈夫なの?」
「とりあえず屋敷にお入りください。あの女を縛って逃げないようにしたらすぐにルクレール家まで私が向かいます。心配ご無用です」
コライユはその場にぼうっとしているモードに喝を入れ、フロレンスを支えて屋敷に戻るように指示を出す。屋敷の裏口のところで気を失って転がっているリリアンは、そこで起きてきた執事や厨房の使用人達と一緒に縄で縛った。
ラングロワが晴れて捕まればリリアンも立派な証人となることだろうとコライユは考えた。そもそも彼女がラングロワについて証言する気があればだが。どうせこの誘拐劇もラングロワがリリアンに命じたことに違いない。彼は自身の息子を人質に取り、時間を稼ぎ他国にでも逃げ出そうとしたのだろう。
とりあえずリリアンは警護団の牢にでも入れておけば良いだろうが、彼女の処遇は後程アントワーヌの指示に従えばいいだけだ。
「愚かなリリアン……ラングロワの寵愛を取り戻すために必死だったのかもしれないのだろうけど、犯罪にまで手を染めちゃって。アンタもっと別の生き方も出来たろうに……」
他の使用人達の前だったが、コライユはそう呟かずにはいられなかった。そして彼らにリリアンを逃がさないよう、どこか屋敷の一室にでも入れて見張っておくように頼んだ。
屋敷の裏口にまだ止まっている馬車はただの辻馬車に見えなくもない。コライユはそっと近付き御者が一人居るだけなのを確認すると、その御者も一撃を加え気絶させた。執事に彼のことも縛っておくように指示を出し、コライユはすぐにルクレール家へ発った。
今はナタニエルの安否確認が最優先である。
その頃早朝のルクレール家ではアナがはっと目を覚ましていた。眠りが浅く、庭の方から魔力を持った何者かが急に現れたのを感じたのである。アナは隣のジェレミーを起こさないよう、静かに寝台から下り、上着を羽織り、バルコニーに出てみた。暗くて何も見えないが確かに結構な魔力を感じる。
「この魔力は何処かで……」
見ず知らずの人間ではなく、アナもよく知っている人物の魔力だと分かった。しかし、学院の教師や級友のものではなさそうだった。その時ジェレミーに声を掛けられる。
「アナ、どうした? 眠れないのか?」
そして後ろからそっと抱きしめられた。
「旦那さま、起こしてしまいましたか? 申し訳ございません」
「いや、俺も何となく目が覚めただけだ」
「何だか先程から魔力を持った人の気配がするのです。庭のあの生垣の辺りです。でも危険は感じません。ちょっと行ってみます」
「待て、一人で飛んで行くな。階段を使え。俺も行くぞ」
***ひとこと***
利口なナタニエル君、良く出来ました!
モードも役に立ちましたし、コライユも見事な働きです。他の使用人たちもびっくり!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます