第三十七話 馬脚を露す
その長い一日の終わり、帰り支度をしていたアントワーヌはソンルグレに声を掛けられた。周りはもうほとんど帰宅して人は少なくなっていた。
「ちょっといいか? 話がある」
「はい、何でしょうか? 場所を変えますか?」
「ああ。廊下の角の会議室に居るよ」
「分かりました。私もすぐ向かいます」
アントワーヌが部屋に入るとソンルグレは口を開いた。
「今日はサヴァン君も呼んで祝杯を上げに行きたいところだが、君のフロレンス様と息子さんが無事にルクレール家に戻ってからにしような」
「はい、そうですね」
「で、お前をここに呼んだ訳はだな……」
ソンルグレはアントワーヌが考えてもみなかった提案を持ちかけてきたのである。
「あの、ソンルグレ副長官、私、何と申したら良いのでしょうか……願ってもないことですけれど……今日は一度に色んな事が起こって何だかまだ夢を見ているような気分です」
「まあゆっくり考えてみてくれ。君のご家族とも相談しないといけないだろうしな」
「はい、ありがとうございます」
次の日の午後、アントワーヌはドウジュの報告を聞いていた。
「ラングロワが慌てて王都に向かっています。私は途中で追い越しましたが、夕方頃には屋敷に着くはずです」
「疲れているところ申し訳ないけど、またラングロワを張っていてくれるかな?」
「もちろんです。それでは」
貴族院の誰かが情報を洩らしたのか、ただ虫が知らせただけなのかラングロワの急な動きがアントワーヌは気になった。
その頃ラングロワ家の居間では珍しい客をフロレンスは迎えていた。
「お兄さま、どうなさったのですか?」
「いや、ちょっとな。お前とナタンの顔を見に来た」
フロレンスは声をひそめて言った。
「私とナタンは明後日にはルクレール家に戻りますわよ」
「まあ、それでもだ」
ジェレミーもアントワーヌと同じく、追い詰められたラングロワが何かしでかすのではないかと心配になり、ラングロワ家を訪れたのだった。しかし、フロレンスの前では彼女の不安を
「それでは夕食を一緒に召し上がって行って下さいませ」
「ああ、ありがたく頂く」
「それはそうとおめでとうございます。お兄さま、もうすぐ父親になられるのですね。アナさんの体調はいかがですか?」
前回金庫の件で来てもらった時に何となく察していたフロレンスだが、正式に夫婦からアナの妊娠を知らされたのはつい先日のことだった。
「最近は悪阻も治まって気分が良くなったらしい」
「ああ、良かったわ。アナさんに前回来ていただいた時は色々お願いして無理をさせて、それにお帰りも遅くなったのでしょう? 申し訳ありませんでした」
「いや、それはもういい。アイツも役に立てて良かったって言ってるしな」
ジェレミーは何だか少し照れていた。フロレンスは微笑ましく思った。兄ジェレミーのこんな顔なんて初めて見るかもしれない。そこへナタニエルがコライユに連れられてやって来た。
「伯父さま、こんにちは!」
「おう、ナタン。しばらく見ないうちにまた一段と逞しくなったなあ」
ナタニエルはジェレミーの所へ駆け寄り、彼に抱き上げられた。
「伯父さま、僕とかくれんぼしませんか?」
「よし、暗くなる前に少し遊ぶか」
「いいのですか、お兄さま?」
「構わんよ。さあ行くぞ、ナタン」
二人は手を繋いでテラスから庭に出た。フロレンスもテラスに出て二人が遊んでいるところを見ていたその時である、門からガタガタと馬車が尋常でない速さで入ってくる音がした。庭のジェレミーとナタニエルも驚いている。玄関の扉が開き、入ってきた人物は執事を押しのけるようにして二階へ駆けあがった。
(書類の無事を確かめに来たのね。お生憎さま)
フロレンスが居間で夫と対峙しようと待ち受けていたところへ、案の定ラングロワ侯爵はものすごい形相で駆け込んできた。
「お前、私の寝室に侵入したな? 盗ったものを返せ!」
「何のことでございましょう、挨拶もそこそこに」
「しらばっくれるんじゃない!」
ラングロワはフロレンスの胸倉を掴み手を振り上げようとした時、テラスの扉からジェレミーが入ってきた。
「これはこれはラングロワ侯爵、ご無沙汰しております」
さっとフロレンスから手を離したラングロワの慌てようは滑稽なほどだった。
「あ、義兄上、ル、ルクレール侯爵、こちらこそご無沙汰しております。今日はどうされましたか?」
「妹と甥の顔を見にちょっと寄っただけです」
「今日は兄も夕食をここで私たちと一緒にとる時間があるそうですわ。ナタンも喜んでおりますの」
「そ、そうですか。ごゆっくりどうぞ。あの、妻に話があるのですが、ちょっとお借りしてもよろしいでしょうか」
「お話でしたらここで承ります」
「では私はナタンと引き続き庭で遊んでいましょうか」
「お兄さまが退室なさるのでしたら執事と侍女を同席させます。先程のようなことがあるといけませんから」
「な、何だと?」
「貴方が何をお探しか存じませんが、私の部屋でも屋敷のどこでもお好きなようにひっくり返して下さい」
「し、失礼致します」
辛うじてラングロワはジェレミーに一言かけ、再び二階に駆け上がって行った。
「おい、フロー、いいのか? 本命君からの恋文が見つかってしまうぞ。まずくないのか?」
ジェレミーはフロレンスの耳に囁いた。
「そんなものはございません。ご心配なく。それにもしあったとしても彼は目に留めている余裕もないでしょうし」
フロレンスは国庫の書類を見つけた日から少しずつ身辺整理を始め、コライユに今まで保管しておいた文はアントワーヌの隠れ家に持って行ってもらった。どっちみち魔法の墨で書いた文なのでフロレンス以外の人間にはただの白い紙にしか見えないのだ。
そして二階からはドッタンバッタンと大騒音が聞こえてきた。執事や他の使用人の声も聞こえてきた。
「旦那様、一体どうなさったのですか? 少し落ち着いて下さい!」
フロレンスは品がないと思ったがフンと鼻を鳴らさずにはいられなかった。
「いい気味だわ。いくら探しても何も出てくるはずはないのに。お兄さま、ナタニエルはまだ庭ですか?」
「ああ。先程の侍女と一緒だ」
「私がラングロワに殴られそうになったところを見られてしまったでしょうか?」
「いや、多分見ていないと思う」
「良かったわ。あの子にはこれ以上父親の悪い所を見せたくないですから。私たちも庭に出ましょう、お兄さま。きっとラングロワはこの居間もひっくり返しに来ますよ」
フロレンスの言った通り、ラングロワは今度は一階の居間や書斎もあちこち引っ掻き回し始めた。
「それにしても奴、狂気じみてないか?」
「目つきが異常で、ますます不健康そうになったでしょう? アントワーヌによると彼自身もここ一年で麻薬の使用量が増えたとのことですわ」
「自分が栽培加工してりゃ使ってみたくなるもんなんだろうが、薄氷フミオくんはよぉ。危ない橋を渡り始めてさ、後戻り出来なくなったってところか。貴族としてだけじゃなく人間としてもう終わりだな……お前今まで良く我慢したな」
「長かったです……あと一日の辛抱ですわ……」
その夜、ジェレミーは遅くまでラングロワ家に残った。血眼になって家中をひっくり返した後、もちろん何も見つけられなかったラングロワはバタバタと領地にトンボ帰りした。ジェレミーは念のためフロレンスとナタニエルの安全の為に彼らと一緒に居たのだった。
***ひとこと***
ジェレミーさま、本人の前ではランジェリーじゃなくてちゃんと間違わずに名前呼べるじゃないですか……
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