第三十二話 蹴る馬も乗り手次第

 就業後かなり急いでこの別邸まで来たのだろう、アントワーヌは息が切れている。無理もない。


「アナさん、お久しぶりです。お元気ですか?」


「ええアントワーヌ、部屋も暖まっていて気持ち良くて少し眠ってしまったわ」


 アナは早速ラングロワ家から持ち出した書類をアントワーヌに渡した。それを受け取った彼の手は震えており、書類に一通り目を通した彼の顔には何とも言えない表情が浮かんでいた。


「アナさん、こ、これのために僕たちは今まで……」


 苦労が報われて力が抜けたのか、アントワーヌは言葉に詰まっている。


「お役に立てて良かったわ、アントワーヌ。でもラングロワ侯爵はどうしてこの書類を王都の屋敷に置いていたのかしら。私だったら領地に持って行くわ」


「僕が思うに、この書類の魔法を恐れてラングロワはあまり手を触れたくないのかもしれません。それに彼もフロレンス様が事情を全て知っているとはまだ疑ってもいないでしょう。だから下手に動かしたりせずにずっとその金庫に入れておいたのですよ、きっと」


「そういうものかしら。でもその書類にかかっている魔法はそこまで強いものではないですよ」


「ラングロワは魔力もその知識もありませんからね。とにかく、彼が怪しんで警戒し始める前にこれを手に入れられて本当に良かったです。本当にありがとうございました」


「私、ずっとお世話になってばかりだったアントワーヌにやっとささやかだけど恩返しが出来たのね。嬉しいわ」


「貴女を抱き締めてキスしたい気分です。あ、もちろん額と頬に、です。でも止めておきます。アナさんに泥棒の真似をさせただけでも、ルクレール中佐の気分はよろしくないでしょうしね」


「ふふふ」


 アナはそう笑ったが、帰宅してジェレミーに何をしていたか知られたらこってりと絞られそうだった。


「もう少しだ……あとちょっとで……」


 アントワーヌはブツブツ言っている。アナには彼の気持ちが良く分かった。


「もう少し材料を揃えてからこの書類を使わせてもらいます。アナさん、お帰りは瞬間移動ですか?」


「えっと、今日は辻馬車で帰ります(アントワーヌは私が瞬間移動出来ることも知っているのね)」


「では、今呼びましょう」


 帰り際にはアントワーヌはアナが辻馬車に乗るまで見送ってくれ、お湯を入れ替えた湯たんぽはもちろん、さらにひざ掛けをもう一枚掛けられた。アントワーヌはアナが去ってからフロレンスに文を書いた。


『フロレンス、貴女は最高に素晴らしい。これで材料がほぼ揃いました。あと少しの辛抱です。愛しています』




 アナが帰宅すると案の定不機嫌そうな顔のジェレミーが帰りを待ち受けていた。


「オイ、うちの馬車で行けないような所って何なんだよ! 心配したじゃないか!」


 先程まで一緒に心配していただろう執事のセバスチャンになだめられている。


「旦那様、そんなに声を荒げると奥様も……」


「これが落ち着いていられるかよ!」


「ご心配お掛けして申し訳ありませんでした。旦那さま、部屋に参りましょう。そこでご説明致します」


「ほう、観念して大人しくお仕置きを受ける気になってるか。セブ、俺たち夕食は少し遅れるからな!」


「だ、旦那さま! そうではございません! セバスチャン、夕食はちゃんと時間通りに頂きます!」


 アナは真っ赤になって言った。


「畏まりました、旦那様、奥様。ごゆっくりどうぞ」


「ゆっくりいたしません!」


 そう言い残しアナはさっさと階段を上って行った。


「待てよ、アナ。走るな。転ぶぞ」


 ジェレミーも慌てて追いかける。部屋に入ってからアナはジェレミーと長椅子に座って彼に事情を話した。結局ジェレミーは少しは分かってくれた。


「あのクソランジェリーの野郎の部屋にコソ泥に入るのは犯罪とは言わねえけど。奴の方がよっぽどのことをやらかしてるからな。でももし誰かに見つかったら危険だろ! フローもお前に何させるかわざと俺に何も言わなかったな!」


 しかし、アナがジェレミーに黙って一人でアントワーヌに書類を渡しに行ったことに対してはかなり機嫌を損ねた。


「だからって、お前が一人であの腹黒少年の所まで行く必要はないだろーが! アイツそういう意味じゃ危険性ゼロだけどさ、むざむざ二人っきりになるとはよぉ!」


「申し訳ありません、旦那さま。私も何とかしてお二人の役に立ちたくって」


「アイツら、このクソ寒い中妊婦をこき使いやがって」


「まだお二人には私の妊娠のことを伝えていないのですから、しょうがありません」


「つべこべ言うんじゃねえよ、オイそこになおれ!」


 そしてたっぷりお仕置きをされそうな雰囲気になってしまったのである。


「本当は私でなくフロレンスさまの方ですよ、アントワーヌに会いたくてたまらないのは……旦那さま、今日は色んなことがあって気持ちが高ぶった上にいつもより多めに魔法も使ったので、私少し疲れているのです」


 しかしアナのその言葉にジェレミーは勢いをそがれてしまったようだった。


「ま、まあ俺もお前をさらに疲れさせようって気はないが……」


「申し訳ございませんけど、その、お仕置きはまた今度にして頂けますか?」


 そうアナに見上げられてお願いされたジェレミーはもう強く出られなくなってしまう。


「おい、大丈夫か? お仕置きサれたくないとはよっぽど疲れているんだな? 普段ならお前の方から恍惚とした表情でおねだりしてくるくせに。医者呼ぶか?」


 今度は変な方向で心配までし始めた。アナは顔を真っ赤にさせて否定する。


「お、おねだりって何ですか! それっていつも旦那さまがムリヤリ……あとお医者さまは必要ありません! 本当に疲れているだけです」


「ならいいけど。しょうがねぇな、お仕置きはまた今度だ。お前の体調が良い時にシてやる。さ、晩飯食いに下りて行くぞ」


 ジェレミーが部屋を出かけたところ、アナは思わず彼の背中をギュッと抱きしめて言った。


「好きです、旦那さま」


 二人きりの時でさえあまり自分からベタベタしてこないアナにしては珍しい。ジェレミーは満足そうに向き直り、正面から彼女を抱きしめ頭頂にキスをした。


「どうした、アナ=ニコルさんは急に甘えん坊になっちゃって」


「今日はフロレンスさまとアントワーヌの両方に会って、お二人の強い気持ちを感じたからだと思うのです。こうして旦那さまと毎日一緒に居られてアナは幸せです」


「そうだな……」


 ジェレミーも二人の気持ちを思って少々しんみりしてしまったようである。その後夫婦は時間通りに夕食の席に着き、しかもジェレミーが非常に機嫌の良いのにはセバスチャンは内心驚いていた。アナは彼にそっと目配せしてニッコリ笑った。


(何だか良く分かりませんが、とにかく奥様は益々旦那様の扱い方がお上手になられているようですね)


 セバスチャンは笑いをかみ殺していた。



***ひとこと***

アナは今まで色々お世話になっていたアントワーヌにやっとお返しが出来ました。彼らが義理の姉弟になる日も近いでしょうね。

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