第二十三話 石橋を叩いて渡る

 アントワーヌはフロレンスから先日王妃の部屋でアナに会ったと知らされた。最近の二人は文のやり取りはコライユではなくラングロワ家に行くことを覚えたサブレを使うことが多くなった。


『アナさんはお兄さまのことを深く愛していらっしゃるわ。何だか微笑ましかったです。肝心のお兄さまは相変わらずですけども、何となく彼女のことは気遣っているのが分かりました』


 あの傍若無人なジェレミーがアナのことを気遣う? 先日サヴァン家では彼女は放ったらかしにされていたというのに、アントワーヌはどうしても疑わずにはいられない。




 それからしばらくしてアナからの文が来た。ジェレミーが侯爵位を継いでこの夏にアナと結婚することになった、と聞いた直後のことである。アナはなんでも相談事があるらしい。


 フロレンスの義理の姉となるアナと付き合いがあることを人に知られたくなかった。何処で会って話をすればいいかアントワーヌは迷った。用心に越したことはない。


 考えた末にプラトー地区の隠れ家に来てもらうことにした。質素なドレスで来てくれ、と強調した。アナ自身も侯爵令嬢とは言え、特に婚約前は平民かと思うような地味な身なりであったから大丈夫だろう。




 約束の日時に隠れ家にやって来たアナは不審そうな顔をしていた。


「どうしてわざわざこのお家で会うことにしたのですか?」


「アナさんはもう婚約されているから、お互いの屋敷を行き来するのはまずいかなと思っただけですよ。ここは我が家の通いの使用人の家です」


「そうなのですか……」


 かと言ってこんな怪しげなところで二人きりの方がもっとまずいだろう、とアントワーヌは自分でも矛盾していると思った。アナも納得していないようだったが、それ以上何も言わなかった。


 実は二人きりではなく、ドウジュがその辺りに居るはずなのだが、もちろんアナは知らない。アントワーヌはアナの相談事を聞き、どうしようもなく怒りを感じた。


 ジェレミーと婚約したアナを陥れようとする人間がいるとビアンカに教えてもらったそうだ。ジェレミーの熱狂的なファンか、それとも彼に嫁ぐことを狙っている女か知らないが、だいたいアナを婚約者の座から引きずり降ろして自分がジェレミーに選ばれるとでも思っているのだろうか。


「ビアンカ様のおっしゃる通りです。護衛を一人お貸ししますよ」


「まあ、アントワーヌ、貴方って色々な職の方をご存じなのね。でも申し訳ないわ。どんな事に気をつけたらいいか、知恵をお借りできないかしら。私のせいでルクレール家の名誉に傷がつくのだけは避けたいのです」


「アナさん、貴女ならどうします? 自分が好きで憧れている人がある日突然他の女性と婚約してしまったとしたら」


「悲しいけどその方のお幸せを願います」


 アントワーヌは微笑んだ。


「アナさんならそうでしょうけど。相手の女性を陥れてあわよくば自分が代わりに婚約者に収まろうと考える人間もいるのですよ」


「そうでしょうか。嫉妬する気持ちは分からないでもないですけど、人に危害を与えるなんて私には理解できませんわ。では、もし嫌がらせをされるとしたら、どういった事をされるのでしょう?」


「嫌がらせにも色々あるでしょうけど、そうですね、貴女が彼と婚約するに相応しくない、という噂を流すとか……」


 そこでアントワーヌは言い淀んだ。


「噂って、私が不貞を働いているとか、他の男性と既に契ってしまっていてもう純潔でないとかですか? ああ、その為に人に私を襲わせてその現場を押さえるとか?」


 彼はアナがあまりにはっきりと言うので少々戸惑った。


「ごめんなさい、言いにくいことを言わせてしまいました」


「大丈夫よ。そうね、このような噂は私の名誉が傷つくだけで、ルクレール家はとんだあばずれに騙されかけるところだった、と世間は思うし、相手の思う壺だわ」


「女性は未婚だろうが既婚だろうが男性に比べて不自由な世の中ですよね……」


「そうね、そう言われてみれば男性の方が余程自由気ままですわね。でも、そのような見方を私は今までしたことなかったわ」


「女性は生まれた時からこうあるべき、という概念を植え付けられて育っているからですよ。それが当たり前となっているのです」


 だからフロレンスは法的にも社会的にもあの横暴な夫の元に縛り付けられ、自分から離縁も出来ず苦しんでいるのだ。


「そうね……アントワーヌの言う通り、もう婚約している私が一人で貴方の屋敷を訪ねるのも良くないわね。侯爵令嬢とあろうものが、付添もなく外出するのもどうかと思うのですが、恥ずかしながら人を付ける予算も無くて……」


 アントワーヌはアナに具体的にどんなことに気を付けたらいいのか助言した。外を一人で歩くこと、信用できない人物と二人きりになること、他人から渡された飲み物や食べ物を口にすること、など言い出したらきりがない。新しく入ってきた使用人にも注意しないといけない。非常に心配だった。


「ルクレール中佐の周りでどなたか心当たりはありますか?」


「今はまだ特定の方に嫌がらせなどされたことはありませんし……」


「中佐には相談されましたか?」


「い、いいえ。ルクレールさまは今度爵位を継ぐことになって、お父さまの現ルクレール侯爵さまと引き継ぎのことで色々と取り込んでおられます。だから確証も証拠もない事柄で彼を煩わせたくなくて……」


 アナは何故か言葉に詰まっている。ジェレミーに対して何をやっているのだ、と言いたかった。自分なら愛する人の安全は爵位よりも何より最優先だ。アナはジェレミーに遠慮してなのか、こんな大事な用件を他の男に相談しに来て彼と二人きりになっている。自分だったらまず耐え難いことだ。


「でも、だからと言って、貴方は煩わせていいと思っているわけでは決してありません。家族をあまり心配させたくないということもあって、アントワーヌとだったら冷静に何か対策を練ることが出来ると思ったのです」


「僕は迷惑だとは思っていませんよ。アナさんには僕の方がいずれお世話になることもあるかもしれませんし」


 とにかくアナには護衛についてやんわりと断られたが、ドウジュをアナにつけることはアントワーヌの中では決定事項だった。帰り際のアナにこう言われた。


「アントワーヌ、本当にありがとう。私のことはアナと呼び捨ててくれて構わないのに。私よりもずっと博識で人脈も広いし、いつも助けてもらって、貴方の方がまるで年上みたいに感じられるわ」


 アントワーヌは目を見開いてにっこり笑った。


「でも、アナさんはアナさんです。それに私が名前を呼び捨てにする女性は妻となる人だけですから」


「まあ、どなたか想う方がいらっしゃるのね。ではもしその方と結婚なさって、女の子が生まれたらそのお嬢さまも呼び捨てなさるでしょう?」


 アナはいたずらっぽく笑って聞いた。この春くらいからアメリと共に時々フロレンスの所へ訪ねて行っているアナだったが、彼女はまだアントワーヌの事情は知らないらしい。


「そんな日が訪れるとしたら……そうですね、彼女のことは『お姫さま』と呼びますよ」


 アントワーヌはそう言ったが、そんな夢のような話が実現することがあるのだろうかと最近は益々焦るばかりだった。



***ひとこと***

前作「奥様」の「第二十三条 用心」にあたります。アナはジェレミーともうすぐ結婚するし、フロレンスとナタニエルの所へも話し相手として良く訪れています。しかし、アントワーヌの想い人が自分の義理の妹となる人だとはまだ知りません。

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