第十一話 案ずるより産むが易し

― 王国歴1026年冬―1028年春


― サンレオナール王都



 フロレンスが結婚して二年と少しのある日のことである。彼女からしばらく文が来てなかったので、アントワーヌはコライユに様子を聞いた。


「フロレンスはどうしているかな? 最近文をもらってないからちょっと心配で」


「フロレンスさまは……少々体調を崩しておいでなのです、若さま」


 コライユもまず無表情なのだが、アントワーヌは僅かな仕草や顔の筋肉の動きだけでも時々は彼女の感情を察することが出来た。コライユのその答えにただの体調不良ではないな、と疑問を持ったアントワーヌだった。


「寒くなってきているから体に気を付けて、と伝えてくれる? 今から文も書くよ」


「かしこまりました」




 そしてアントワーヌからの文をフロレンスに渡したコライユは遠慮がちに言った。


「フロレンスさま、最近文が来ないと若さまが大層不安そうでいらっしゃいました。私からは少し体調が思わしくない、とだけ申し上げましたけれど……」


「そうね……いつまでも隠しておけないわね。私から直接報告しないといけないのは分かっているのですけど、彼にどう伝えたらいいのか……」


 フロレンスの唇はわなわなと震えていた。


「フロレンスさま……あの、私も同じ女としてお気持ちは分かります」


 コライユは他に言葉が見つからなかった。


「お兄さまから聞いたり、人の噂を耳にしたりするよりも先に私が文を書くわ。アントワーヌには誰よりも一番に知らせないとね」


 そしてアントワーヌはフロレンスからの文を受け取り、それを読んで固まった。いずれはこの日が来ることは分かっていた。フロレンスがラングロワの子を身籠ったのである。長いこと文が出せなかったのは悪阻のせいもあったが、アントワーヌに何と書いていいか分からなかったからだとあった。


 自分はもうすぐ母親になるのだからしっかりしないといけないのに、この子を愛せるのか本当は自信がない、とも彼女の文には書かれてあった。最後に一言『ごめんなさいね、アントワーヌ』と添えてあった。アントワーヌはたまらない気持ちだった。フロレンスが自分に謝る必要はどこにもない。


 今は大切な時なのだから、寒さに気を付けて心労をためないように元気なお子を産むことだけに専念してほしい、とアントワーヌはすぐに返事を書いた。男の子でも女の子でもきっと優しく美しい子に育ちますよ、とも付け加えた。


 アントワーヌはその夜醜い考えが頭を離れなかった。フロレンスは何も言わないが、コライユからラングロワとフロレンスは妊娠判明以降全くねやを共にしていないと聞いていた。もともと夫婦は半分別居しているようなものである。


 しかし子供の誕生を切っ掛けに夫婦の絆が深まるのでは、と正直ひどく嫉妬に身を焦がしたアントワーヌだった。彼が十五の冬のことだった。




 そして次の夏、フロレンスは元気な男の子を出産する。生まれたばかりのしわくちゃで小さな赤ん坊を見た瞬間、彼女の妊娠中の不安は吹き飛んでしまい全くの杞憂に終わった。母親としての愛が溢れて来るのを感じ、何があろうがこの子のことは無条件に愛せるという確信が出来たのだった。


(アントワーヌ、私は立派な母親になるように努力するわ)


 赤ん坊はナタニエルと名付けられた。夫のラングロワは侯爵家の跡取りを授かったのは嬉しがったが、あまり長男には興味ない様子である。


 ナタニエルは日を追うごとに、フロレンスに似てきた。待望の跡継ぎにも関わらず、ラングロワはルクレール家の血を濃く引き継ぐ金髪に緑の瞳のナタニエルにどう接していいか分からないと言うのも本音だったようだ。




 ナタニエルの誕生、いやそれよりも前の懐妊を境にフロレンスとラングロワは完全な仮面夫婦になってしまっていた。ラングロワはいつもフロレンスのことを辛気臭い、面白味も何もないつまらない女と言っている。出産後フロレンスは夫に向かってピシャリと言い捨てたのである。


「もう私に指一本触れないで下さいませ。ラングロワ家の跡継ぎを産むという役目は果たしました。王位継承者の従弟にも当たりますわ、よろしゅうございましたね」


「何だと?」


「そんなに私が鬱陶しく退屈とおっしゃるなら、いつもの様に愛人の所へお行き下さい。もう私は貴方さまを彼女たちと仲良く分かち合う気もございません」


「何を生意気な!」


「それから、ナタニエルの前では私をぶったり暴言を吐いたりしないで下さい!」




 このような破綻した結婚生活でもナタニエルという生き甲斐が出来たのはフロレンスにとっては救いだった。母親としての自分と言う役割を見出し、嫁いで以来ずっと灰色だった生活に少し色がさしてきた感じがしていた。


 ナタニエルが少し大きくなり外出できるようになると、実家のルクレール家にも時々顔を見せに行くようになった。両親のアルノーとテレーズ侯爵夫妻も安心した。フロレンスが結婚して実家にあまり戻らないのを心配していたのだ。


 フロレンスは自分の絶望的な結婚生活を両親に悟られたくなくて出来るだけ実家を避けていたし、舞踏会など社交の場にも出ていく気にはなれずにいた。


 ナタニエルの存在はその全てを変えた。フロレンスに少し笑顔が戻ってきたのである。一歳になったナタニエルはますますフロレンスに似てきた。アルノーとテレーズによるとジェレミーの小さい頃にそっくりらしかった。




 ジェレミーはフロレンスが出産以来元気になってほっとしていたが、妹夫婦が上手くいっていないのは彼には一目瞭然だった。姉の王妃も同じような思いだった。


「ジェレミー、あの子少し前に私の所にも来たわよ。ナタニエルも連れて。彼がエティエンやマデレーヌと一緒に遊んでいるのを目を細めて見ていたわ」


「ナタニエルが出来てからやっとまた笑うようになりましたけど、から元気を振り絞っているような気がしないでもないです」


「それにしても夫のランジェリーは悪い噂もないけどいい噂も聞かないわね」


「あいつ、俺らにはもう詳しいことは話しませんけど、夫婦仲はとっくに冷めきっている様子ですよ。っていうか、婚約していた時からそうでしたが」


「ランジェリーはほとんど領地の方に居るみたいね」


「それにフローはあの年下野郎をまだ好いていますよ」


「えっ、そうなの?」


「この間聞いたら少し黙り込んでしまって、『ごめんなさい、お兄さま。言いたくありません』ときましたよ。完全に肯定しているようなものです」


「彼の方はどうなの?」


「時々学院に行く機会に秘密基地を覗くのですが、何か避けられているような気が……まあそれでもたまに顔を合わせることはあります。俺からも聞きませんが、奴もまだフローのこと諦めていないのじゃないでしょうか」


「まあ私が彼でもアンタみたいな人間は避けたいわね」


「酷い言われようじゃないですか」


「可愛そうなフロレンス……何とかならないものかしら……」


 それきり二人は黙り込んでしまった。



***ひとこと***

ナタニエル誕生は私の好きな場面の一つです。

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