第十話 艱難辛苦汝を珠にす

注:今話からクレハが仮名コライユを使ってラングロワ家に潜り込んでいる間は混乱を避けるため、地の文ではコライユに統一させていただきます。アントワーヌとドウジュは台詞で変わらずクレハと呼んでいます。



***



― 王国歴1024年秋―1026年冬


― サンレオナール王都



 クレハがアントワーヌに送り込まれてラングロワ家に勤め出したのは、フロレンスが嫁ぐ数か月前のことだった。焦茶色の髪を明るく染め変装し、コライユという仮名を名乗り、偽の推薦状を持ってラングロワ家に潜入したのである。


 そしてコライユはフロレンスの結婚までにラングロワ家の内情を把握し、他の使用人達の信頼も得ていた。


 妻を迎えたというのに、そのわずか数日後にラングロワは領地に戻ってしまい、ラングロワ新侯爵夫人は一人王都の屋敷に残された。


 侍女頭のリリアンはフロレンスを女主人と認めていない不遜な態度で、ラングロワの不在中は彼女が屋敷を仕切っていると言っても過言ではない。執事は親切だが気弱そうな人間で、ラングロワとリリアンの顔色を常にうかがっている。


 ラングロワが去った夜、コライユはフロレンスの部屋のバルコニーから窓を軽く叩いた。驚いたフロレンスはそれでも窓を開けて彼女を部屋に招き入れる。


「貴女は侍女の、確かコライユだったかしら?」


「はい、左様でございます、奥さま。いえフロレンスさま」


 アントワーヌの気持ちを痛いほど知っているコライユは、フロレンスと二人の時は奥様と呼ばないことにした。


「あの、コライユ、どうしてバルコニーから?」


「この文をお読みくださいますか?」


 フロレンスが彼女から受け取った手紙を広げると、見覚えのあるきちんとした筆跡で、すぐに差出人が誰か分かった。学院卒業後、まだ実家のルクレール家に居た時に何度か手紙をやり取りしていたので彼の字は分かる。


『親愛なるフロレンス、お変わりありませんか? この者はコライユと言って、元は僕の屋敷で働いておりました。ラングロワ家で貴女のことをお守りするために、素性を偽って潜り込ませた信頼できる者です。これからは彼女を介して文のやり取りが出来ます。いつも貴女のことを思っているアントワーヌより』


 フロレンスは手紙を何度も読み返し、さも愛おし気に見ていたがようやく口を開いた。


「アントワーヌ、私の為にそこまでして下さって……この文は読んだら処分してしまわないといけないわね……残念だけど」


「はい。若さまもそうおっしゃっていました」


「あの、アントワーヌはお元気ですか?」


「はい。夏休みは一週間ほど領地にお帰りになっただけで、あとはずっと王都にいらっしゃいました。新学期に向けてますます勉学に励んでおられます」


「そう、良かった……お返事を書くから届けて下さる?」


「もちろんでございます」


「コライユ、私、貴女のこと冷たい感じがするなと思っていたの。リリアンの味方なのかな、とか疑ったわ。ごめんなさいね」


 リリアンがラングロワの愛人であることをフロレンスに告げるべきか少々迷ったが、いずれ分かることだろうとコライユは何も言わなかった。


「いいえ。ラングロワを始め屋敷の人間に怪しまれぬよう、表立ってはフロレンスさまの味方は致しません。しかし何があろうと力になりますのでいつでもお呼び下さい。バルコニーや廊下からこの鈴を鳴らして下さい」


「ありがとう、コライユ。ただ話し相手になってもらうだけでもいいかしら?」


「ええ、構いません。何なりとお申し付けくださいませ」


 そうして惨めなフロレンスの結婚生活の間ずっと、コライユは陰で大きな支えとなった。




 フロレンスは学院を出たらてっきりアントワーヌとは縁が切れてしまうものだとばかり思っていた。嫁ぐ前まだ実家に居た時に文が来た時は嬉しかったが、少々意外だったのだ。


『アントワーヌは優しいから、私のような女に一旦関わってしまったら見捨てることが出来ないのでしょうね……』


 それでも流石に嫁いだ後は文も送られて来ないだろうと考えていたら、何とペルティエ家から侍女を送り込んでいたのである。アントワーヌの真剣さを感じ、女として嬉しかったのは確かだが、嫁いでしまった自分は彼に対して何もできないのがもどかしかった。


「私の今のこの生活では、アントワーヌからの文を読むのが唯一の生き甲斐と言っても過言ではないわ。でも彼にもし好きな人が出来たり、いいご縁が持ち上がったりしたなら、私は笑顔で祝ってあげるつもりよ。本当にそう思えるの」


 フロレンスはコライユにいつもそう言っていた。


「私の願いはアントワーヌの幸せよ。でも、この気持ちをどう文に書いていいか、良く分からないのです。彼が私にしてくれていることを考えると、それを全部突き放してしまうような言い方もしたくないし……」


「フロレンスさま……」


 コライユは何と答えていいか分からなかった。




 フロレンスはラングロワ侯爵夫人とは名ばかりで王都の屋敷では何もすることがなかった。領地へ一緒に参ります、と言ってもラングロワは何故か連れて行ってくれない。そして彼はほとんど領地に行ったきりで、半別居状態だった。


 時間を持て余したフロレンスはあらゆる分野の本を読むことにした。主に法律の本を読んで勉強した。何とかしてラングロワと離縁する方法はないかと一縷いちるの望みは捨てていなかった。他には領地の管理や経営の本も苦手分野ではあったが努力して読んだ。


 そしていざという時の為に、旧姓の自分名義の銀行口座に少しばかりの財産があるのを出来るだけ増やしておくことを考えたフロレンスだった。アントワーヌに相談してステファンの知り合いの事業家を紹介してもらい、時々銀行で会って話を聞き、最初は僅かな額から資産運用を始めた。


 何が将来役に立つか分からない、自分の身を嘆いて泣くだけではいけない、一人頑張っているアントワーヌに頼ってばかりではいけない、という切なる思いからだった。


 護身術や短剣の使い方も屋敷の人間に隠れて、コライユに教えてもらった。それからフロレンスは彼女が唯一使える移動魔法も、ちゃんと制御できるよう日々の鍛錬を怠らなかった。


 アントワーヌとはコライユを介して文のやり取りを続けていた。嫁いでからフロレンスは実家のルクレール家にもそう顔を出さなかった。今までの様に王宮の王妃をまめに訪れたりもしなくなった。心から笑えなくなっていたのが分かっていたので、愛する家族に心配を掛けたくないという一心だったのだ。




***ひとこと***

嫁いだ後のフロレンスも逆境に負けず頑張ります。

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