雌伏
第九話 臥薪嘗胆
― 王国歴1025年 秋
― サンレオナール王都
時は流れ、アントワーヌは学院の三回生になった。益々学業に励み、自分の貯金を増やすことも忘れなかった。主な収入はステファンやその商売仲間の事業への投資の利益である。
まだ一回生だった時フロレンスからラングロワに殴られた、と聞いた直後には王都に借りていた隠れ家を買い取る手続きも始めた。卒業してからも王都に残る決意を固めたのがその日だったのだ。
フロレンスは学院卒業後、両侯爵家の交わした契約に従わざるを得ず、予定通りラングロワ侯爵に嫁いでいた。それで簡単に諦めるアントワーヌではない。フロレンスを常に見守る為にクレハをコライユという名前で王都のラングロワ家に侍女として送り込んだのである。そしてクレハ経由で彼女と文のやり取りもしていた。
学院三年目にしてアントワーヌは必須科目である魔術史、魔法理論を取り、そこで新鮮な発見をした。彼は魔力も全くなかったため今まで魔術には興味を持っていなかったのである。そこが盲点だった。
「こんな便利なものがあるのを見逃していたなんて」
魔術が使えない人間でも魔法石、魔術具というものなら使えるのである。しかし、魔力を込められた道具はそう簡単に入手出来るものではなかった。
アントワーヌは学院の図書館の魔術書を読み漁った。しかし、他の書物と違い高級魔術や高度な呪術に関する書物は図書館でも一番天井の高い吹き抜けの間にあり、天井まで届く書棚の上部に配されていた。宙にゆらゆらと浮かんでいる書物も多数ある。
そこは魔術書の塔と呼ばれており梯子もなく、必要な書物を探してくれる司書という存在もない状態だった。他の学生も滅多に来ない。そんなある日のことである。いつもの様に塔の遥か上にある読みたい魔術書をアントワーヌは指をくわえて見ていた。
「おい、そこの学生、何をしている? ここは高級魔術に関する本しかないぞ」
魔術科の教師ジャン=クロード・テネーブルだった。王国随一の大魔術師である彼の専門授業は、アントワーヌのような文科の学生は受けることはない。
「テネーブル先生、僕、いえ私はあの遥か上の棚の『隠匿魔術についての考察』他、読みたい書物が色々あるのですが、梯子も何もなくて……」
「ここにある書物を読もうという者は、まず移動魔法などで本を手に取るから梯子など要らない」
そしてクロードは少し宙に浮いてみせた。
「ああ、なるほど、そうですね」
「魔力を全然持たないお前が何故ここにある書物など読みたがる?」
大魔術師クロードはアントワーヌを見ただけで魔力持ちではないと分かったようだった。
「えっと、その、後学の為です」
「そうか、何の悪だくみを考えているんだ? それともヤバいことに巻き込まれているのか?」
そこまで自分は怪しそうに見えるのだろうか、とアントワーヌは思ったが、彼からするとクロードは地位も身分も何もかもが違いすぎて反論など出来るはずもない。
「いえ、そういう訳では決してありません。むしろ、人助けと申しますか……」
そう言えばクロードはフロレンスの従兄に当たるのだった。母親同士が姉妹だと以前フロレンスから聞いていた。
『クロードは怖くて冷たそうに見えるけど実はとても頼りになるのよ。それに彼の魔力はとても強力で王国随一なのよ』
「ますます怪しいな、お前。まあいい、今日のところは大目に見てやる」
クロードはふわっと飛んでアントワーヌの為に隠匿魔術の本を取ってきてくれた。
「ありがとうございます、先生」
「おっとその前に。具体的に何を探っているのか言え。そうじゃないと貸さない」
「……えっと、ある特定の人と周りには内緒で文のやり取りや交信をすることは可能でしょうか? 暗号文を使うという手もありますけれど、もっと確実に。他人には見えなくて、そもそも文を送り合っていることさえ悟られないような、魔術具とかありませんか?」
クロードは片眉を上げた。
「お前、やっぱり厄介ごとに巻き込まれているだろ? 名前は?」
「アントワーヌ・ペルティエ、文科の三回生です」
クロードもアントワーヌの名前だけは知っていた。同僚の教師が今期の魔術史と理論で最高点を取ったのは魔術科の生徒ではなかったと言っていた。魔力を全く持たない生徒で、ペルティエという名前だったのが記憶にあった。
普段は他人に興味のないクロードだったが、先ほど高い棚をアントワーヌが睨みつけているのを目にした時から何故か彼のことは気にかかっていたのである。
「まあいい。その本に書かれていたかどうか確かではないが、例えば特別な魔法の墨を使うと受取人にしか見えない文字を書くことが出来る」
「本当ですか?」
「しかし、そんな墨が作れるのは魔術具を研究している高級魔術師だけだ」
「そうですよね……とにかく、本を取って来て下さってありがとうございました。私が外部に持ち出してもよろしいですか?」
「ああ、そのまま持って行ってもいい。三週間以内に返却しろ」
「分かりました。失礼します」
アントワーヌはペコリと頭を下げてその場を去ろうとした。その背中にクロードは声を掛ける。
「来週もこの時間だ」
「はい?」
「たいてい毎週この時間に私はここに寄る。お前の手の届かない読みたい本があれば……」
「あ、ありがとうございます、先生!」
これがアントワーヌとクロードの出会いだった。アントワーヌはそれから度々クロードに読みたい書物を取ってもらい、色々と読み漁った。そうしているうちに知識だけはそこらの魔術師よりも遥かに魔術について詳しくなっていた。文科の彼には必修ではない高級魔術理論も魔術科の生徒に混ざって取った。
とにかくアントワーヌは何でも吸収できるものはしようと必死だったのだ。
***ひとこと***
クロードはこれからも何かとアントワーヌの世話を焼きます。泣く子も黙る大魔術師様も実は親切なお方でした。
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