第五話 駿馬痴漢を乗せて走る
木の上の基地はアントワーヌとフロレンスが座っても有り余る空間があった。大きな二本の幹が別れているところに床板が張られ、クッションに枕、ひざ掛け、頭上には小さな屋根までかかっている。下からはすっかり隠れていて、アントワーヌが先程地上から見上げた時は何も見えなかった。
「ここを発見して基地にしたのは従兄なのです。それから姉に引き継がれその次は兄へ、そして二年前に兄が卒業してしまってから今は私だけが使っているの。誰にも言わず秘密にしておいてくれますか?」
「ええ、もちろんです。魔法まで使ってこんな大事な場所にお招きいただき、ありがとうございます」
「だって下からは見えないのに貴方には何故か分かってしまったのだもの」
「僕、人の気配には少々敏感なだけなのです。あの、立ち入った事で失礼ですけど先程泣いておられましたよね」
「お恥ずかしいですわ、あの、私……」
「僕で良ければお話しして下さい。僕は今年領地から出て来たばかりですし、男爵家の次男で身分も低くて、貴女とは何の共通点もありません。おしゃべりも苦手で、人の噂話にも興味ないですから」
アントワーヌはお節介だと重々承知の上だった。彼女が泣いていたことが気になっていて、聞かずにはいられなかった。どうしてそこまで首を突っ込むのか、自分でも分からず少々戸惑った。普段の彼なら絶対にそんなことはしない。
「それでも……」
「何の関係もない僕に話すだけでも気が楽になりますよ、きっと」
フロレンスは最初こそ躊躇していたが、結局口を開いて話し始めた。
「そうね……私、親が決めた婚約者がいるのです。私の父はこの縁談に大変満足しています。でもその婚約者の方なのですけれど……最初はとてもお優しい方でしたわ。この方とならいい家庭が築けるのではないかと思い始めたところだったのです。でも……」
フロレンスは再びためらったが、アントワーヌの薄茶色の瞳を真っ直ぐ見つめ悲しそうに微笑んで続けた。
「それでも……ラングロワさまは実はいい人なのは外面だけで、私と二人きりの時は態度が豹変するようになったのです。先日もひどいことを面と向かって言われました。わ、私が言い返そうとすると思わず手を上げそうにまでなりました」
アントワーヌはこんな美しく優しい人が泣く原因を作ったその婚約者が許せなかった。
「貴女はその方を愛していらっしゃるのですか?」
「正直分からないのです。親同士は親しくしておりますけど、私は彼と年も離れていて、婚約が決まってから紹介されました。貴族の結婚なんてこんなものだ、と思ってはいるのですが、どうしても不安がつきまとうのです。アントワーヌ、貴方に話せただけでも良かったわ。今まで誰にも言えなかったのに……」
彼女の可憐な唇から綺麗な声が自分の名前を発音するだけで、えも言われぬ喜びをアントワーヌは感じた。しかし、フロレンスの美しい青緑の瞳が悲しみの色に曇っていることにやるせない怒りを覚える。
「お役に立てて何よりです」
「私の姉も自分の意思に反して婚約が決まったのですね。最初こそ、反発していたものの、なんだかんだ言って結局お互いに深く愛し合っていると気付いたらしいのです。それからはとても幸せそうで、今ではいつお会いしてもお二人仲睦まじくていらっしゃるわ」
その彼女の姉というのが何と今生陛下の王妃だとアントワーヌが知ったのは少し後のことだった。ルクレール家の名は何処かで聞いたことがあったが、田舎から出て来たばかりで人付き合いも苦手で世事にも疎いアントワーヌである。
「私はラングロワさまと姉夫婦のようになれるとはとうてい思えなくて……アントワーヌ、聞いてくれてありがとう」
「フロレンス様、僕で良ければいつでもお聞きします。貴女がいらっしゃる時またにここへ来てもよろしいですか? この基地のことも今聞いたことも、秘密は守りますから」
「もちろんよ。姉と兄が使っていた縄梯子もあるのですけど、私が居る時には必要ないわね」
フロレンスのその言い方から、最初に基地を発見した彼女の従兄も縄梯子は要らなかったらしい。その従兄とは王国随一の大魔術師、ジャン=クロード・テネーブルのことだとアントワーヌが知ったのも少し後のことだった。
アントワーヌはその日帰宅するとドウジュを呼んだ。
「今日ほど君の存在を有難く、必要と思ったことはないよ、ドウジュ」
「だから父も私もそう申し上げましたよ、若。貴方と主従の誓いを立てた時に」
「フロレンス・ルクレール侯爵令嬢の婚約者を調べてくれますか? 名はラングロワ、歳は二十代でしょう。爵位は多分、伯爵以上と思われるのだけど」
「ガスパー・ラングロワ、侯爵位を昨年継いでおります。歳は25です。更に詳しくお調べいたします。数日頂けますか?」
アントワーヌは感心したが、それと同時にフロレンスとのあの密会の場を見られていたと思うと、何故だか分からなかったが気恥ずかしかった。
「若の周りの方々について調べるのは私の務めです。しかし四六時中、一挙手一投足、若の個人的な生活を観察しているわけでもありませんからご安心を」
ドウジュはそれを察したようだった。アントワーヌはますます恥ずかしさで頬を赤く染めた。
***ひとこと***
この話の題名は、美人がつまらない男と結婚するという意味です。ここでの痴漢とは、愚かな男、ばかものの意です。変態さんのことでは決してないのです。
話が進むにつれてフロレンスの婚約者、ガスパー・ラングロワ侯爵の本性は暴かれます。
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