第1話 遠くて近イ幼馴染

「……なぁ、お前がムカついたのも分かる。分かるけど暴力はダメだろ」


 七月の暑い放課後。

 クーラーの効いた職員室で目の前の若い男性教諭はそういった。


「確かにお前の言いぶんもわかる。だが手を出してしまったら庇うのも難しくなるんだ。ただでさえ素行の良くないお前に関しては」


 難しい顔をして男性教諭――吉田はフレームの太いメガネをなおしながら呟く。


 学生時代なら王子と呼ばれそうな整った顔立ちに優しそうな目。

 生地の薄いスカイブルーのワイシャツに黒のスラックスと、同性からみても分かりやすいかっこよさを持つ彼だが、性格もどんな人間にも平等に接するとあって、生徒、教員からの評判も上々だ。


 そんな彼の正論をきいて三森速人はただでさえ不機嫌そうな表情をさらに歪める。


「じゃあ、どうすればよかったんだよ。大人しく頷いてろってのか?」

「そこまでは言ってない。でも殴る前に他の解決手段もあったはずだ」


 真剣な表情で吉田は身振り手振りをまじえながらそう答える。


 料理でもして指を切ったのか、右手には昨日までなかった包帯が巻かれているのを一瞬目に入れながら、それで済んだら世のなか苦労しないと彼の言葉を鼻で笑いたくなった。


 そもそもなぜ速人が吉田に説教されているのかというと、彼が陸上部の人間を殴ったというと至極単純な理由からだ。


 速人は世間一般でいうところの不良、つけ加えると箸にも棒にもひっかからないタイプだ。

 人の話を聞いているのか聞いていないのかわからない不遜な態度や着崩した制服などからもそれがにじみ出ていたが、吉田は真剣に話をつづける。


「お前が中学時代に陸上をつづけられなくなったことは知ってるし同情はする。けど、だからって他人に暴力をふるっていいわけじゃない」


 なにも知らないくせに。他人事だからそんなことが言えるんだ。

 速人は吉田の言葉にあきれ、内心でそう愚痴る。


 同時に職員室のドアが開いてプリントの束をもった女生徒が入ってきたのを視界の隅でとらえた速人は自然とその動きを目で追った。


「失礼します。先生」

「お、来たか美和。悪いな手伝ってもらって」

「いいですよこれくらい。大したことじゃないですし。プリントここに置いておきますね」


 吉田のねぎらいの言葉に名護美和は天使のように柔らかな笑顔でこたえる。


 袖の短いシャツにスカートと制服をきっちりときこなし、大きく澄んだ瞳が印象的な美和は抱えていたプリントの束を速人の側におく。


 彼女は一瞬速人のほうに目をやってから怪訝な表情で吉田に問いかけた。


「あの、なにかあったんですか?」

「ん? あぁ、実はな――」

「進学コースの優等生には関係ねぇよ」


 律儀に事情を説明しようとする吉田をさえぎってぴしゃりと言い放つ。


 見た目と同じく進学コースで国公立大学への進学有望な美和と普通科で留年寸前の底辺の速人ではその差がはっきりしていた。


 うっとうしそうにそっぽを向く速人に美和がムッとした表情をし、険悪な雰囲気が流れるが吉田が取りつくろうように口を開く。


「まぁまぁ、二人とも幼馴染だろ。もう少し仲良くしてくれ。それよりも決めてくれたか? ボランティア活動の件」


 すこし期待した様子でたずねられた美和は意識を吉田のほうにむけて頷く。


「はい、参加します。案外楽しそうなのもありますし」

「そうか。参加してくれる人がいてよかったよ。……あ、そうだ。三森もやってみるか? ボランティア活動。友達が参加してる後友会こうゆうかいてところがやってるんだが、案外楽しいもんだぞ」


 唐突に話をふられた速人はキョトンとした表情をしながら、自分の耳を疑った。


 このお人好しな教師はいまなんといった。ボランティア活動だと?


 他人を殴るような人間がそんなものに参加すると本気で思っているのだろうか。

 承知のうえで言っているのであれば、目の前の吉田はよほどの楽天家か、それともバカである。

 どちらにせよ、速人はため息をついた。


「やるわけないだろ。馬鹿らしい」


 一蹴して、立ちあがった速人は吉田たちに背を向ける。


「どこに行くんだ?」

「帰るんだよ。話は済んだろ」

「まぁ待て。これ、渡しておくから」


 そういってなにかをメモ用紙に書きなぐり、差し出してくる吉田にうっとうしそうな視線を投げつけながら、差しだされたメモをしぶしぶ受け取る。

 見ると、メモには電話番号が書かれており番号から携帯ではないのがわかった。


「私の家の電話番号だ。また気が変わったら連絡してくれ。言っておくがこれ以上問題は起こすなよ。次も庇いきれるとは限らないからな」

「……わかってるよ」


 そう釘を刺されながら生返事をかえし、速人は今度こそ吉田に背をむける。

 教員たちの机のあいだを抜け、職員室から廊下に出た途端、冷やされた体を廊下を占領する熱が包み込む。


 体の芯は冷えているのに肌で感じる空気は暑いという奇妙な感覚を覚えながら、クーラーという文明の利器の恩恵がどれだけ多大なものであるかを実感していると、背後で扉が開いて美和が職員室から出てきた。


 彼女は扉の前に立つ速人に一瞥をくれるとぶしつけに呟く。


「まだいたの?」

「いたら悪いのかよ……」

「別に、そういう訳じゃないけど……」


 いらだったように答えると、素っ気なく美和は言った。

 熱気のたちこめる廊下から早くクーラーの効いた場所に避難したくて、会話を切りあげた速人は歩きだそうとするが、視線を感じて問いかける。


「……なんか用か?」

「まだ陸上ができなくなったこと引きずってるの?」

「だったらなんだよ」

「いい加減に立ち直ったら? 誰のせいでもないことでしょ」


 心配するような声音で美和はさとしたが、速人はその言葉に無意識に歯をくいしばる。


「うるせぇ……分かったようなことを言うんじゃねぇよ。自分の成績の心配でもしてろ」


 感情を押さえこむように言ったつもりの速人だったが、口から出たのは突き放すように冷たい言葉だった。

 案の定、横目で美和の表情を盗み見ると、彼女は驚いたように目をむいてから顔をそらす。


「……そうね。普通科の落ちこぼれには言われるまでもなかったわ」


 さっぱりと言い捨てると美和は速人とは逆方向に歩いていく。

 遠くなるその背中を速人は後味悪く無言で見送った。

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