第11話

 なぜ裏門へ向かうのか。それはもちろん、門の陰で怯えているであろう正木君に事情を説明するためだ。いや、真面目な彼だから正直に「あの浪士たちは逃がすことになったから」といえば頭が爆発するだろうし、良い具合に誤魔化すため、というのが正しい。そんな軽い気持ちで板塀の戸口に目をやると、刀を抜いた正木君が土佐浪士三人と睨み合っていた。やべ、私が思っていたよりも正木直太郎は侮れない人間だったらしい。

「おい、逃がしてくれるんじゃねえのか」

 声をひそめる浪士の一人をよそに、正木君は刀を振り上げた。

「知らん。そんな話は聞いていない」

 次の瞬間、正木君は袴を踏んで盛大にすっ転んだ。この機を逃さず、私はきょとんとする浪士達の前に走り出て「早く逃げなさい」と合図したので、三人は目の前ですっこ転んだ男など気にせず走り去った。

「正木君、大丈夫かい」

 砂埃にまみれた顔を起こした正木君は、すぐに表情を歪めて右腕を押さえ付けた。転んだ時に敷石で強く打ったらしい。以後、正木直太郎は剣を振ることができなくなった。

「先生、逃がしてしまいました。切腹でしょうか」

「気にする事は無い、寧ろよくやった」

「はあ、ありがとうございます。いてて」

 よし、後は適当に兄上らを誤魔化せば万事片付く。すると風の音をかき消すほどの昌武の大声が耳をつんざいた。蛇でも出たかと思ったが、ふと先ほどの浪士が三人しかいなかったことを思い出し、額に汗が滲む。

一人だけ交渉に失敗したんだ。

 急いで裏口から店へ入ると、一階にいた兄上の姿は無かった。昌武の悲鳴を聞いて飛び出したのだろう。

「兄上、すぐそちらへ参ります。昌武は」

 私の大声に対し、兄上ではなく昌武の声が階段の向こうから返って来た。

「私は無事です。でも兄上と大利さんが」

「阿部君、二階へ行きたまえ。政右衛門は私に任せろ」

「かしこまりました」と阿部君が口元に力を込め、階段を駆け上がった。私は槍の刃先を、腰が抜けて動けない政右衛門につきつけた。

「お待ちください、私はただの商人でございます」

「問答無用」

 これでも京にいた頃は、永倉さん率いる二番組として浪士と戦い、池田屋騒動にも近藤さんと共に踏み込んだ私だ。穏便に済ませたかったが、こうなってしまった以上、これは紛れもなく“ぜんざい屋騒動”である。大坂新選組の長として、七番組長を務める三十郎の弟として、私はこの商人の心臓を突かねばならない。

 が、その時である。

「もしお見逃ししてくださったならば、店にある珍しき異国の品々をお譲り致します」

 ああ、それを聞いてこんな事をするなんて、私って最低だ。

「やあッ」

 と大声を上げて、私は槍を突き刺した。政右衛門の大きな腹の隣の床板に。状況を理解出来ず動けない彼に、私は続けた。

「ええい、うろちょろと逃げおって。次こそは仕留める。谷万太郎の槍を受けてみよ、えいやッ」

 と、声だけ張った。政右衛門は私の思惑を察したらしく、喉から「おおきに」と絞り出した。

「で、異国の品々はどこだ」

「ほんま、おおきに」

「どこだと聞いているんだよ」

「おおきにな」

 政右衛門は転がるように往来へ飛び出した。私が自分の浅はかさを恨みながら彼を追いかけると、昌武の悲鳴や私の声で「何事や」と集まった人込みに紛れ、彼は消えていた。

 重い足取りで二階へ上がると、阿部君は階段に腰かけて鉢金を外し、汗ばんだ髷を掻いていた。

「大利は」

「討ち取りました。兄弟にお怪我はありません。……裏門にいた直太郎は大丈夫でしたか」

「逃げてきた浪士と斬り合いになって、右腕を負傷した。とは言え斬られたわけじゃない、転んで打っただけさ。今は休んでいるよ」

 阿部君が「安心しました」と汗をぬぐい、正木君の様子を見るため階段を下った。二階へ上ると、刀を懐紙で拭う兄上と、部屋の隅で座り込む昌武がいた。襖は倒され、切り傷がいくつも付けられており、そしてその上に俯せになった大利鼎吉の躯があった。

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