第10話
兄は私の静止を振り切った。
「兄上、まだ斬るのは早うございます」
「火がついてからでは遅い。多くの者が犠牲になる」
狭い戸口から店へ入った後「ご用改めである」と兄の声が響く。それに続いて鉢金を締め直した阿部君が意気揚々と続き、私たち三人は取り残された。
「兄上」
先ほどの様に、昌武が助けを求めてきた。こうなれば兄としてやれることは一つだけだ。
「正木君、君は裏口で待ちかまえていなさい」
「兄上」と鼻声を出す昌武の隣で、正木君が裏口へ回るために松の木の植えてある庭へと駆けていった。私は槍を構えると、昌武を連れてぜんざい屋へと踏み込んだ。兄は主人の政右衛門と話しているところだった。
「新選組だ。土佐の不逞浪士をかくまっているというのは、真か」
政右衛門は商人らしく腹が出ていて、それを隠す様に烏色の羽織を羽織っていた。新選組の来訪に対しても一切怯える様子が無く、丸い顔で静かに頭を下げ、我らに逆らわない意志を示した。
「ええ、不逞浪士かどうかはわかりませんけども、私の生まれが土佐でございますから、御贔屓にしていただいとります」
「誤魔化すな」と阿部君が抜刀したので、私は慌てて彼の前へ躍り出た。突然洋服姿の男が出て来たものだから、主人は驚いて私の髷から靴までを見渡した。やはりまじまじと見られるのは恥ずかしい。私は小さく咳払いをして続けた。
「ひとまず、店の中を改めさせていただけますか」
「ええ、どうぞご勝手に」
かえって疑われないようにするためか、それとも同胞にさほど興味が無いからか、政右衛門は大人しく店の中へ我らを入れた。
「兄上、石蔵屋を良く見張っておいてください。阿部君は一階を探しなさい。私と昌武は二階へ行く」
阿部君は忠実に頭を下げて、土足で刀を抜いたまま部屋の奥へそろりと足を進めた。だが兄は納得がいかないらしい。
「万太郎、お前達だけでは心もとない」
「父より種田宝蔵院流の槍術を受け継ぎ、大坂道場での師範代を務めるは、この万太郎です。大事ありません。兄上は出入り口で待ちかまえ、もしもの時は敵の逃げ道を塞いで下さい」
半ば強引に、兄を置いて昌武と共に二階へ上がった。
先ほどの兄による「ご用改めである」の所為か、宴の声は止んでいた。襖の向こうには、一体何人の浪士が刀を構えているのだろうか。池田屋騒動の際にまず階段を上った近藤さんも、同じように恐怖と緊張で足が震えたのだろうか。だが近藤さんの緊張が眼先の浪士達に向けられていたのに対し、私の緊張は寧ろ階段の下にいる兄に向いていた。
私は後ろで虫のように階段を這ってくる昌武の肩をつっついた。
「見張っておくから、先に行って彼らを逃がして来なさい」
またしても、弟の目や口が大きく開いた。
「兄上に見つかったら」
「兄上は正面の出入口から動けない。だから裏口から逃げるように言いなさい。正木君は刀を持ったことの無い素人だから、いざ敵が目の前に現れると逃げだすことだろう」
「しかし、人を説得するのならば、私よりも万太郎兄上の方が良いのではないでしょうか」
「これ以上、兄に手を掛けさせるな」と笑うと、昌武は額に汗をにじませながら唇をかみしめ、私に一礼して階段を駆け上った。私は弟に土佐の連中を任せ、踵を返して階段を下った。私が階段を下りきったのを見て、兄は目を細めた。
「昌武一人に任せたのか」
「いえ、部屋に誰もおりませんでしたので、私は一階の探索に戻ろうかと思いまして。恐らく先ほどの我らの口論が聞こえ『表に新選組が来ている』と逃げだしたのでしょう」
兄上は階段の上、そして阿部君は政右衛門から視線を離さない。その隙に二人の死角となっていた庭へ目をやると、男が三人ほど、二階から降り立ち、転がるようにして逃げていくのが見えた。昌武の弁が功を奏したのだ。
「兄上、阿部君。もしかすると奴らはまだ近くにいるかもしれない。私は裏門を見て参ります」
と言い残して、私は庭を周って裏門の前へ出た。
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