第9話

 いざ辿り着いてみると、店の古びた板壁や、人一人入るのがやっとな小さな玄関口、そして老いた乞食のように細く枯れた松は、これから起こるであろう惨劇の舞台には似合いの古ぼけ具合だった。兄は顔色一つ変えずに鶯色に彩られた刀の柄に手を当て、すらりと刀身を露わにした。二階からは数人が騒ぐ声が木枯らしに混ざって聞こえてくる。そのいずれも土佐の訛りだった。

 いざ踏み込む、という時。突如昌武が旗を降ろし、こちらを振り向いた。その顔は兄や私に怯える時の様に真っ青で、寒さの所為か唇は血色を失い、また震える手は黒い袴が手汗で色が変ってしまうほどにかたく握られていた。眉のあたりの筋肉が緩んだ。

「おい、近藤周平。今更怖気づくんじゃない」

「違うんです万太郎兄上、怖気づいたわけではありません。三十郎兄上、その大利鼎吉という人物、真に斬るが正しいのでしょうか」

 昌武が兄上に意見するなど、見たことが無かった。兄もまさかそんな言葉がこの小男から出てくるとは思っていなかったらしく、小さな口が「ほ」と開けっぱなしになっている。

「大坂を乗っ取るという話も、谷川さんと酒を呑んでいる時に言ったという話でした。酔った勢いで思ってもいないことを口走っただけということも考えられませんか」

 時代という大きなものか、はたまた岡山生まれの少年という小さなものか、とにかく何かがこの大坂で大きくうねった。兄は表情一つ変えることなく私の方を向いた。

「万太郎、昌武は今なんと言った」

 全部聞こえてなかったらしい。日頃あまり喋らない昌武の声は、風で掻き消されるほど小さかった。恐る恐る聞いた通りの事を話すと、兄はあわや抜刀せんとする勢いで口を回した。

「ならば酒さえ呑んでおれば例え上様、天子様への無礼と雖も許されると、そういうことを言いたいのか、お前は」

 昌武は兄の言葉に臆することなく、私の方を向いた。

「万太郎兄上、三十郎兄上は今なんと仰いましたか」

 兄上の声も昌武に劣らず小さかった。私が兄の言ったことをそのまま伝えると、多少臆して言い返した。

「私はまだ罪を犯しておらぬ者を斬るなど、できかねると言いたいのです」

 また兄上がこっちを向いた。常日頃から人と話さないからこういうことになるんだ。なお、これ以後私の通訳は省く。

「左様に甘ければ人はまとまらん。我ら新選組とて、副長のあの法度が無ければただの烏合の衆ではないか」

「万太郎兄上の持っていた舶来茶碗を思い出して下さい、三十郎兄上。自らと異なる者を全て斬り捨てることは、自らの求める者をも斬り捨てることになるとは思いませんか」

 この騒動が“ぜんざい屋騒動”で良いんじゃないかな。名前もそれっぽいし。

 とその時である。

「そう思えば、異人であるからとすぐに斬ってしまう幕府のやり方は、果たして正道なのでしょうか。あの茶碗の様に、異人の中にも我らの求める人材はいるのでは……」

 と、昌武が口走った。もし兄の耳にこの言葉が入っていれば、弟の命は無かっただろう。そしてその後兄上は彼の責を負って腹を掻っ捌いたと思う。後にも先にも、北風を吹き散らしたお天道様に感謝したのはここだけだ。私は唾を飲み込んで、兄上の方を向いた。

「万太郎、昌武は何と言った」

 鈍い兄上でも、昌武の様子からとんでもないことを口走ったことを察したらしく、刀の柄から鋼色をのぞかせた兄上の目にはしっかりと「俺たちの弟を斬ることになるかもしれん」と書いてある。兄の行動が間違っているとは思わない。私だって西洋の文化は好きだが、西洋人は好きじゃない。だから私はすぐにでも、この弟を槍で刺すべきなのだ。

 しかし

「昌武はこう申しております」

 小心者の私には、そんな度胸も覚悟も無かったのである。

「そもそも、かように風の強い日に彼らがここで飲んだくれていることこそ、彼らにその気の無い証拠ではありませんか、と。兄上、こりゃたしかに昌武の言う通りかもしれませんよ?」

 死をも覚悟していた様に見えた弟の口が開いた。まさか私が自分を助けるなどと思ってもみなかったようである。許せ昌武、お前が思っているほど、私の身内への思いは軽薄ではないのだ。

「今日はここ何日かのうちで、一番風が強うございます。私がもし町に火を放つなら、間違いなく今日にするでしょう。そんな大事な日に仲間と酒など呑みはしませんよ」

 兄上は私の言葉に黙りこむと、しずかにその刀身を黒い漆塗りの鞘へとしまいこんだ。やれやれ、とんだぜんざい屋騒動だ。

「兄上。この一件、しばし吟味する余地はあるように思えます。このことは京の皆様にお伝えし、その上で動くことに致しましょう。阿部君、辰吉と一緒にお願いできますか」

 阿部君は肩透かしを食らったように不満げな表情を浮かべながらも「かしこまりました」と頭を下げた。あれだけ張りきっていた彼ならば、気が変って店に斬り込む前に帰らせてしまった方が良い。

「では、ひとまず屯所へ戻りましょう」

 万事、上手くいった。と、その時である。

「先生」

 それまで押し黙っていた正木君が言葉を発した。

「彼らが呑んでいる酒、寒さの中でも身体を動かせるようにと呑んでいるとは思いませんか」

「あ」

 兄上の形相が変った。正木てめえ、てめえ、てめえてめえてめえ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る