第7話.平穏

 母は大学病院で看護師として働いていて、いつも忙しくしていた。

 親父が出ていってからより一層仕事詰めになり、朝いなかったり夜いなかったり、土日にいなかったり…けれど弱音を吐いたことはないし、出来る限りの普通の家庭のように授業参観や体育祭などは見に来てくれた。

 それなのに、母の苦労を俺はまだわかってなかった。

 中3にもなると弟を連れて遊びにいくのが恥ずかしくなった。まだ幼く、言って聞くような大人しい子じゃないし、頼まれていた保育園の迎えをわざと行かなかったり、新奈や亮さんの家に絢斗を預かってもらったりして何とか逃げていた。  

 3年前のあの日、絢斗を押し付けられる人がいなくて仕方なく弟連れで友達と中学校のグラウンドでサッカーをしていた。

 友達との遊びとはいえ勝負は真剣だし邪魔されたくなかったからなるべく離れて遊ぶように言ってあった。

 しかしサッカーが終わり、試合にも勝ったしいい気分で帰ろうとしたのに絢斗の姿がない。

 仲間に聞いても誰も見ていないようだった。確かに邪魔するなとは言ったが勝手にどこかに行くなんて。

 あのバカ!と思ったその時、校門の方から車のクラクションとブレーキ音、人の悲鳴のようなものすごい大きな音がして、同時に嫌な予感がした。

 学校を出るとすぐ交通量の多い道路があり危ないからと言ってあったのに。

 まさか、と急いで駆けつけた俺が見たのは…倒れた男性と、その傍らで彼の名を呼び続ける女性。男性の腕の中で鳴き声をあげる絢斗。集まる野次馬。

 すぐに理解できず、立ち尽くすしかなかった俺は、絢斗が「お兄ちゃん」と声を出すまで固まっていた。

 少しして男性は立ち上がり、絢斗に大丈夫?と声をかけてくれた。笑顔で良かったーと笑ってくれたから、だから信じられなかった。

 まさか彼が数時間後に亡くなっていたなんて。



「…なた?ねぇ奏多?」

 ぼやっとした視界の中で何かが近付いてきて、額に触れる。

 1.2.3…

「冷たっ!」

 飛び起きると目の前に、缶ジュースを片手に楽しそうに笑っている天が立っていた。

「反応遅くない?」

「ベタなことしてんじゃねーよ」

「やってみたかったんだー」

 楽しそうに声を出して笑う天。何がそんなに面白いのかと見ていると、今度は一変、

「すごい汗だよ」

 心配そうに覗きこんでくる。

 彼女の背景には青い空。正確には紫みや青みの少ない空色に薄雲がまばらに散り、のんびり昼寝をしたくなる空だ。

 公園の裏の住宅地を抜け、長い階段を上がるとと見晴らしの良い丘の上に出る。そこに昔からある小さな展望台が俺のお気に入りだった。

 しっかりとしたコンクリートの壁が風避けになっていて、2階に上がると見晴らしの良いオーシャンビュー。

 下は雨も凌げるし、背もたれのない備え付けの長椅子があり昼寝もできる。涼しくて景色も最高。

 ガキの頃はよくここで遊んでいたけれど、今はあまり人を見かけないし、誰かと来たのは久しぶりだった。

「お前、どっちなの?」

 もらったジュースを飲みながら考える。

 素なのか計算なのか…女ってよくわからなくなる。

「どっちって?女子だけど」

「それは身をもって知ってる」

「……」

 しばらく黙っていた天はみるみる真っ赤になっていく。

「何想像してんだよ。やらしー」

 表情がコロコロ変わり見ていて飽きない。

「ホントわかんねー奴」

「大丈夫、ちゃんと好きだよ」

「は?」

 何が大丈夫?

 ちゃんとって?

 いろいろ疑問はあるけど…

「めんどくせーな。俺にはそーいうのいらないから」

「俺には、って?どーいう意味?」

「え?そこ突っ込むとこ?」

「突っ込むよ!私は奏多みたいにいろんな人と付き合ってるわけじゃないし」

「おい、おい、今度は怒ってんの?忙しいな」

「私はただ、奏多が好きなだけ」

 よくもまぁさらりと面倒なことを言う奴だ。

「なんだそれ。やりたいのか?」

「どうしてすぐそうなるの?」

「だってそうだろ?他に何すんだよ」

「……」

 天は一瞬、眉をひそめ怪訝そうな顔をしたけれど大真面目な俺を見て、大きなため息をついた。

「なんだよ」

 呆れたように。普通ならそのまま帰ってしまうだろうけれど、

「私は……こうしていたいだけ」

 いつの間にか背中に感じる温もり。

 見ると、背中合わせにもたれ掛かる天。何も言わずただこうしてボーッとすることの何がいいのか?

「こんなの誰とでもいーだろ?」

「良くない!」

「なんか、暑いな」

「ちょっと黙ってて!…いいから、傍にいて」

「……わかった」

 天といると調子が狂う。だから勘違いをしていた。

 俺なんかが誰かに愛される資格などないのに。ましてや誰かを愛そうなどと。

 こんな風に穏やかな時間を楽しんでいいわけがないのに。



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