第5話.痛み

 弟の絢斗あやとが生まれてすぐ、親父が女をつくって出ていった。直接聞いたわけではないけど、たぶんそう。

 他に原因があるとすれば、俺。あいつは俺が嫌いだったから。だから出ていった。

 絢斗は何も悪くないのに、可哀想だ。

 はじめから父親を知らず、それの存在すらわかっていない絢斗が、普通の家庭では感じることのない苦労や寂しさを今後も味わうことになる。

 どうして絢斗が。

 全部俺が悪いのに…。



 目の前を風が駆け抜ける。

 ふわ、と良い匂いがして我に返ると、陸上部員たちがグラウンドで練習を始めている中に天を見つけた。

 ウォームアップからのストレッチを終え、ドリルメニューの中の20メートルダッシュ。

 姿勢はピンと伸ばし、脇を締めて肩甲骨ごとまっすぐに振り下ろす。しっかりと足の指の付け根で踏ん張り、体の真下にかかとから着地する。

 天はそれを自然にこなし、俺の前を通りすぎる。顔のレベルでいえば、中の中だけれど、なぜかフォームも額の汗さえも美しく見え、目が離せなくなる。

 しかし、今日は全体的にキレがないような気がする。

「奏多くーん、1年生はどう?」

「あぁ、ミナちゃんか」

 1年の練習に付き合っていた俺にすり寄るように近づいてきたのは、副部長。クラスは一緒になったことはないが部活ではよく話す方だし、なかなかスタイルが良い。

「微妙だな。今のところ」

「この間の記録会でも飛び抜けている子はいなかったしね。やっぱりダメかなぁ」 

「いや、それはどうかなー伸びそうなのはいるけどね」

 今日は顧問が会議で遅れるため、1年の指導を頼まれていた。天も含めてなかなか良い走りをする子はいるが、全国レベルには到底届かない。まだ相当の練習が必要になる。

「そう?…奏多くんはまだ足本調子じゃないの?」

「そうだね。もう少しかな?」

「でも大会までもう、」

「俺はいいんだよ」

 面倒になり、被せぎみで彼女の肩に手を回して引き寄せる。

「そんなことよりさミナちゃんはどうなの?最近彼氏と」

「え?いや、彼氏なんていないよ」

「本当に?もったいないな~」

 耳元にささやくと、もじもじと恥ずかしそうに上目遣いで見つめてくる。

「奏多センパーイ!良い雰囲気のところ悪いんすけど~」

「なんだよ!うるせぇな。黙って練習してろ」

 誰もいなければキスくらいできたのに、1年坊主どもに邪魔される。

「終わりましたー」

「空気読めよな」

 男子の中で軽く笑いが起きたが、副部長は顔を赤くし少し残念そうに逃げていった。

 天は他の女子同様にムス、としていると思ったが、いつの間にか姿がなかった。


 今日はバイトも弟の迎えもないので久々に最後まで部活に出ていられた。片付けを終え部室に入ろうとすると、

「あ、奏多先輩!お疲れ様です」

朝希あさきちゃんお疲れーあれ?もしかしてこれからデート?」

「え!何でわかるんですか」

「いつも以上に綺麗だから」

「きゃー先輩さすがです!じゃぁね、天」

 彼女はニコニコ嬉しそうに手を振って出ていった。

「待ってよ、朝希」

「天、人のデートの邪魔する気か?」

 追いかけて行こうとした天の手を掴んで引き止める。

「逃げんなよ」

「べつに逃げてなんか」

 彼女は目も合わせようとしない。

「練習中どこに行ってた?」

「え?あーちょっと」

「答えになってねーし」

「ボーッとしてたら…」

 と、天が着替えた制服のスカートを少しだけ捲りあげ膝小僧に貼ってある絆創膏を指差した。

「転んだのか?」

「うん」

「マジメにやれよ」

「やってるよ」

「やってねーだろ!」

 掴んだ手を振り払われたのが気に入らなくて、俺は天の肩を掴み部室の中に押し戻す。ドアを閉め逃げないようにと、後ろ手で鍵をかけた。

「何だよ今日の走りは。すぐにバテてたし、動きにはキレがないし、転ぶし…もっと集中してやれ」

「……」

 珍しく言い返してこない代わりに、口がへの字に歪み眉根が寄る。

「何だよ、泣き落としか?つまんねー女だな」

「……」

「それとも、そんな顔して誘ってんのか?」

「違う」

「昨日のことが忘れられなくて集中できなかったか?俺を意識しすぎて気が散ったか?」

「違う」

「へぇ、そんなに良かったんだぁ」

「ち、違うってば!」

 顔を赤らめて全力否定する天。

 イジリがいのある奴だな、と捕まえてキスをしても身じろき逃げようとする。

「だからめんどくせーな。どっちなんだよ」

 誘ってんのか、拒んでいるのか…。

 ロッカーに抑えつけ唇を塞ぐ。

「やめッ」

 拒絶の言葉すらも甘い声に聞こえ、熱い吐息が絡んできて更に気持ちを高ぶらせる。

「煽ってんじゃねーよ」

 望み通り下の方に手を入れると、ビクッと体が揺れ、

「イヤ」

 奥深くまで伸ばそうとした手を掴まれた。その先の侵入を拒まれる。 

 昨日に続きこんな半端に終われるかよ、と俺はその先に無理やり踏み込み指先で触れる。言葉とは裏腹に受け入れ体制は整っているようで、驚く程感度も良い。

「離して」

「ふざけんなよ、今更」

「やめて」

「黙れ」

「お願い、待って…私、こういう事…」

 怯える瞳。震える体。

「え?…まさか、お前」

 恥ずかしそうに顔を背け、天は小さく頷いた。

「アホか!早く言えよ」

 俺は思わず天を抱き締めた。

「怖かったろ?…ごめん」

 彼女は、ふるふる首を横に振る。きっと泣いているんだろう。見なくてもわかる。声を押し殺して、静かに。

「帰れ」 

「え?」

 俺は天を離して、背を向ける。

「だから、嫌なら今のうちに逃げとけ」

「奏多」

「早くしろ」

 なぜか急に彼女が可愛らしく見えた。遊びなれてる女と違ってめんどくせーはずなのに、迂闊にも更に欲情してしまう。

「引いたの?」

「…べつに。いいから行けよ」

「どうして?」

「どうして、って…」

 突っ込んだことを聞く奴だなと言葉に一瞬詰まってしまう。

「…加減できる、自信がねぇ」

 いくら俺でも女にとっては大切(?)なものをムリに奪うのは気が引ける。

 天は何も言わず、そのまま部室を出ていくと思ったのに、恐る恐る俺の背中に抱きついてきた。

「無理すんな…離せよ」

「イヤ」

「天……この意味、わかってんのか?」

「……うん」

 返事が先か、振り返ってキスをしたのが先だったか、よく覚えていない。

 抑えておくのかやっとだった欲望をさらけ出す。なるべく痛みを与えないように、ゆっくり、優しく…なんて、

「…天、もっと、力抜けよ」

「お願い、優しく…」

「ふざけんな……無理に決まってんだろ」

 必死に俺を呼ぶ天の悲鳴にも似た声が心地良い。もっと、泣けばいい。

 

 そして俺を、憎めばいい。


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