第7話 疎外

 やめて、苦しい。

 声に出そうとしても、喉から漏れ出るのはひゅうひゅうというおかしな息遣いだけだった。

 ヒカリは目を白黒させながら、首に回されたイヌの手を振りほどくため、もがいた。

 大きく振りかぶった左腕が、イヌの脇腹に当たった。

 イヌは呻き声を上げ、その拍子に手を弛めた。ヒカリは無我夢中でイヌのベッドから離れ、激しく咳き込んだ。

「なんで……こんなことするの……?」


 イヌは迫って来ない。怪我のせいで、まだベッドの上から動けないのだ。


「あ、あんたがなんでわたしより軽症で済んだのか、わかったよ。あんたはわたしを裏切ったんだ。田崎って奴に、脱走の罪はイヌのほうが重いだとか、最初に脱走しようと言い出したのはイヌだったとか、うまいこと吹き込んだんだろう。だから田崎はわたしばかりを攻撃したんだ。あんたさえ裏切られなければ、わたしはこの目を、髪を、失わずに済んだ! こんな醜い姿になることはなかった! 全部あんたのせいだ! 許さない。わたしは絶対あんたを許さないから!」

 物理的な攻撃ができなくなると、イヌは今度、言葉でヒカリの心を痛めつけにかかった。


 騒ぎを聞きつけ、看護師が駆け付けてきた。

「行きましょう。まだ面会するのは早かったみたいね」

 看護師は、素早くヒカリを病室の外へと押し出した。


 変わってしまったイヌの姿。向けられた殺意、憎悪。

 ヒカリはその衝撃を引きずり、強い吐き気を覚えた。廊下に膝をつき、呼吸を整える。

 もし、振りかぶった腕が運良くイヌの痛めている部分に当たらなければ、自分はあのまま彼女に首を絞められれ、殺されていたのだろうか。

 あれは脅しじゃなかった。あの目は、本気で自分を殺そうとしている者の目だった。


 イヌは誤解している。

 自分はスガワラの助言があったから、田崎の暴力を受けている間、悲鳴を堪えていただけなのだ。

 

 わたしだって傷付けられた。わたしだって痛かった苦しかった怖かった逃げたかった。

 わたしたち二人とも、拷問を受けたこと自体は同じだ。お互い慰め合える唯一の相手のはずなのに、なぜ憎まれなければならないのか。

 

 わかっている。

 イヌのほうが重症なのは見た目に明らかだ。対してほとんど傷も治りかけている自分が何を言っても、彼女を刺激するだけなのだろう。


「まだ精神的に不安定で、被害妄想が強くなっているだけだと思うから、気にしないほうがいいわ。時間が経てば元の彼女に戻るわよ」

 看護師からそう励まされても、ヒカリの心は暗く沈むばかりだった。



 ◇



 医療棟を出る日。

 支部長の丸山が病室まで迎えに来た。

「行きましょう、ヒカリ。退棟おめでとう」


 訓練棟から脱走したことを責められると覚悟していたが、丸山は特に何も言ってこなかった。

「支部の中を案内しがてら、寮に向かいましょう」


 医師や看護師に挨拶を済ませると、ヒカリは丸山の後について、医療棟を出た。

 視界に、訓練棟が飛び込んでくる。医療棟と訓練棟は、隣り合っていたのだった。

 だからイヌはあの日宿泊部屋の窓から、担架で運ばれる怪我人の姿を目撃できたのだろう。


 丸山は優雅な仕草で、次々と目についたものを説明していく。


「あれが教官棟。一階が教官室で、二階から上はわたしと教官たちの住む部屋になっているの」

「ここが中庭。……といっても、特に何もないのだけど。狩りがお休みの日なんかは、ここで過ごす狩子も多いわね」

「向こうに見えるのが炊事場。狩子は自由に使っていいことになっているけれど、食事は朝晩二回、食堂に用意されるから、実際に炊事場を使う子は少ないわね」

「この広いスペースは駐車場よ。月に何度か、トラックが来るの。支部に寄付された品々を乗せてね。それらをこのスペースに広げてくれる。服や靴、身の回りのもの、娯楽品、だいたいなんでも揃っているわ。必要なものはここで手に入れなさい」

「あそこに湯気が立ち上っているの、見えるでしょう? あれは浴場よ。源泉かけ流しの温泉で、狩りの疲れをほぐせるようになっているわ」


 丸山の言葉を聞くうちに、ヒカリは支部での暮らしがどんなものか掴めてきた。

 規律はあるが、厳しくはない。思っていたほど、不自由さは感じられない。


「あの、この支部は元々、全然違う場所だったんじゃないですか?」

 支部内を見て受けた印象から、ヒカリは丸山に疑問を投げかけた。


「なんでそう思うのかしら?」

「なんとなく、歩いていると支部とはあまり関係なさそうなもの――何かの商店の跡だったり、看板だったり、壊れた古い車、ビニールハウスの骨組みだけ――色々とおかしなものが目について……」

「あら、ぼうっとしているようで、結構周りをよく見てるのね、ヒカリ。そうよ、ここは元々小さな村落だったの。本部のほうでここを丸ごと買い取って、支部を作ったのよ」

「そうだったんですか」


 支部は想像以上に、広大な土地を有しているのかもしれないとヒカリは思う。小さいとはいえ、村一つ分だ。


「あ、ご苦労さま」

 丸山が向こうからやって来た青いツナギ姿の男性に声をかけた。

 どのような人だか知らないが、ヒカリはとりあえず会釈する。


「今の人は業者さんよ。すれ違ったときはきちんと挨拶しなさいね」男性が通り過ぎると、丸山は小声でそう注意した。


「ギョウシャさん……?」

「ウォーターサーバーのお水を運んできてくれてるの」

「ウォーターサーバー?」

「そう、知らないのね。ちょっと大きなポットか水筒を想像しなさい。狩子の寮には水道があるけど、教官棟のほうには水道設備がないのよ」


 それから丸山は思い出したように、手を打った。

「そうそう、言っておかなくちゃ。大事なことよ。水分補給はしっかりとしなさいね。水分を摂ると、免疫力が高まって風邪をひきにくくなるの。もし風邪をひいたら、狩りをお休みしてもらうことになるから、気を付けてね。休んだぶん、お給料は減額されるわ。場合によっては医療棟へ入棟してもらうことにもなる。そんな風邪くらいで大袈裟だと思うかもしれないけれど、本来風邪はとても怖いものなのよ。絶対に油断しては駄目。少しでも体調が優れないときは、無理せず正直に教官へ申し出ること。いいわね?」


「わかりました」

 丸山のやや熱を帯びた物言いに圧倒されながら、ヒカリは返事をした。



 ◇



 寮に移ったヒカリを待っていたのは、同期たちの咎めるような視線と、徹底した拒絶の態度だった。

 脱走者という汚名は、すでに広く知れ渡っていた。

 直接何か言ってくる者こそいないものの、周りから良く思われていないのは明らかだ。


 誰だって龍と対峙するのは怖い。逃げたい気持ちは同じだ。

 それでも必死に踏みとどまって、職務と向き合おうとしている。そんな中で、脱走をはかった卑怯者。それが今、他人の目から見てのヒカリなのだった。


 だから、憎まれるのは仕方がない。

 

 ヒカリは身を小さくして、寮生活をスタートさせた。部屋でも食堂でも浴場でも、目立たぬよう息を殺して過ごし、誰とも口を利くことはない。

 同期はとうに龍狩りに出るようになっていたが、ヒカリは回復がまだ充分でないという理由で休まされていた。


 せめてみんなと同じように働きたい。

 狩りに出られないことで、ヒカリは罪悪感を募らせていった。

 自分を狩りに出たいと願い出てみたが、

「まだイヌも医療棟に居るのだし、あなたばかりが焦ることはないわ」

 丸山の許可は下りなかった。

「あなたの心は短期間に強い衝撃を受けてしまったの。だからもう少し調整が必要なのよ」


 鬱屈した思いと焦燥を抱えたまま時間ばかりが過ぎ、とうとうイヌが医療棟から寮へと移って来た。


 潰れた目を眼帯で覆い、抜けた頭髪をカバーするためか頭に布を巻いたイヌの様相は、狩子たちの中でよく目立ち、同期はもちろん先輩たちの関心もひいた。

 ヒカリに対して向けられた感情が嫌悪なのに対し、イヌに向けられたのは同情だった。


 元々社交性の高いイヌはそのことを最大限利用し、嘘の筋書きを練り上げ、周囲に話して聞かせた。

 イヌ曰く、自分はヒカリの脱走に無理やり付き合わされた挙句、首謀者に仕立て上げられて彼女のぶんも拷問を受けることになった。自分はヒカリの被害者なのだと。悪いのはすべてヒカリなのだと。

 イヌの外見を見れば、誰もが容易にその筋書きを信じた。ヒカリはイヌと比べて、外見的に何も異常が見られなかった。


 遠巻きに睨んでくるだけだった同期たちは間もなく、ヒカリに対して嫌がらせを行うようになった。

 ヒカリはすれ違いざまに突き飛ばされ、わざと食事を捨てられ、トイレに閉じ込められた。

 ヒカリの居場所はどこにもなかった。



 

 自分はこの先、どうしたらいいのだろう。

 夕暮れ時、寮の裏手の小高い丘にひとり座り、ヒカリは遠くの景色をぼんやり眺める。

 時折耳に届く龍の鳴き声には、やはり心を強く揺さぶるものがあり、胸が締め付けられた。


 ふいに、隣で空気の動く気配がした。

「クロ……?」

 いつの間にかクロが横に座り、同じ景色を眺めていた。


「窓から、ヒカリがここに居るの見えたから」

 クロはそう言って、ヒカリに顔を向けた。

 久しぶりに人から悪意のない視線を投げかけられ、ヒカリは思わず目に涙を滲ませた。


 クロの表情が曇った。「……ごめん、ヒカリ……」苦しげに言う。喉のつかえを吐き出すように、その後も繰り返した。「ごめんね、ヒカリ。本当にごめん。ごめんなさい、ごめんなさい。僕のせいなんだ……」

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