第6話 痛みの中で
訓練棟に戻され、放り込まれたその部屋は、ひどく不気味だった。
湿った床に、淀んだ空気。
コンクリート剥き出しの壁には、正体不明の黒いシミが、点々と残されている。
ヒカリは部屋の中央で、椅子に縛り付けられていた。
部屋にはその椅子以外、家具は置かれていない。
しばらくすると正面の扉が開き、男がひとり入って来た。スーツ姿で、アタッシュケースを提げている。年齢は三十代か四十代……しかしどことなく年齢不詳な雰囲気のする男だった。
「田崎です」男は名乗り、眼鏡の奥の、やや斜視気味の眼をヒカリに向けた。「あなたは脱走者ですね?」
ヒカリは小さく頷く。「はい……すみませんでした」
ヒカリの様子を見て、田崎は薄く微笑んだ。口調や物腰は丁寧だが、田崎からはなぜか高圧的な空気が漂っている。
「脱走の言い訳はしないのですね。あなたは賢い。では、これからあなたに対して私が何をするのかも、想像がついていますか?」
「……いいえ」
「そうですか。では説明します。これからあなたは罰を受けます。脱走した罰です。年齢的に子どもとはいえ、あなたは社会人です。無断退職はいけません。私はあなたのような社員に罰を与えることを専門とした部署にいます」
田崎はそこで一度言葉を区切り、舌舐めずりをした。
「いくら仕事とはいえ、あなたのようなうら若き乙女を傷つけなければならないこと、私は非常に心苦しく思います。ええ、本当にそう思っているんですよ……」
そうして田崎はアタッシュケースを床に置き、中身を探りはじめた。「痛いのはお好きですか? それとも苦しいほうがお好みかな?」
ケースから取り出した警棒を持ち、田崎はゆっくりとヒカリに歩み寄って来る。そして、躊躇なくそれを振り上げた。
叩かれる……!
身構えた瞬間、ヒカリの体は思わぬ方向へと傾いた。
違う。今のは叩くと見せかけて、椅子の足を蹴ったのだ。
そう気付きながら、ヒカリは椅子ごと床に倒れ、左半身を強く打ち付けた。
痛い。
そう感じたのは一瞬で、今度は床の冷たさが皮膚に突き刺さった。
必死に体を捩り、田崎を見上げる。
田崎は声を出さず、笑っていた。心底嬉しそうに、銀色の奥歯を覗かせてる。
そして今度こそ、ヒカリに警棒を叩きつけてきた。
「……っ!」衝撃に耐えるための準備すら出来ず、わき腹に電流のような痛みが走った。
「悲鳴は上げないのですか?」
田崎の声に、いくらか落胆の色が混じったのを感じ、ヒカリはスガワラの言葉を思い出した。
苦痛の声は、奴を喜ばせるだけだ。
あれはきっと、田崎のことを指して言ったのだろう。
ならば、ここは絶対に無言を貫き通すしかない。
そう心に決めたと同時に、二度三度と続けざまにわき腹へ衝撃を受けた。
それから何度も何度も叩かれているうち、肉は抉れ、熱せられた鉄の棒を押し付けられているかのような痛みが、ヒカリを襲った。傷口は恐ろしく熱いのに、体の芯はどんどん冷えていく。
アタッシュケースの中には様々な器具がおさめられているらしく、ヒカリはそれらで叩かれ、打たれ、切られた。
田崎の履いている靴はつま先に何か重りでも仕込まれているのか、ただ蹴り上げただけでも凄まじい威力を放ち、ヒカリの体は壁に叩きつけられた。その拍子に拘束していた縄が外れ、床に放り出される格好となった。
間髪入れずに田崎はヒカリの髪を掴み、引っ張る。そのまま何度も頭を床に打ち付けれられた。
自分の体が、粉々になっていくように感じた。
それでもヒカリは決して悲鳴を上げなかった。上げれば、田崎は喜んでもっとひどい攻撃をしてくるだろう。そんな嗜虐性を、田崎はすでに隠す気などないようだった。時々嬌声を上げさえもする。
だが、ある段階から田崎の勢いが落ちはじめた。笑わなくなり、攻撃が緩慢になった。
そしてとうとう期待を裏切られたようにヒカリを見ると、
「あなたは退屈です」
そう言い捨てて、使った器具をケースに戻していく。
物寂しさの漂う背中を向けて、田崎は部屋を出て行った。
ヒカリは床に倒された体勢のまま、痛みが遠のくのを待った。痛みはどんどん増していくばかりで、泣きたいのに、腫れすぎた瞼の間からは涙がこぼれない。ヒカリはただじっと、何も考えないようにそこに居た。
壁の向こうから、叫び声が洩れ聞こえてきた。イヌの声だった。
彼女も今、隣の部屋で自分と同じような目に遭わされているのだろうか。
駄目、悲鳴を上げちゃ駄目。
イヌに向かって、そう叫んで教えてあげたかった。しかし光の口から出るのは赤く染まった唾液ばかり。傷のせいで、うまく発声できない。叩かれたところが痛み、息を吸うのもやっとの状態だった。
イヌの声はますます大きく、悲愴感を漂わせるものになり、田崎の笑い声は異常さを増していく。
耳を塞いでしまいたかった。
だけど両手は思うように動いてくれない。ヒカリは絶望に包まれたまま目を閉じ、そのまま気を失った。
◇
気が付くと、ベッドの上にいた。
体が鉛のように重い。
ヒカリは枕から少し頭を浮かせ、自分の体を確かめる。傷の手当てがされていた。
「あ、気が付いた?」
白衣を羽織った女性が、ベッドに近付いてくる。女性は自身を、医師だと言った。
「あ、あの、わたし……」口を開くと、しわがれた声が出た。
「大丈夫よ。傷は見た目ほど深くないから。もう少し回復したら諸々の検査をして、問題がなければここを出られるわ」
「あの、ここは……?」
「医療棟よ。あなたは訓練棟でひどい怪我を負って、意識を失ったままここへ運ばれてきた。あなた、丸一日半も眠っていたのよ」
医師はそれから傷の状態などを一通り説明した後、
「お友達のほうも別室で治療を受けて、少しずつ回復してきてるところだから、安心してね」
と言い加えた。
「会えますか?」
「いいえ、まだよ。今は安静にしてなきゃ。お友達と会うのは、お互いもう少し回復してからにしましょう」
医師が病室を出て行き、ヒカリはひとりになった。田崎から受けた暴力を思い出した。
手が震え、動悸が速まる。
怖かった。暴力から解放された今でも、怖い。
その夜、夢に田崎が現れた。ヒカリはうなされ、叫び声を上げながら飛び起きた。パニックを起こして病室の中を暴れまわり、駆けつけた看護師たちに取り押さえられた。
大丈夫。
安心して。
怖くないよ。
看護師たちはみんな口々にそう言って、ヒカリを宥めようとした。
言葉に含まれた厚意は感じとれても、それ自体は薄っぺらく響く。
だって、あなたたちは実際に田崎から暴行を受けてないじゃないか。
この苦しみや恐怖を共有できるのは、あなたたちではない。経験していないあなたたちに、到底理解などできるまい。
ヒカリはイヌを思った。イヌと、話がしたいと思った。
医師に言われたとおり安静に過ごすうち、顔や腕の腫れは引き、痣は薄れ、傷も塞がった。
世話をしてくれる看護師たちはみんな優しく親切で、お陰で昼間、ヒカリは心穏やかに過ごすことができた。
だが夜になると、田崎の夢にうなされた。最初の日のようにパニックを起こすことはなかったが、朝になって目を覚ますと、頬に涙の跡が残されている。ヒカリは眠りながら泣いているのだった。
心の支えは、イヌの回復だった。
別室のベッドにいるというイヌの様子を、看護師は丁寧に教えてくれる。順調に回復していると聞いて、ヒカリは嬉しくなった。
きっともうすぐだ。もうすぐ、イヌに会える。
ヒカリのほうが一足先に医療棟を出ることが決まった日、ようやくイヌとの対面が許された。
どんな顔をして会おう。まずは何を話そう。
緊張気味にイヌの病室の扉を開けた瞬間、ヒカリは自分の目を疑った。
ベッドに座るイヌの目は、片方が潰れていた。髪はところどころ失われていて、別人のようにやつれている。
病室に入って来たヒカリを、イヌはハッとしながら見つめた。そして何かを悟ったように、無事なほうの目を細めた。
「ヒカリ……。ねえ、もっと傍に来てよ」イヌは暗い声で言った。
「う、うん……」ヒカリはおずおずとイヌのベッドに近付いた。
「もう回復したんだね」
「うん」
「いいね、ヒカリは。傷跡が残るほどの怪我はしてなさそうだし」
「あ、あのね、」
ヒカリが何か言おうとするのを遮って、イヌが低く呟く。
「なんで? わたしとあんた、何が違うの? なんでわたしばっかりこんなひどい怪我負わされてるの? 同じ脱走者なのに、違いがありすぎるだろ」
「イヌ……?」ヒカリはおろおろとイヌを見た。
イヌの目は血走り、視線が定まっていない。
「わたしの目、もう治らないんだって。髪だって生えそろうには時間かかるし、そもそもまたちゃんと生えてくるのかもわかんないし、こんなみっともない姿で、これからわたしどうしたらいいの? ねえ、教えてよヒカリ……教えてよ」
ベッドの上のイヌが、ヒカリへ向け手を伸ばした。ヒカリの両肘を掴み、強い力で引っ張った。
突然のことで、ヒカリはバランスを崩し、イヌのほうへと上半身を傾けた。
イヌの手が、ヒカリの首に回った。
額と額がくっつくほど顔を寄せ、イヌは乾ききった唇をこじ開ける。
叫んだ。
「裏切者……絶対に許さないから。死ね! おまえなんか死んでしまえ!」
イヌが、ヒカリの首を絞める。
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