第5話 戦慄

「痛っ……」

 イヌが顔を歪ませ、しゃがみ込んだ。


「大丈夫?」

 先を歩いていたヒカリは、その声に慌てて振り返り、イヌの元へと駆け寄った。

 イヌのふくらはぎから、血が流れていた。


「折れた木の枝が突き出してたの。気付かないで、脚を引っかけちゃったみたい」

「痛む? 歩けそう?」

「……うん」


 訓練棟を出て、支部から脱走し、どのくらい時間が経ったろうか。

 ヒカリとイヌは、森の中を彷徨っていた。

 動かし続けた足は疲労しきり、それでもなんとか引きずるような歩みで、前進する。


「もうそろそろ休んでも平気かな」とうとう、イヌが音を上げた。「これ以上足が動かない。疲れた」


「もう少し頑張ろうよ。だいぶ小さくはなったけど、まだ支部の建物が視界に入る。わたしたち、支部からあんまり遠ざかれていないんだよ」弱気になったイヌを、ヒカリは奮い立たせようとする。


 日が暮れ、辺りは闇に沈んでいた。夜が、イヌを不安な気持ちにさせたようだった。ふくらはぎに負った傷の痛みが、それに拍車をかけている。

「勢いで逃げて来たけど、これからどうしよう。もっと脱走のために準備をする時間があれば良かったのに」

 イヌは愚痴った。


「今さらそんなこと言っても仕方ないよ。二人一緒にいるんだもん、どうにかなるよ」

「どうにかって、じゃあわたしのこの怪我、ヒカリは手当てできる? 食べ物はどうする? 今晩眠る場所は?」


 イヌに問いかけに、ヒカリはたじろいだ。言葉に詰まる。

 嫌な沈黙が、二人の間に横たわった。

 こんなはずではなかった。

 とにかく逃げてしまえば、後はどうにかなると思っていた。

 自分たちの考えは、甘かったのか。


「ね、ねえ……なんだろう、あれ……」

 イヌが上擦った声で、沈黙を破った。

 少し先を指差している。


 暗闇の中に、赤く小さな光が二つ浮かんでいた。

 瞬間、光の背筋に冷たいものが走った。

 息を呑む。体が硬直する。


 まさか、こんなところにいるものか。だってここはまだ山の麓のはずだ。あれは、山奥に棲みついているものなんじゃないのか。

 あれが、龍なわけない。

 心にそう言い聞かせてみても、二つの光を龍の眼光だと認識する自分がいた。


 自分たちはいつの間にか、山の中へと足を踏み入れていたのか。

 ここは、龍の棲み処なのか。

 今、自分たちのすぐ目の前にいるのは、龍――。


 最初に、イヌが後方へ走り出した。


「待って!」

 慌てて後を追おうとして、ヒカリは土埃に煽られる。思わず目を閉じ、身をすくめた。大きなものが、自分のすぐ横を駆け抜けていったのを感じた。前方でイヌの悲鳴が響く。


「イヌ……!」

 ヒカリが瞼を開けると、そこには地面に尻餅をつきながら後ずさるイヌの姿があった。イヌの前に立ちはだかる龍の姿あった。

 

 初めて間近で見た龍は、想像よりもずっと小さい。体長は二メート程だろうか。小ぶりの頭に、細長い体。月明かりに照らされて、鋭い爪と歯が不気味な存在感を放っている。いくら小さな龍とはいえ、あれに襲われれば、無事ではいられないだろう。


 イヌは腰が抜けてしまったのか、悲鳴を上げるばかりでまったく立ち上がる気配がない。

 イヌを助けなければ。

 そう思うけれど、ヒカリもまた足がすくんで動けない。

 龍がじりじりと、イヌとの距離を詰める。


 嫌だ。

 このままではイヌが龍に殺されてしまう。

 動け。動かなきゃ。イヌを助けるんだ。一緒に逃げるんだ。

 焦る気持ちは、すぐに懇願へと変わった。

 助けて。誰か助けて。

 頭の中で唱える。

 神様、お願い。助けて。


 龍は興奮気味に尾で地面を叩きながら、荒い息を吐いた。

 イヌがさっきよりもさらに甲高い声で叫んだ。


「黙れ」

 その声が聞こえた次の瞬間、イヌと龍の間には人影が滑り込んでいる。

 誰だ。

 一体どこから現われたのか。

 ヒカリはその人物の横顔を見た。

 

「静かにしろ。今から指示を出す。聞け。向こうに煙が上がっているのがわかるか?」

 人影は、スガワラだった。剣を手にしている。


「は、はい」ヒカリは答えた。「見えないけど、臭いで方向はわかります」

 薬品臭が、斜め左の方向から漂っている。


「煙のところまで走れ! 早く!」

 スガワラの声で、ヒカリの膝に力が戻る。

 月が雲に隠れ、辺りは闇に包まれた。不穏な空気が濃くなった。

 イヌに駆け寄り、助け起こした。共に煙の臭いを目指して駆ける。

 そうやって逃げた先で、地面に平たい器が置かれているのを見つけた。器の中では、尖った葉が燃やされている。薬品臭は、そこから立ち上っていた。支部の生垣に使われている葉と同じものだろう。龍避けの効果がある。


 イヌは再び腰を抜かし、座り込んだ。「た、助かったのかな、わたしたち……」


 耳を澄ます。

 張り詰めた空気の流れを、肌に感じた。

 やがて暗闇の中から、空中を切る乾いた音と、濡れた音が聞こえてきた。これが実際に龍の肉を削ぐ音なのだとヒカリは理解した。


 そして突然、辺り一帯が静寂に包まれた。

 ヒカリとイヌは一心に暗闇の先を見つめた。足音が近付いてきた。


「二人とも、無事だな」闇の中からスガワラが現われた。


「今、その……殺したんですか? 龍を」イヌが尋ねる。


 雲が流され、月明かりが戻って来る。スガワラの手に握られた剣から、血が滴っているのをヒカリは目にした。


「あれはまだ小さいほうだ。成長途中の龍だった」スガワラが淡々と言う。「しかし襲われていたら、確実におまえらは死んでいた」


「……すみませんでした」

 二人はただただ、深く頭を下げた。


 スガワラは無言で、短く息をいたく。それだけでは呆れているのか憤っているのか判然としない仕草だった。

 重苦しい空気が流れた。


 スガワラが口を開きかけたとき、背後で場違いなほど呑気な声が響いた。「あ、良かった、二人とも見つかりましたー?」


 遠藤が走り寄って来た。

 教官の中では一番自分たちに歳が近く、基本的にいつもにこにこしていて話しやすい雰囲気なのだが、今はその笑顔が怖いと思った。


「スガワラさん、龍やっちゃったんですかあ? お疲れさまですー。相変わらず仕事が早いっすねー」

 遠藤はにこやかにスガワラに話しかける。

 スガワラは鬱陶しそうな顔で、遠藤を横目で捉えた。

 遠藤が一方的にスガワラを慕い、スガワラのほうは迷惑がっている。そんな二人の関係性が、透けて見える。


「んじゃ、脱走者も無事捕まったことですし、さっさと連行しましょうか」遠藤が言った。


 ヒカリとイヌは、我に返った。

 そうだ、スガワラと遠藤は、自分たちを龍から助けるために駆けつけてくれたのではない。

 自分たちを捕まえるために、追って来たのだ。


「ほんとすぐ捕まえられて良かったですね、スガワラさん。あ、田崎さんのほうも支部に到着してて、準備してるらしいですよ。久々の脱走者だから、なんか気合入ってる感じで」

 遠藤は楽しそうに喋りながら、イヌの腕を取って歩き出した。


 ヒカリもスガワラに腕を掴まれ、連行される。

 もう抵抗する気力など残っていなかった。


 こんなに早く追っ手が来るなんて。そしてこうもあっさり捕まるなんて。

 子どもが大人を出し抜くなど、所詮は無理だったのか。

 悔しさと情けなさで、涙が滲む。ヒカリは小さく鼻を啜った。


「おい……」腕を掴むスガワラの力が、強まった。


 ヒカリはびくりと震える。「え……」


 スガワラは前を歩く遠藤を気にしながら、ヒカリの耳元に唇を寄せた。

「これから何をされても、どんなに辛くても、絶対に声は出すな。反応を見せるな。苦痛の声は、奴を喜ばせるだけだ。もっと酷い目に遭わされることになるぞ。無言で耐えろ」


 スガワラにそう耳打ちされて、ヒカリは慄いた。

 脱走者が受けるという、罰のことを言っているのだろうか。

 この後連れて行かれる先で、何が待っているというのか。


 

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