第90話
「We have a reservation under Kato.」
(加藤で予約しております)
「For three?」
(3人ですね?)
「Yes.」
(はい)
奈美さんとミカさんは初顔合わせ。僕は簡単にミカさんに奈美さんを紹介する。
「初めまして」
「初めまして、ミカと言います」
「ミカさん、お人形さんのような瞳」
「奈美さん、言葉がお上手ですね。ハーフなだけです」
ミカさんはそのキラキラした瞳で微笑む。
「ここの定番、ラムチョップで予約しました。僕がご馳走します」
「以前、加藤さんとここで食べたラム肉がとても美味しくて。また誘われるとは思いませんでした」
「ここのお店の味は最高ですよ、奈美さん」
「楽しみです」
「そう、恥ずかしい話ですが、ラムとマトンの違いって何でしたっけ?」
奈美さんが尋ねる。
「生後12ヶ月未満の仔羊の肉をラムと言います」
「その骨付きのロース肉を、骨ごとにカットされたお肉のことをラムチョップと言います。生後12ヶ月以上の羊のことはマトンになります」
「オランダって牛のイメージが大きんですけど、羊・・・」
「そうですね。オランダは、牛が目立ちます。10人に一頭の割合で牛がいますから」
「羊のイメージはちょっと少ないかも?」
「でも、テッセル島というオランダ北部にある島では、島にいる人の数よりヒツジの数が多く、いつも一万五千頭の羊がいて、毎年一万頭くらいの仔羊が誕生するんです」
「そうなんですか」
奈美さんが頷く。
「さて、料理が来ました」
「美味しい!」
「とてもジューシー!」
奈美さんもミカさんもご満足。
「最高の味ですね。申し分ないです」
「加藤さん。こんな美味しい料理を最後の最後までとっておくなんてずるいですよ」
奈美さんが子供の様に微笑む。
「今日の夕食の、ドーバーソウルも食べてから評価してください」
「もう評価折り込み済みです。どちらもすごいでしょ、加藤さんのオススメなら」
「そう、今日で今日の話ですけど、奈美さん明日帰国なんですか?」
「はい。彼のところに」
「彼のお仕事は?」
「……実は……」
僕は間合いを取る。
「奈美さんの彼、複雑な事情で、心の病を癒すサナトリウムにいるんです」
「そうなんですか……」
ミカさんが話を切り出す。
「実は、私の彼もうつ病なんです」
「えっ? 知りませんでした」
僕がミカさんから初めて聞く話。
「私の彼は、土産物屋をやる前は、それこそフライング・ダッチマン。営業職で世界中飛び回っていました」
「ある時期、売り込んでいた製品の不良で、そうですね……、日本円で1億円ほどの損失を出してしまって」
「その後、心の風邪、そう、うつになってしまったんです」
「そうだったんですか……。知らなかった……」
「彼はいつでもよく言います。健康な人は自分の健康に気が付かない。病人だけが健康を知っている、と」
「でも、前向きです」
「頑張らないで、頑張っています」
「平凡なことを毎日平凡な気持ちで実行することが非凡だと。彼の口癖です」
「今のお土産屋さん経営がそうです」
「幸せというのはそれはそれでいい。不幸というのは、その人の偉大さを認識させるものだからそれもいい。これも口癖です」
奈美さんが尋ねる。
「ミカさん。いわゆる、めげたことはないんですか?」
「ありますよ。何度も」
「特に、薬の服用開始時から」
「それは……、何か異変でも?」
「はい」
「抗精神病薬を飲み始めてからまもなく、からだの運動のバランスがおかしくなったり、からだが勝手に動いてしまうなどのの副作用、パーキンソン様の症状が出ました」
「そして抗うつ薬では、口の渇き、排尿障害がひどくて……」
「あと、薬が効きすぎるともうろう状態や健忘など」
「ただ、薬を調節して飲み続けていくうちに、それら症状は軽減していきました。入院も2ヶ月ほどですみましたし」
奈美さんが少し身を乗り出す。
「暴言を吐いたり、躁になったりしませんでしたか?」
「彼は大丈夫でしたが、人それぞれみたいで、そういう一種の興奮状態になる患者もいるようです」
「そうですか……」
「そういうとき、何か傍でできることはありますか?」
「お医者さんが言うには、安心、安全。その心を配ることだと。私も社会も」
「安心、安全ですか……」
「はい。頑張らなくていい、我慢もしなくていい。親が子供を守る様に」
「それを、きっと……、多分……、私なりの愛と言います」
ミカさんの深い瞳が時を止める
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