第84話
「ここが加藤さんのお気に入りの、ロンドンの夜の散策道ですか?」
「はい」
「本当に素敵。テムズ川を時計塔に近づきながら散策する。静かなロンドン」
「さっきまでコベントガーデン、賑やかでしたものね」
「加藤さんがここを歩くのが習慣になるのが分かるような気がする。美しい」
美咲さんと出会った場所。あの後一人、そして今、奈美さんと歩いている。
時計塔が近づいてくる。ここの時間の流れは不思議だ。何もかも、時間が重なり合っているような感覚に見舞われる。
丸まっている時間。昨日が明日で、明日が昨日。そんな異次元の世界みたい。
「アムスから飛んできて、お昼ご飯前にナショナルギャラリーを見て回れましたし、コベントガーデンのパブのパイも美味しかった」
「その後、バッキンガム宮殿、ウェストミンスター寺院、タワーブリッジなどなど、結構散歩も含めて回ったのに時間がゆっくり」
「そうですね。意外にゆっくりできましたね」
「加藤さんがロンドンに通じているから。そうでなきゃ、ドタバタしていますよ」
「さて、夕食、どこにしましょう?」
「僕の行きつけのインド料理店どうですか?、美味しいですよ」
「イギリスでインド料理? ですか?」
「はい、インドがイギリスの植民地であった歴史的背景から、イギリスにはインド系移民やその子孫が多く、インド料理店が多いんです」
「ロンドンでは、千軒くらいあると言われています」
「そんなに!」
ーーーーー
「Good evening, Masa-san, For two?.」
「Long time no see. Yes, two」
「What a wonderful girlfriend !」
「Follow me please.」
(こちらへどうぞ)
「Would you like something to drink?」
(お飲物はいかがなされます?)
「さて、奈美さん何にします?」
「まあ、最初はギネスビールでいいですか?」
「はい」
「インド料理には、意外にジントニックが合うんです。もともとジンは、オランダのライデン大学で造られた薬用酒です。香りづけには、カレーのスパイスの一つ、コリアンダーも使われています」
「二杯目からは、ジントニックにしてみましょうか?」
「はい。お願いします」
「メニューですが……」
「ここは、ダールが美味しいですよ。やみつきになります」
「ダールって?」
「豆カレーです。ここのは少し辛めです」
「他、スペイン料理のタパスのように、いろんな料理を少しずつ食べてみましょうか?」
「はい。少しお腹も空いていますし」
「そう、ナショナルギャラリー良かったですね」
「ええ、名画の絵葉書もたくさん買えました」
「嬉しいです」
「この絵葉書を左に、右に白紙を置いて同じように絵を描くんです」
「ぬり絵のように」
「明日は大英博物館ですね。もちろん、1−2日では全然回りきれませんから、最低限ミイラを見て、あとはプラプラ館内散策しましょう」
「はい」
奈美さんは微笑む。
「私、オランダ、そうヨーロッパに来て良かった。加藤さんのおかげで心洗われました」
「来週、加藤さんはお仕事ぎゅうぎゅう詰め、私はパリで3日間」
「その後、土日を過ごして帰国の途に着こうかと思って……」
「無理せずに、奈美さんのペースでいいですよ」
「真由美さんからのメールも見ましたし、彼が新しい仕事に挑戦しようとしているとも聞きました。いつまでも加藤さんにおんぶに抱っこじゃいけないし……」
「確かに、”時が熟す”、その機会は見逃してはいけないと思います」
「また帰国してダメなら、いつでも僕のところに来てください」
「ありがとうございます。加藤さんがアムス、ヨーロッパにおられるということだけで、もう、それが心の励みになるようになりました」
「そう言っていただけるとありがたいです」
「目には見えませんが、そこにある時点の彼がいた……」
少しの間の沈黙。奈美さんに暗い表情はない。
「でも不思議なんです」
「なぜか引きずらない。アムスに彼がいたこと」
「もう、来れないかもしれないだろうことさえ」
「Starting over。やり直し」
「これからなんですよね。これから」
「彼に変わることを要求せず、ありのままの彼を受け入れます」
「彼の中に、自分がいるから」
奈美さんは微笑む。
「思い出せるんです。はっきりと今」
「彼が私を愛してから、私、彼を本当に愛するようになったんです」
「だって、私を見初めてくれて、私の中に入り込み、私を輝かせてくれた人ですから」
「そんな簡単なこと、忘れてました」
奈美さんは笑顔。
僕は安心した。
奈美さん、気づいた。大丈夫だ。
ウエイターが近寄ってくる。
「How is everything tasting?」
(お料理の味はどうですか?)
「Excellent, thank you.」
(最高に美味しいです)
愛は永久不滅なもの。眩くて、爽やかで輝いているもの。彼にも誰にも配れるもの。
人・もの・時間・場所。姿、かたちを変えることはあるが、本質は決して変わらないもの。
まきちゃんが、僕に教えてくれたんだ。
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