第73話
「マーラーの5番、いい演奏でしたね。ホルンもすごく上手だった」
「はい、まさかアムスでマーラーが聴けるとは思いませんでした」
「第4楽章、とても美しかった」
「まさに、”愛”でしたね」
「はい。今、すごく幸せです」
「奈美さん、その感覚大切にしてください。マーラーは音楽で壮大な愛を奏でました」
「僕たちが教わるものは何でしょう?」
奈美さんは、小首を傾げる。
「愛とは無理して型付けないもの、完璧を目指さないもの。僕はそういうものだと思います」
「そう、奈美さんがアムスにいる間、いくつかコンサート、オペラやバレエ観にいきましょうか?」
「はい。私はとても嬉しいのですが、加藤さんのお荷物になりませんか?」
「大丈夫です。Barに浸ることと同時に、普段やっている日課ですから」
奈美さんは笑う。
コンセルトヘボウのロビーで演奏会予定のチラシ類を眺める。あと、予約状況。
「えーっとですね、ラフマニノフのピアノコンチェルト第2番とストラビンスキー火の鳥。ブラームスのピアノコンチェルト第2番とチャイコフスキーの交響曲第4番は取れそうですね」
「ブルックナーの第3番は満席みたいです」
「あと、ミュージックシアターで、オペラ、ロッシーニのセビリアの理髪師、そして創作バレエだと思うんですがシンデレラが観られます」
「どうします?」
「現実的な話ですが、チケット代、高くつきませんか?」
「オーケストラは、世界有数の有名オーケストラじゃない限り、今日のように約5千円、オペラ、バレエは席によりけりですが、これら全部合わせて2万円くらいで済みますよ」
「それなら大丈夫そうです」
「予約しておきますね」
「加藤さんは、オペラやバレエも観るんですか?」
「先月は、トリスタンとイゾルデを観てきました」
「愛の死、Liebestod。ラストシーンのソプラノの歌は鳥肌ものですよね」
「奈美さんもオペラ好きなんですか?」
「はい。ワーグナーは特に」
「”愛の苦しみ”から逃れるために飲んだ薬。それは”死の薬”ではなく”愛の薬”だった。しかして、結末は二人の死」
「トリスタン和声の官能的な響き。僕らを仮想世界と幻影へと導きますよね」
「そうですね。トリスタンに続きイゾルデが死す最後の歌詞。世界が震えるほどに、吹きすさぶ宇宙のすべてのなかに…… 、溺れ……、沈み……、我を忘れ……。この上なき歓び!」
「奈美さん、すごいすごい! オペラ通じゃないですか」
奈美さんは素敵に微笑む。さすが森下さんが選んだ彼女だ。才色兼備。
「そうそう、時差ぼけ大丈夫ですか?」
「少し……、ありますね」
「RuthのBar に、少しだけ寄ってから帰りましょうか?」
「Hi, Ruth」
「Hi, Masa」
「Everything going well?」
「So so.」
「She is Nami-san.」
「Every your girlfriends are lovely.」
(あなたの女の子のお友達は、皆素敵ね)
「僕はワインにしますが、奈美さんは何にします?」
「私もワインで」
「白、赤どちらで?」
「カベルネ・ソーヴィニヨンで」
「Ruth, She’ll take a Cabernet Sauvignon, en I a Chablis please.」
(カベルネ・ソーヴィニヨンとシャブリス、お願いします)
「So, and Bitterballen, please」
(そう、あとビッターバレン、お願いね)
「僕はBar通いが日課になってますが、森下さんはきっと夜の時間は論文書きとかに時間を使っていたんだと思います」
「さあ……、彼のことだからそうかもしれない」
「聞いていたとは思いますが、私が彼と一緒にアムスに行くというのに断られ、2年間は離れて暮らす、と頑として言われましたから」
そういえば、森下さんから、奈美さんが自分の指先の血で書いた、”バーカ”という手紙が来たと言っていたな……。
「丸い小さな揚げ玉、これ、何ですか?」
「小さい肉団子に似ていて、中に引き肉と甘い香辛料ソースが入っている、オランダの歴史あるクロケットです」
好みでつけるマスタードですが、少しつけてみて下さい。
「美味しい!」
「これ、日本のコロッケの元祖となったクロケットと言われているんですよ」
「本当ですか? すごいすごい!」
「さて、明日、明後日、僕はイギリスなんですが、奈美さんどうしましょうかね」
「ガイドブック片手にアムス観光してます。本当に、街全体が博物館、美術館ですから」
「夕食は家で食べてください。大家さんに夕食を頼んでおきますから。オランダの家庭料理です」
「はい。ありがとうございます」
「まきちゃんに、メールしますね」
「はい」
まきちゃん、
『奈美さん、元気だよ』
『アムスで色々なものに触れて、聴いて、感じて、森下さんをより深く愛する術に気づく一歩を踏み出しているよ』
『嬉しい事、楽しい事を通じて、眼に映る現実を、目には見えない大切なものを感じさせてあげたいな』
雅彦
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