第72話
ランチを済ませオフィスに戻る。
所長も秘書を連れオフィスに帰ってきた。
「かとちゃん、明日、明後日の準備は整ったか?」
「これが資料です」
所長がじっくり目を通す。
「O.K.、よくできている」
「奈美さんの方は大丈夫か?」
「ランチを一緒にとってきました。全然大丈夫そうです」
まきちゃんからメールが入っている
まさ君へ
『奈美さんどう?』
『私、森下さんに会ってきた』
『静かな療養所。彼の部屋は、めくる雑誌のページの音だけ。何かの論文?』
『魅力あるもの、奇麗な花、美しい音に心惹かれる。みんな誰でもそうだけど、森下さん、そう言うものに興味がわかない。私が居るのでさえ忘れてしまう』
『壊れてしまう、強がる彼の悲しい心。優しくほぐしていかなきゃね』
『過去の重さを洗い流せばいいの。どんなにもがいても、未来しかこないんだから』
『愛で彼を見守っていくの』
『皆からそうされている自分に気付いた時が、彼の朝』
まきちゃんに電話をするがつながらない。
日本時間午前1時。きっと寝ている。
通じない電話に、「おつかれさま、おやすみ」と小声でささやく。
愛を牛乳配達の様に皆に配る素敵な人。ゆっくりおやすみ。
ーーーーー
「奈美さんお疲れ様。ランチの後どうでした?」
「はい。パウルス・ポッター通り、アムステルダム私立美術館、国立美術館、ゴッホ美術館を足早に見て回りました」
「すごいです。レンブラント、フェルメール、ゴッホ」
「国立美術館は17世紀オランダ絵画を中心にした、世界都市として発展したアムステルダムらしい展示で、感銘を受けました」
「それはよかった。僕はレンブラントの夜警とフェルメール4作品を見る、あとは館内散策、みたいな感じで廻ります。いつも2−3時間くらいかな?」
「羨ましいです。いつでもそれができる街にいて」
「はい、そしてアムスは中心街自体が美術館、博物館の様な街ですし」
「森下さんは、普段、昼休みとか仕事の後とか、市内のフォンデル公園をジョギングするのが好きだった様です」
「休日には、アムステルフェーンにあるアムステルダムセ・ボス公園。140kmの散歩道、50kmの自転車道がある広大な公園で楽しんでいたり」
「そうだったんですか……」
「絵画を見たり、音楽やオペラ、バレエを観るより、走ることや泳ぐこと、長距離の自転車、海釣りなどが好きだった。ワイルドな人でしたから」
「軟弱な僕とは違います」
奈美さんが微笑む。
「彼、そういう人です」
「だから、急に身も心も自由がきかない体になって、暗い毎日を過ごしているんです」
「何より、大好きな仕事ができないし……」
奈美さんは悲しげでうつむき加減。
「コンセルトヘボウの演奏会は20時からですから、先に晩御飯食べましょうか」
「さて、何がいいかな?」
「奈美さん、時差ぼけの方は?」
「何となく、少し軽い気だるさと眠気を感じますが……、大丈夫です」
「日本食料理店にしましょう。安心する建物の作りや優しい食事で、時差ボケは軽くて済むはずです」
「森下さんの最大のお気に入りの店です」
「そう、お伺いしましたが、彼が何か資料を置き引きされた処ですよね?」
「そうです」
「そして、従業員の女性の方と、見た目恋人の役を演じたところです」
ーーーーー
「いらっしゃいませ」
「今日はまた、とびきりお綺麗な方とお食事ですね」
「加藤さん、相変わらずモテますねー」
オーナーも店の人も、奈美さんが森下さんの恋人であることを知らない。
「まずは、いつもの升酒、お持ちしますか?」
「いいえ、今日はこれからコンセルトヘボウへ行きますのでアルコールは無しで」
「はい、わかりました」
奈美さんは、店内をぐるりと見渡す。
「置き引き? なんて、される要素のない店の造りですよね」
「そうなんです。僕も聞いて驚きました。でも、海外では何が起こるか分かりません。注意しないと」
奈美さんはまた、うつむき加減。
奈美さんに今大切なのは、どれだけ森下さんを愛するかと言う努力ではなく、 森下さんにとって自分とは何かを知ることだ。
過去は安い本と同じ。読んだら捨ててしまえばいい。
まず自分自身を好きになる。末長く付き合うんだから。
「奈美さん。ダリはフェルメールを、レオナルド・ダビンチやピカソよりも優れている画家と絶賛したようです」
「ダリの言葉に、”完璧さを気にかけるな”とあります」
「その通りです。しかし、フェルメールは、限りなく完璧に近かった」
「奈美さん、僕らは無理です。完璧ってないんですよ」
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