第60話
南房の海は静か。
「どうしたんですか、奈美さん。いままでの奈美さんとは違いますよ?」
「私には奈美さんが自分の悲しみにがんじがらめで、希望が見えていないように思います」
「正直、そういう奈美さんは見たくないです」
「真由美さん、私は、もう……、疲れました」
「分ってますよ、森下さんのことであなたがとてもやるせなくて落ち込んでいるのは」
「そう、どんな時でも本当のことを話して下さいね」
「私に打ち明けて下さい」
「ありがとう、真由美さん……」
「大丈夫、あなたの友達ですから、信頼して下さい」
「はい」
「奈美さんはいつも自分に自信を持っていたのに、今、心が倒れそうになっているんです」
「心倒さず一緒に頑張りましょうよ」
「はい、ありがとうございます」
波の音は穏やか。
「これから私たちの辿る道は、通り直しのきかない道なんですから、慎重に行きましょ」
「悲しんでいる場合ではないんです」
「物事、はっきりしなくて駄目、は良くないです。はっきりして駄目元なんですから」
沈黙の時が過ぎる。
波の音が少しざわめく。
「奈美さん」
「あなたも私も十分知っているはず。悲しみはどうしたらやってくるのか、傷跡を残して去っていくのか」
「気を取り戻しましょう」
「必要な真実がすべて手元にそ揃うまで待ちましょう。そしたら何かが見えてくるはず」
奈美さんは、うつむいていた顔をあげる。
「大丈夫。神様がいます。呼びかける奈美さんの声が届く以前に、神様はすすり泣く森下さんに先に気づいているんですから」
ーーーーー
Shibが話す。
「Masa-san, In my view, the proposed R&D plan is not going to benefit our company.」
(マサさん。私の見るところ、あなたが提案されているR&D計画は会社の利益にはなりませんよ)
「I don’t agree with Masa-san’s plan.」
(私はマサさんに同意できません)
Shibのビジネス感覚は鋭い。世界の商業国オランダ、まさにオランダ人的である。
「I think we should wait until we have all the relevant information at hand. 」
(必要な資料がすべて手元に揃うまで待つべきだと思います)
やはり、特許を申請する国の範囲、共同研究先とのその配分についてはグローバルな観点からして一筋縄にはいかない。スペインから帰って来たら、所長との要検討マターだ。
とにかく、今回バルセロナで行う仕事の下準備は済んだ。アムスへの家路につく。
車中では、マーラーの交響曲第5番を聞いて帰路へ。
第四楽章 アダージェット。身もこころも洗われる美しさ。
映画「ヴェニスに死す」で使われている音楽。
クラシック音楽で最も美しい旋律の一つ。
マーラーはこの甘美な第四楽章に、熱烈な恋愛をしていたアルマに対する想いを込めている。
痛切なまでに込み上げる情感を湛えた、音楽のラブレター。
この楽章には、そうした恋愛の情を越えた、もっと崇高な祈りにも似た心境が感じられる。
ひとりの女性に対するマーラーの深い想いが、音楽によってここまで昇華されるのか。素晴らしい。
まきちゃんもお気に入りのシンフォニーだ。
アムス郊外。夕食は久々にイタリアンBar。
店の中は未成年も含んだ若者達で混雑している。
RuthのBarの気品高さ、静寂さとはまるで別世界。
「Japanese! Okonomiyaki!」
お酒で出来上がった若者が僕をみて話しかける。
「The Japanese pizza is okonomiyaki!」
(日本人のピザはお好み焼き!)
テンションが高い。
「?」
注文する前にビールが運ばれてくる。
斜め前を見ると、親指を立てている賑やかな若者達。僕へのおごりだ。
おどけて、はしゃいでいるだけではない。彼らの粋な優しさが嬉しい。
「Pizza without fries, please.」
「So, I’d like everything, but anchovies.」
アンチョビだけのピザを注文。
「I'd like thin crust, please.」
(生地は薄いのにしてください)
ダンスミュージックが、大きなボリュームで店の空気、窓さえ震えさせている。
Bad Romance、Poker Face、Just Dance ft. Colby O’Donis
たまにはこういう雰囲気もいい。
大きい。大げさに言うと、座布団ほどの大きさのピザが来る。
この店では、ピザを折りたたみ半円状にし、フォークとナイフで食べる人が多い。僕もそうする。
まきちゃんへ
『今、イタリアンBarでピザを食べる。アンチョビの』
『奈美さんはどう?』
雅彦
日本時間はまだ早朝5時。メールは帰ってこない。
「さて、」
店を出てRuthの元へ。軽く一杯。
騒がしい店と静かなたたずまいの街。そして静かな心許せる、夜のオアシスのようなRuthのBar。
ドラマティクに変わるこの雰囲気が素敵だ。アムスはいい。
この夜の雰囲気。まきちゃんが隣にいれば……。
いや、いつでも一人じゃない。
でも、やはり足跡は一人分……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます