第56話

「いらっしゃいませ。加藤さん」


久しぶりの日本料理店での夕食。


「加藤さん、本カツオのいいところが入ってますよ」


「じゃあ、升酒とそれ、あと海鮮サラダお願いします」


「お酒はいつもの久保田の千寿でいいですか?」


「今日は萬寿にします。今日は振り替え休日でしたし、少し自分へのご褒美に」


「どうもありがとうございます」



「しかし、加藤さん、お久しぶりですね」


「ええ、イギリスへ飛んだ後、すぐに日本に出張してたんです。週末はバルセロナですし」


「お疲れ様ですね。よく体力持ちますね」


「持たせるために、目と心に優しい日本料理を食べにきました」



マスターは満面の笑顔で、


「そう言ってくれるとうれしい限りです」


「久保田の方、勉強させていただきますよ」



まきちゃんからの連絡が気になる。森下さんとオランダに一緒にいた期間はあるものの、仕事関係での関わりは薄かった。森下さんが持っていた大切な何か?


森下さんからは人生訓を教えられた。しかし、彼の過去、業績などは微塵(みじん)も聞いていない。森下さんは口の堅い人だった。



「はい、升酒とお通しです」


受け皿に溢れんばかりの升酒。升の香り、そして升の縁についているここの料理店の塩がたまらない。最高峰の酒の味がさらにぐっと引き締まる。


おしぼりで手と、軽く顔を拭く。



「美味しいですね。五臓六腑に染み渡ります」


「良酒水の如し。まさにその通りの日本酒ですよね」


「食事の後テイク・アウト でおにぎり二つお願いできますか? 梅干しで」


「かしこまりました」



食事を終え、家路に向かう。マスターは結構勘定を値引きしてくれた。


今日はさすがにRuthの店には寄らず、家に直接帰ることにした。



絵はがきは来ていない。


郵便物はワーゲニンヘンからの特許関係の資料、月刊誌二冊だけ。一冊はオランダ語。Monicにサマライズしてもらおう。


これが日常だと思う。心放れる。開放感。



コップにミネラルウォーターを注ぎ、眠りに入る準備をしていたときに電話が入る。


まきちゃん? ではなさそう。日本は今、朝の5時頃。


着信番号にも馴染みが無い。



「もしもし加藤さんですか?」


「はい、そうですが」


「私、日本食レストランの……」


声を聞けば分かる。渡辺さんだ。


不倫をしていた同じ職場の男性が妻と別れて日本に帰ってしまったと言う噂。奥さんも子供を連れて日本に帰ったらしい。


「こんばんは、加藤さん」


「こんばんは」


「今日はお越し頂き、ありがとうございました」


「いいえ」


「加藤さん、突然なんですけどこれから会えますか?」


「あの、今の今では少し……」


正直今日は辛い。時計も午後10時をまわっている。



「今日じゃないと駄目なんです」


「私、明日日本に帰るんです」


「加藤さんにだけには知っておいて頂きたいんです……」



ーーーーー



「Hi, Ruth」


「Maybe Masa have lots of girlfriends.」

(マサは、ガールフレンドがたくさんいるね)


「Today, what a wonderful girlfriend, huh?」

(今日はまた、とびきり素敵なガールフレンドですねぇ)


Ruthが微笑む。



「私の心に、あの人がまだ住んでいるんです……」


「だれにも話せなかった想いを、ここ、アムステルダムに置いていきたいんです」


「なぜ、僕に?」


「加藤さんは、優しくて心ののりしろが大きいと感じました。常連さんですし、だから……」



僕はミネラルウォーターでもよかったのだが、いつものシャブリ、彼女はワインクーラー。



「不倫していた彼が、日本に帰ってから送ってきた手紙です。もちろん奥さんと離婚した後です」



『あなたがあなたの気持ちをくれたから、僕は僕の気持ちを渡します』


『これからの私の人生に、あなたの微笑みをください』


『今でもあなたを心の底から深く愛しています』


『待っています』



Ruthが興味ありげに手紙を覗き込む。もちろん読めはしない。いつも、日本語の文字は不思議だというRuth。


確かに、漢字、ひらがな、カタカナそして濁点がついたり、丸がついたり。ひらがな、カタカナには小文字もある。文章にはよく英語や、和製英語、すなわちアルファベットも含まれる。



Ruthに彼女の言葉をメモして渡した。



You gave your heart to me, so I'm gonna give you mine.


Please smile at me for the rest of my life.


I love you deeply with all my heart.


I need you.



「優しかったですよね、彼。僕は彼のお子さんも覚えてますよ」


「ごめんなさい。加藤さんには不倫だと分かっていたんですよね……」



この手の話は僕は全く門外漢。口を閉ざす。



「わがままごめんなさい。どうしても誰かとこうしてアムス最後の夜を過ごしたくて」


「申し訳ないですが、僕ではなんの力にもなれません」



「いいえ、加藤さんなら……、ここに私の記憶の欠片を残してくれるんじゃないかって」


「私が彼とここにいた、二人には美しい日々だった記憶を残しておいてくれるんじゃないかって」


彼女は今度はブラッツディー・マリーを注文する。ペースが早い。



「レストランの方々に、あなたの記憶が十分残っているんじゃないですか?」


「そう、皆からは私はもう怪がわらしい存在。そんな風に思われています」

「幸せな人の家庭を潰したんですから……」


「御社の森下さんまで巻き込んでしまって……」


森下さん? こんなところで森下さんの名前が出てくるとは……?


彼女が僕の肩に寄りかかってくる。泣いている。まずはこのまま。



BGM にはElton JohnのSacrifice。Ruthが選んだ。


Into the boundary

Of each married man

Sweet deceit comes calling

And negativity lands


結婚してる男の境界線を越えてしまう

甘美な不実の声が聞こえて

やがて背徳が忍び寄る



「何だったんだろう、私……」


「そして、彼の腕には、もう戻れないんです……」

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