第53話

旅の疲れはないが、少しぼーっとする。


シャブリをおかわり、それとアムステルダムオールドのチーズ。


Ruthが話しかけてくる、


「You didn't know the meaning of true love and happiness until you met her.」

(あなたは今回彼女に会うまで、本当の愛と幸せの意味、わからなかったでしょ)



そうだと思う。


これまでの人生、失くしたあとで気づくものばかり……。


それが、幸せや愛情というものだったのかもしれない。



「Masa have changed. Remember you're not alone by yourself.」

(マサの心変わったでしょ。あなたは一人じゃないの)


「Keep her hart on a tight leash. 」

(彼女のハートをしっかり捕まえていなさい)



今なら分かる、失ってはいけないもの。



「かとちゃん、そろそろ帰るか? 疲れたろう」


「そうですね」


「Betaling alsjeblieft. 」

(勘定お願いします)



家に帰り、ベッドに寝転がる。



「もしもし、まきちゃん」


「はーい、まさ君」


「こちらはおやすみ、そちらはおはよう」


「うん。日本はおはようなの」



「まさ君、元気してる」


「うん。夕食食べて、今までRuthの店で飲んでた」


「昨日の今日でしょ。すごい体力ね!」


「少しぼーっとはしてるよ、でも、大丈夫」



「シャブリ飲んできた。いつもの」

「まきちゃんと飲んだ青山のワインと同じ銘柄」


「ワインをくゆらせるとき、いつでもまきちゃんを思い出すよ。お守りもあるし」


「Even distance can not keep us apart.」かな。

(離れていても心はいつも結ばれている)


「まさ君って意外にロマンティストね」


「そう、今日奈美さんと会うの。調べるの。何かまさ君周り、森下さん関係で不穏な事が無いかって」


「ありがとう。心強いよ」


「森下さんはご存知どうりの療養所暮らしでしょ、仕事も何もなし」

「ただ、森下さん、苦悩を乗り越えたいの、奈美さんとかの力を借りて。私も微力ながら手伝うわ」


「何か、社会に役に立つことがしたいのよ。彼自身が、転がるように今のような状況に落ちた理由も知りたいし」

「”苦悩を超えて歓喜に至れ”、ベートーベン第九交響曲のテーマみたいだね」



「そうそう、バルセロナで仕事帰りに第五番「運命」を聞きに行くんだ」


「いいなあ。私も行きたい」


「私たちは一緒になる運命じゃなくて、一緒になっている運命だからね。未来完了進行形なの」


「うん」


運命……、


「まきちゃん、ベートーベンはね、運命作曲から25年余、苦闘と忍従を続け、貧乏に苦しみながら、全く聞こえない耳で音楽を創造していったんだ。25年間だよ」


「そんなベートーベンが最後に作曲したシンフォニーが第九交響曲」


「第九の初演で、ベートーベンは自ら指揮棒を振ったんだ」

「その初演、演奏後のことなんだ」


「ベートーベンは恐怖で客席を向くことが出来なかった」


「彼が思っていたのは、耳が聞こえないのをいいことに、誰も演奏してくれなかったのではないか? 自分の思っている音楽ではなかったのではないか? ということ」


「まったく音が聞こえないのだから、当然の不安」


「怖い……」


「観客の顔が見られない……」


「バカにされているのではないか……、席を立って帰る人も……」



「いつまでも客席を向こうともしないベートーベンに、アルト歌手がそっと寄り添って、彼の手を取り客席の方を振り向かせたんだ」


「そこにはスタンディングオベーションで大喝采、涙する観衆の姿があったんだ」



「歓喜。それはいつだって苦しみの先にあるんだ」


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