第43話
部屋に戻ると、まきちゃんがトートバッグからノートを一冊取りだした。
「これね、森下さんの彼女、美奈さんから借りているの」
「森下さんが、自分自身、理不尽な状況にさらされてきた事などが書かれているのよ。三冊あるの」
僕はノートを斜め読みした。衝撃的だった。
あの森下さんが? と思う数々の文面。自分の体調の不具合と、仕事、世の中への不平、不満ばかりが書き連ねてある。
まず最初にあるのが、”第一段階、自分の体調の不具合はこの居酒屋から始まった”と言う文面。そのくせ、その酒屋の場所・名前は書いていない。ただ、そこでジョッキ一杯のビールと塩焼き鳥を口にした後、体に痺れを感じ、頭の痺れ、ふらつきを覚えたと書いてある。
「第一段階?」
「そう、物事の始まりは居酒屋を出たあと体に痺れと倦怠感を感じた時かららしいの」
「丁度、まさ君がオランダで研修中で、森下さんが一時帰国している時」
「その居酒屋って……」
「もちろん場所はすぐに分かったわ。仕事提携先の大学のある駅の近く。ごく普通の居酒屋さん」
「森下さんは、体調が優れないので、その後会社に休暇願いを出して、神経内科へ診察に行ったの」
「お医者さんがいうには、日常生活はできるけれど、8時間という長時間の労働は無理ということで、会社へは10日ほどの年休を出すことにしたらしいの。1〜2週間で症状は治まるだろうと森下さんも奈美さんも思っていたから」
「その間、森下さんは美奈さんの看護も受けて養生していたんだけど、症状は一向によくならない」
「病院へ通院して点滴も受けたの。薬物治療も」
「でも、容態が良くなるどころかますます酷くなったの」
まきちゃんは話を続ける。
「そして森下さん、検査入院したの。脳神経や精神的なものまで詳しく調べるために」
「血液検査結果や内科的問題は全く異常なし。脳のCT検査も異常なし」
「ただし、神経の痺れや、体調の不具合から来ていると思われる思考のまとまりのなさから再び検査入院することになったの」
「精神科病棟、2ヶ月の入院よ」
「2ヶ月間の入院の間は家族しか面会できず、奈美さんや会社関係の人は森下さんに会えなかったの」
「家族以外の面談は精神保健福祉士の資格がある女性一人だけいたみたい。唇に人差し指を当てるのが癖だった人らしいの。ノートに書いてある」
そう、絵はがきを送ってくる亀田麻友さん……。唇に人差し指を当てるのが癖……。
彼女の仕事も精神福祉……。
「その後、森下さんは病院に敷設してある療養所に入ることになったの。そこでは、奈美さんも出入りOK」
「ノートを読み進めればわかるけど、森下さんの言う第一段階の他に、第二段階、第三段階そしてその先もあるの」
まきちゃんが僕に尋ねる。
「森下さん、何かの心の病だと思う?」
ノートをよくみると、初めてこれを読む人には、心の病を持つ人かもしれないと判断されうるメモだらけである。人は体調が悪い時には、あらゆる物事に否定的になりがちだから、一概には判断しかねるけど……。
「普通……、じゃないよね……」
「何より、僕が知っている森下さんじゃないよ。この二日間のミーティングは全然普通。優秀な人。時折弱音を吐くことはあったけど……」
「その森下さんが、そうなってしまったの、いや、されてしまったのかも知れない」
「なぜ?」
「分からないの……」
「まず、森下さんがどうして今の状況にいるのか、一つづつ外的側面と内的側面をチェックしていくしか手立てはないの」
「本人は、頭や体の痺れが起きてから、色々な物事を徐々に批判的に感じるようになったと話しているの。さらに症状はひどくなるし」
「森下さん、それまではとても健康で病気とは無縁の人だったから。自分に起きている体、心の変化に自分自身納得がいっていないんだと思う」
「森下さんは愛情の欠落した人……。そんな根のない話まで社内外の人たちが噂するようになって……」
「まさ君はどう?」
「何?」
「まさ君の愛情」
「僕は、普通に人、物への思いやりがあると思うけど」
「もちろんよ。でも第三者から真逆な情報を流布されていたらどうする?」
「自分の愛情を信じていても、人を助けても、落ちてるゴミを拾っても、第三者が適当な噓の情報を流したら……」
「そういう嘘を流したり、信じ込ませたりする人こそ、愛情のない人だよ」
「でしょ」
「まさ君、私にあり余るほどの愛情をくれるし、仕事もできる、人も助ける。愛情や良心、そしてそれで生まれる絆を本質的に理解できるよね」
「うん。自然体で普通に」
「ごめんね。変な話をして」
「美奈さんの話もそうなの。突然起きた自分の体調の悪さだけは納得できないけれど、森下さんはちゃんと愛情や良心が十分理解できる人のままだって」
「でもね、結果論としてそうではないという判断が下されちゃったの。病院で。病名も付いたわ。もちろん会社にも連絡が入って……」
「どうして急にそう言う話の流れになったの?」
「だから、それを探るんじゃない」
「まきちゃん、そんな事一筋縄の仕事じゃないよ。プチ探偵では無理だよ」
「悪い意味で、まきちゃんも僕もその流れに巻き込まれちゃうよ」
「そうなの……」
「でも、何かがまさ君にも起こり初めている……。だから……」
まきちゃんは目を伏せた。
僕はまきちゃんの華奢な体を抱き寄せた。
「まきちゃん。何が起こるか、起こっているのか分からないけど、誰でも感謝の気持ちを持って生きているし、病気であるなしに関わらず、すべての人は美しいはずなんだ。好きで病気になる人はいない」
「自分がいったい何者なのか、誰かに指摘してもらう必要のある人間なんて一人もいないんだ。社会のルールを守れば、僕たちはそのままの僕たちでいいんだ」
「大切な事は、目の前の人やものに常に感謝し続ける事。家族や恋人、友達、仕事にも、食事にも、何にでも」
「"ありがとうございます"、その言葉が心から出てくるなら問題ないよ」
まきちゃんは僕を強く抱きしめ、
「ありがとう。そういう風に話してくれて。やっぱり、まさ君といるのがいい」
長い夜。
「ルームサービスでも頼もうか?」
「うん。私はビールでいいよ」
僕はジントニックにした。
東京タワーの見える部屋からの夜景が美しい。
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