第27話
ロンドン・ヒースローからアムステルダム・スキポールへの飛行機の機内ラジオでは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』が流れていた。
緩徐楽章(第三楽章)Des Helden Gefährtin (英雄の伴侶)のヴァイオリンが美しい演奏だ。
この楽章は、無骨者である”英雄”は、はじめてみる”伴侶”のあでやかさに息をのみ、呆然と見つめる。 やがて、低音楽器の和音で表現される、重々しくごつごつとした音調の”英雄”と、優美でしなやかな”伴侶”とが交互に現われ、2人がぎこちなく言葉を交わす。
”伴侶”は”英雄”に、意味ありげな潤んだ視線を送り、その関心を惹こうとしたかと思うと、一転して”英雄”の無粋ぶりを嗤い、からかってみたりもする。
”英雄”は”伴侶”の、そんなふざけた態度についには業を煮やし、”好きにしろ”といった感じで”伴侶”をつき放してしまう。 するとようやく”伴侶”は、自らの過ぎた悪ふざけを悔い、拒絶されたさびしさにも背を押され、”英雄”の胸の中へと飛びこむ。 互いに理解しあい、求めあう。同じ旋律を陶然とうたいあげる”英雄”と”伴侶”。 2人の心は一つになり、壮大な愛の情景が描かれていく。
約一時間のフライト、あっという間にアムスだ。
久しぶりにスキポール空港の中で軽い夕食を食べる。スキポールを拠点に各国に飛ぶ、自分の家の玄関のような安心、気軽さ。
パニーニとフィリッツを注文。車で来ているので、アルコールは飲めない。飲み物はトニックウォーターにする。
電話が来る、
「もしもし、かとちゃん」
「もしもし、所長ですか?」
「ああ、そうだ。かとちゃんお疲れ」
「無事アムスに戻りました。今、空港で夕食食べてます」
「珍しいね、空港でディナーなんて」
「まずはありがとう。ブライトンでも頑張ってくれたね。いい子が来たと、相手が喜んでいたよ。かとちゃんには感謝、感謝だね」
「どうだね、今晩一杯」
「大丈夫です。Ruthの店ですか?」
「そう。俺は先に行っているから、適当な時間にきてくれ」
「分かりました」
A4、A10で帰路へ。新しく貸与された社有車のAudiは身分不相応だが、疲れている体に優しい。いい車だ、これから助かる。
絵はがきが3枚届いている。麻友さん2枚、美咲さん1枚。
人差し指を口にあてる癖がある麻友さん。
大学時代の彼女と同じ名前の美咲さん。
なんでどちらも継続してに絵はがきが来るのだろう?
僕に彼女がいるのを知っているのに。
そして、どちらからも、絵はがきよりも簡単なのに、メールが来ない……。
「Ik ben huis.」
(ただいま。)
たまには大家さんに、オランダ語の日常会話を習わなくては。
「Goedenavond, Masa. Blijft ge thuis vanavond?」
(おかえり、まさ。今晩は家にいるのか?)
「Nee. Ik heb zin in uit eten vanavond.」
(いや、今晩も外食する。)
「Heb je nieuws?」
(調子はいいのか?)
「Niets speciaals.」
(特別変わりないよ)
普段着に着替え、所長が待っているRuthの店へ。
「Hoi, Goedenavond, Ruth.」
(今晩は、ルース)
「Goedenavond, Masa.」
(今晩は、まさ君)
ルースはいつものように穏やかに迎えてくれる。優しく深い瞳。
「Heb je nieuws?」
(調子はどう?)
「Niets speciaals.」
(特別変わりないよ)
「かとちゃん、お疲れ。」
「所長もお疲れ様です」
「焼き鳥の塩でも頼むか。 Hi, Ruth.」
「Incredible, you must be crazy as usual.」
(信じられない、あなたたちいつも通り。気が違っている)
ルースは少し微笑んで、注文に応じる。
「かとちゃん、新規事業は大変だぞ。遠い明日と、足下のぬかるみの両方をこなしていかなければならない」
「でも、いつも焦らず、今いる地点から始めよう。自分の持っているものを全て使え。できることはすぐするんだ。」
「たいていの人は、問題を解決しようとするよりも、問題を回避するためにより多くの時間とエネルギーを費やしている。かとちゃんは、それ、だめだぞ。」
「No one has ever drowned in sweat.」
(汗で溺れた者はいないんだ)
「No.」
(はい)
Ruthはうなずき、美しい笑みをこぼしている。
メールが来ている。
まさ君
『なんかね、明るい、未来のまさ君との毎日、想像力でいっぱいなの。楽しいよ。どう彩ろうかしら』
『神様って、きっと絵描きに違いないね。妄想だけど、どうしてこんなに多くの想像力を授けてくれるの』
『たまに声、聞かせてねっ』
真由美
「会いたい……」
ふと、自然と唇が動く。
「Ruth, I’ll take a Laphroaig on the rocks.」
( ルース、ラファロイグをロックで)
強いピートの、その香りが、仕事もまきちゃんもひっくるめて、今の僕を癒してくれる。
所長は帰宅、僕は一人Ruthの店に残る。
「さあ、やるぞ」、独り言。
イギリスで購入した書物リストを斜め読み。
必要な情報だけを抽出しなければならない。
何をするかではなく、何をしないか決めることに集中する。
Ruthの店を出て、ニューヴェンダイク通りに向かう。賑やかな彩りだ。ライトアップされたダム広場の王宮も美しい。カップルを見て思う。まきちゃんに、ここの今この瞬間の空気と風景を全て見せたい。
またメールが入って来た、まきちゃんからだ。
『こころの涙でシーツが濡れるの』
『うそよ、ベー』
真由美
『P.S. ホントよ……』
ニューヴェンダイクの街は華やかなのに、なぜだろう、今日の僕の目には、寂しく映る。
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