第5話

「森下さんの彼女は元気ですか?」


「ああ、なんとかやっているみたいだよ。今年の一時帰国の後に、こちらへ連れてきて一緒に住もうと思っている」


「オランダ赴任が決まった後に、2年間は離れて暮らすと告げると、泣きに泣いて、しまいには送って来た手紙の最後に、自分の指をナイフで少し切って、その血の文字で”バーカ”と書いてあった」

「お互いに辛かったんだ。けど、あの時の僕には、彼女にさえ縛られない時間と空間が必要だったんだ」


森下さんは話を続けて、


「あらゆるものと、幾ばくかの距離をおき、自分の心を守り、変えないようにすることが大事だよ」

「この時には心にこの殻が必要、この場合にはこの殻も必要って、これから出会う苦難に遭遇して、その都度心の防御に殻を重ねていかないように」

「今食べたムール貝の殻の山の下に覆い隠されるように、本当の自分の心が見えなくなっていく」

「心を変えないようにする。それはね、逆なことをするんだ」

「悲しみや苦しみに出会うたび、心の殻を外していくんだ」


ロッテルダムのBarでは、森下さんのおごりということで、オランダ風料理と言える、ドーバーソウル(大ガレイ)のフルーツソースがけを注文。ワインはやはりシャブリ。


ドーバーソウルはバターソースムニエルが一般的だが、この料理はフルーツポンチにとろみをつけたようなソースをかけて食べる。

始めて食べたときには、せっかくの格段に美味しいソウル自身の味を消してミスマッチと思っていたが、慣れてしまうとフルーツソースも悪くない。


「美味しいですね。大きいし、身もしっかり」


「ドーバーソウルは新鮮さが命」

「いわゆる格安のソール類と違う、別格だよ。値段も別格だけど」


笑みを浮かべ、森下さんも満足げであった。


12時過ぎまで飲んでいたので、睡眠時間が4時間ちょっとで、せっかくの一泊3万円のHiltonホテルの部屋模様もわからないままチェックアウトし、釣り船に乗り込んだ。


「加藤君、船酔いは大丈夫?」


「大丈夫と思います……」


睡眠時間が短く、アルコールも残っているため少しけだるさがあったが、基本船酔いはしない。

1時間少し沖に船を走らせて、サバ釣りのスポットに着くと船のエンジン音が急に静かになった。

入れ食い。

竿を振ると、すぐ食いつく。面白いほどサバが釣れる。


「加藤君、すごいでしょ」


「まさに入れ食いですね、こんな釣り初めてです」

「こんなに釣ってどうするんですか?」


釣りを楽しみながら森下さんに尋ねた。


「僕たちは刺身、大量のサバは船頭さんにあげる。オランダでは薫製にして食べることが多いんだ」


「刺身?」


生サバの刺身など食べた事はない。身にはアニサキスがあり、最悪胃に穴があく。転げ回るほどの痛みに苦しむ。


「アニサキスは内臓に潜んでいて、初めは身にいない。魚が死んだのがわかって時間が経つと、内臓から身のほうに移動するんだ」


「釣ったさばを、すぐ血抜きして氷で冷やす。一日くらいなら生で食べられる」

「刺身にしたサバはなんともいえないほど美味だよ。アジなんかより全然美味しい。釣り人の特権だよ」


笑みを浮かべながら、森下さんはどんどんサバを釣り上げていく。


「ただし、オランダ人は、この人たち怖いもの知らず、かなり重症の気違いだという目で見てくるけど」


「そうでしょうね、僕もとても怖いですよ」


まじめ顔で僕は答えた。


「食べてみようか」


釣り竿を置き、森下さんはサバをさばき始めた。


僕は、


「すごい美味しい!でもまだ怖い分まだマイナスです」


森下さんは、笑った。


ロッテルダム港には昼の12時頃帰ってきた。薫製用に数十匹のサバをおいて船頭さんに挨拶し、中華料理屋で鴨の肉や、大好きなカレービーフンを食べ、昼食後、すぐにアムステルダムに向かった。


寝不足と軽い船酔いで疲れた私の仕草で、予定より早めに帰る事にした。しかし、コンセルトヘボウでのコンサートは堪能。自分でもタフだと思う。


しかして、このあと日本に一時帰国された森下さんがオフィスに戻ってこなかった。

重病説という噂まで飛んだが、何が起きたかわからないまま。

何でも話し合えるはずの所長でさえ、この件に関しては、突如口をつぐむようになった。


ホームステイ先までタクシーで帰り、ラファロイグをロックで一杯。大家さんはとっくに寝ている。


まきちゃんからのメール、


『今日は裸で寝るの』

『どうする?』


『おやすみなさい』


”どうする?” シンプルな言葉。


そのとき、その場の何気ない言葉一つが、瞬時に自分を妄想の世界に引きずりこむ。

その言霊で、ドラマチックな妄想が生まれる。


まあ、いつもどおりのおしゃれなひと言メール。


まだ半分彼女である。

まきちゃんを抱いた事はない。


水をコップ一杯飲み、ベッドへ入る。

美しかった北海の景色の記憶が、優しく僕を眠りに誘った。

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