第二譚「稲妻を見ろ」

004


天川聖也は逃げ惑っていた。


弾け合う"それら"に、星也は頭を保護しながら逃げ惑うので精一杯だった。パニックに陥りながらも体が固まることはなかった。


星也が窮地に慣れていたという訳ではない。


逃げなければ死ぬ。そう思っただけだ。


茶色い大玉は室内のありとあらゆる物を壊しながら跳弾していた。壁、戸棚やデスク。置いてあるもの全てがふ菓子のように容易く砕かれる。外への唯一の扉も不格好にひしゃげていた。


これでは外へ逃げることができない。


「さあさあ、ここはまだ入り口だ」


大玉と対する女性は対照的だった。


女性はその場から一歩も動いていない。つまりはデスクの上で仁王立ちし続けていた。もちろん、金髪の女性に向けても茶色い大玉は猛威を振るっていた。


しかし、彼女は涼しい顔をしている。


着物の帯から取り出した扇子で大玉を払っていた。まるで暖簾を避けるかのように、軽々と弾いている。


汗を流しながら、星也は勘づく。彼女は心なしか楽しんでいる。彼女が弾いた大玉は的確に星也に飛んできている。偶然か、そう思って跳弾の合間に女性を見ると、ニヤリと笑みを返された。


何がしたいんだ!?


「乗りきってみせろ。でなければお前はここで死ぬ」


女性の言葉通り、いつ死んでもおかしくない状況だ。大玉は辺りを粉砕し続けているし、徐々にその猛烈さを増しているように思えた。


助けは期待できない。


星也はいきなり巻き込まれた窮地を自分で乗り越えなければならない。


逃げ回っているだけではいつかとらえられる。真っ向からぶつかり合って砕けるのは、星也の方だ。


何か考えなくてはいけない。


星也は跳弾が舞う死地の中、走り出す。女性に向かって一直線に向かっていく。


「私の後ろに隠れるか? それは面白くないな」


女性が不機嫌そうに扇子を振るい大玉を弾く。大玉は真っ直ぐ星也に向かっていく。


星也は当たる直前ーーー滑り込んだ。


頬を大玉が掠める。星也はスライディングした勢いそのまま立ち上がり、今度は女性からそれて走り出す。


一方の大玉は、さらに跳ね返り往復して女性のもとへと跳ね返る。


呆気にとられた風もなく、女性が斜めに大玉を弾く。数回室内でバウンドして、今度は星也の背後を追いかける。


跳弾を繰り返しうねりをあげながら接近する大玉。星也は、その姿を横目で捉えていた。背骨を粉々にしようかという直前、星也は横に転がった。


先ほどのような綺麗な滑り込みというわけではなかった。なるべく遠くに。倒れている家具にぶつかることも考えずに、星也は横に飛び退いた。


大玉は彼の真横を通過する。そして、彼の企み通り、割れたがら窓から外へと落ちていった。


「よくやった。まあ良いだろう。これでとりあえずはやり過ごせる」


結局、デスクから一歩も動かなかった女性は、少々不満げに星也に賛辞の言葉を送る。


「外への影響は考えずともよい。端から見れば、変哲の無い雑居ビルのまま、やつの姿も外では見えん」


星也が最初、ビルの目の前で大玉の姿を見失ったのには訳があるらしい。このビルの外では、大玉の姿は見えない。


しかし、星也がすべてをわかって行動したわけでは無い。むしろ何もわかっていない。ビルの仕掛けも、大玉の正体も、女性の名前も。星也は何も知らない。


ただ死にたくなくて走り出しただけだ。


大玉を外に逃がしたのも、ピンポン玉のように軽やかに鉄球のように重く跳ねるそれを外にやらなければ、いつか押し潰されると思ったからだ。


「合格だ。明日から好きな時間に来い。金は用を済ました都度、くれてやる」


最初、女性の言っている意味がわからなくて呆然としたが、星也は直ぐに彼女を睨んだ。


こんな時だが思い出した。星也はバイトの面接に来たのだ。


例え給料がよくとも、自分を殺そうとしたわけのわからない女の元で働こうとは思わない。


抜けそうな腰に力を入れて、入ってきた扉に大股で進む。体当たりをして無理矢理にでも、出ていってやる。


「そう急くな。まだ入り口だといっただろう。新人」


そう不適に笑う女性の後ろで、風が舞った。


茶色い大玉が飛んでいた。


大玉という言い方はもう適していない。茶色いそれからは大きな翼が映えていた。両翼を広げると、その大きさは3メートル程。今までは翼でその姿を包み隠していたらしい。


羊の顔をしていた。或いは狼の顔をしていた。


蛇のような尾をしていた。或いは蠍の尾をしていた。


ライオンの胴体をしていた。或いは人間の胴体をしていた。


星也は形容することができない。決して、星也の知識が乏しいということには繋がらない。大学の講義や読書である程度の語彙はある。


見たことがあるようでない。分かるのだけど分からない。


目の前で大きな翼で風を巻き上げるソレはそんな存在だった。


ソレの唸り声も星也は聞いたことはあるが聞いたことはない。しかし、明確に分かるのは、ソレの殺気だ。


普段日常の中にいる星也に殺気を感じる機会はない。そんな彼でも明確に感じきれる殺気を向けられた。


蛇に睨まれた蛙はこんな気分なのだろう。足がすくみ声さえ出ない。これから為す術もなく屠られて終わるのだろうという予感が頭を埋め尽くす。


窮鼠が猫を噛んでもそのつぎには補食される。


後悔する間もないまま、茶色いソレは星也に牙を向いた。


ーーー目映いたのは稲妻だった。


稲妻は千鳥の如く動き回り、室内の影という影を根こそぎ消していった。枝葉のように別れた一本が微風にたなびく稲穂のように優しく星也を撫でた。


しかし、その一瞬で星也は身体中がしびれてしまった。撫でた電気の弾ける音がどこか意地悪に聞こえた。


少し触れただけで身動きがとれなくなってしまう稲妻。直撃したら相当なものだろう。


その稲妻が大翼の何物かに直撃した。


言語化不能な雄叫びが響く。あまりの爆音に星也は耳を塞いだ。しかし、眼だけは瞑らなかった。


その輝きに見とれてしまった。


雷を間近で見る機会はそう多いものではない。しかし、星也はその珍しさゆえに目を離せなかったわけではない。例え、これからの未来、一寸先に雷が落ちてこようなら、逆に彼は頭を抱えてその場にうずくまるだろう。目を伏せるだろう。


稲妻がそうはさせなかった。


重力に逆らえずに落ちた林檎のような、絶対的な強制力を星也は感じた。


その稲妻に心を奪われた。


稲妻がやむと茶色いソレは墜落していった。外の風景は何事もなく、この数分の出来事など、どこ吹く風といったように平生を保っている。


全て世はこともなし。だけれど星也には、自分が世界から置いていかれたのか、先に来すぎたのか判別がつかなかった。


「なついたか。それは行幸」


コートの女もこともなく、しかし今日一番の笑顔でこう告げた。


「躾はしっかりな」


惚ける星也は気づかない。自分の頭の上に乗っている少女を悟れない。


少女のフードがはらりと捲れる。隠れていた猫耳が姿を表す。


可愛らしげな鳴き声が一つ、星也の耳に届いた。



005


「新しいバイトは見つかったの?」


一件の騒動の翌日。大学の広場で弁当を食べていた星也は、優花に声をかけられて顔をあげる。彼の顔にはっきりと憂鬱そうな表情が浮かんでいたのだろう。優花は、一瞬だけ眉間にシワを寄せたが、直ぐに意地悪い笑みを浮かべた。


「見つかんなかったわけね。ご愁傷さま」


本当のことは言わないでおく。どうせ言っても信じてもらえるわけもなし、騒動の情報を正確に伝えられるほど理解している訳でもない。


ただひとつ言えることは、星也が陷っている状況を目の前の性悪女に話そうものなら、一ヶ月は笑いの種にされるということだ。


「なんだったらいいとこ紹介してあげるけど」


優花の提案を丁重に断りつつ「いいとこ」を聞いてみる。


「私のお昼ご飯を作る仕事。一週間で1000円支給してあげる」


却下。即答で却下だ。値段も割に合わないが、優花の下で働きたくない。現在は、ただいがみ合う関係だが、そこに明確に上下関係をつけたくない。


雇用者と被雇用者が対等なのは六法全書のなかだけで、現実ではそうはいかないのだ。


それに割りを食っていない状況は、もうすでに陷っている。


星也は腕時計で時間を確認すると残っていたおかずを口にかき込んで弁当をしまった。


「今日は早いのね。もう授業無いんだっけ」


そう言う優花はこの後も講義があるだろう。さっさといっちまえと言って腰をあげる。


今から餌やりの時間だ。


星也は校門をそそくさと抜けて家路を急ぐ。これまでならば、馴染みのお客のご飯を作りにバイト先に向かうのだが、今ではそのバイト先はない。


だからと言って新しいバイト先に向かうわけではない。


星也が向かったのは家の近くのスーパーだ。リュックサックの中からレジュメに混じった三色カラーのチラシを取り出す。今日は鳥のむね肉が特売だった。


節制をしなければいけない。


昨日の結論を言えば、星也はあの怪しげな事務所でバイトをすることになった。日当3万円は貧乏学生の星也からすれば大きな収入源だ。昨日すでにあの女性、来栖・スカーレットから現金をもらっている。


「金に困ったら来い。それ以外でも困ったら来るといい」


事務所の荒れ具合と対照的に来栖の服装は一切乱れていなかった。襟が緩むこともなく、コートに煤がつくこともない。汗一粒も額に浮き出させず、こともなく言い切った。





来栖は、その場でピン札3枚を茶封筒に包み星也に手渡した。家に帰ってから確認したが、まぎれもなく本物のお金だった。偽札かどうかを小一時間疑って調べたが、怪しいところは一切なかった。


その三万円が今から食費に消える。星也は、買い物籠いっぱいに食材を買い込みスーパーを後にした。もちろん、お釣りがくるように安いスーパーを選びはしたが、これが一日保つとは、到底思えなかった。これから毎日のように来栖のところに足を運ぶようになってしまうかもしれない。


それだけは避けたい星也だったが、あの暴れん坊の大食漢を空腹のまま、ほおっておくわけにはいかなかった。


自転車の籠ぱんぱんに食材を詰め込んで星也は汗だくでペダルをこぐ。牛肉3キロと野菜数キロのせいで踏み込む足に力がいる。


格安スーパーから星也の住むアパートへの道は緩やかな坂道がひたすら続いていた。これから毎日通うことを考えるならば、電動自転車を買うべきだろうかいやそれでは金がないでも来栖に言えば買ってもらえるかもしれないしかし事務所にはいきたくない、なんてぐるぐるぐるぐるペダルと一緒に思考しながら、星也は信号でようやく足を止めた。


もう一人待っていた老人の隣でブレーキを引く。少しは休憩できそうだと思ったが、星谷は落胆した。この信号は押しボタン式だ。先に老人が待っていたから押したものだとばかり思っていたが、横には「押してください」の赤く光る文字。


老人に声をかけるのも厭味ったらしいか。そう思った星也は自分でボタンを押した。


「おや、すまいないね。なれない道で失念していたよ。ありがとう」


気さくに話しかけてきた老人は白髭の紳士だった。シルクハットとブラウンのスーツ。洋服に詳しくない星也でもなんとなく高そうだと感じた。何よりも、その佇まいに年月を重ねなければ出すことのできない気品を感じた。


そんな紳士に星谷が返したのは会釈だけだった。彼は決して非社交的な性格ではない。飲食店で数年働いていた彼は、むしろ人の懐に入るのがうまい方だ。前のバイト先では、よくなじみ客と談笑しながら料理を作っていたものだ。


気圧された。そう言うのが一番適している。


その原因は星也自身にもわからなかった。紳士の持つあまりの気品にたじろぎでもしてしまったのだろうか。


勝手に困惑する星也に構わず老人は続けた。


「ずいぶんいっぱい買い込んだんですね。そんなに細いのによくたくさん食べれますな」


まさか本当のことを言うわけにもいくまい。星也はまた黙り込んでしまった。愛想笑いすらできない。どうしてしまったんだろう。


「ん? ああ、あそこの大学の学生さんですか。じゃあ、これから友達とパーティーってことですね。いやー、うらやましい。友達は大事にしないとね。年月がすぎれば友も少なくなっていきますからな」


今度こそ愛想笑いだろう。いや、なんでもいい。何か一言でいい。しゃべるんだ。


しかし、信号が青に変わった瞬間、星也は自転車のペダルをこぎ始めていた。


星也は老人を無視した。それだけでなく逃げるよう走り出してしまった。


はたから見れば失礼な若者だ。老人は星也に危害を加えたわけではない。ただの談笑だ。彼にも罪悪感はあった。


しかし、星也は走り出したことを間違いとは言わない。むしろ、これは最適な行動だ。


なんの根拠もなくそう思った。


止まることのない汗を流しながら理由を探したが、正解は見つからなかった。


自問自答と自己嫌悪を繰り返しながらようやく自宅に到着した。辺りを警戒しつつ階段をかけあがり、急いで玄関の戸を閉める。


足から力が抜ける。星谷は思わず膝をついた。吹き出す汗がより一層増えて、水浴びでもしたあとのようにシャツを濡らした。


「セイヤ、大丈夫?」


星谷の目の前に少女が立っていた。黄色い瞳で不思議そうに覗いてくる。


「汗、すごいよ?」


少女はパーカーの袖で星也の額を拭う。


大丈夫、そういう代わりに笑顔で少女の頭を撫でる。声が出せそうになかったので苦肉策なのだが反応は思いの外良い。喉をごろごろならしていた。


ユイは猫又という妖怪である。


突拍子がなくて申し訳ないが事実だ。


ユイが被っているフードをはずす。可愛らしい猫耳が二つ。そして尾骨の辺りから2本の尻尾。どちらも付け物ではない。血が通っている、正真正銘ユイの体の一部だ。


「セイヤ、えっち」


ユイは急いでフードをかぶり直すと恥ずかしそうに奥へ駆けていった。


星也の新しいバイトはユイの面倒を見ることだった。


「私は子供が嫌いだから保護先を探してたんだ」


とは、来栖の弁。


妖怪の面倒なんて死んでもごめんだ。星也は昨日、自分の数倍の体躯の持ち主である妖怪を稲妻で打ち落としたユイを目の当たりにしている。もし怒らせようものなら自分の身が危ない。


しかし、星也は断れなかった。


来栖曰く、『憑かれてしまった』らしい。


「憑かれたという言い方が怖いならなつかれたと言い直そうか。どちらにしろ、お前は猫又に見いられた。食われたくなかったら観念するんだね」


猫又。メジャーな妖怪だろう。長く生きた猫が化けて成るもの。中国や日本で古来より人を喰うと恐れられてきた。


ただユイは、正確には『火車』という妖怪だろうと、来栖は話していた。


悪行を積み重ねたものの亡骸を雷雲と共に現れ奪い去っていく。


ユイの落とした鮮烈な稲妻こそが彼女を火車たらしめる所以だと言う。


来栖に教わったあと火車の画像をネットから漁ってきた。禍々しい見た目は、星也が思い浮かべる妖怪像と合致するのだが、ユイの愛くるしい姿を見ると疑いたくなる。


漫画向けに妖怪を擬人化したような違和感だ。ユイの妖怪要素なんて、耳と別れた尻尾しかない。


ただ、星也は知っている。ユイにはもう一つ化け物じみた力がある。


「セイヤ、おなかすいた」


ユイが星也の足元にすり寄ってくる。何も人肉を要求している訳ではない。ユイは星也の手料理を心待ちにしているのだ。


ユイは大食漢なのだ。


先ほどスーパーで買った肉と野菜、あらかじめ炊いておいた米は一回の食事で全てユイの胃袋に消える。星也の半分ほどの体のどこに消えるのかは謎だが、妖怪とは謎どのものだしそういうものだと思って飲み込むしかない。


不馴れな箸を使って白米を書き込むユイを眺めながらこの後の予定を話す。


「クルスにあうの?」


金がなくなったから会うしかない。給料アップと経費で電動自転車を買うようにお願いをしに行く。


できれば会いたくない人物だったが、バイトをしているのに生活難になっては本末転倒だ。


それに、昨日は聞けなかったけれど、来栖が何者なのかをはっきりさせたかった。


上手いこと話を進められれば良いけれど。


「セイヤの作るご飯、おいしーね」


口の回りを汚しながらユイは肉を頬張っている。これからマナーも教えるべきなのだろう。星也は口の回りを拭ってやった。


「この間食べた人のお肉より好きー」


一番最初に教えるべきは人間の常識かもしれないと、星也は頭を抱えながら思うのだった。



続・006





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