第一譚「出会い、曖」

001


通帳の残高に思わず目を疑った。


安くてうまい生姜焼き定食(400円税抜)がおすすめの大学構内の食堂で、湯気をたてる出来立てほかほかの生姜焼き定食(400円税抜)を目の前に、天川星也あまかわせいやは携帯を持って固まっていた。


一昔前とは違い、今は貯金残高を携帯のアプリで確認できる。わざわざ、記帳するために銀行に行かなくて済むというのは合理的だ。銀行でなくともATMまで行くのでも煩雑なのは変わらない。


何より、蝉が情緒を感じさせない大合唱を響かせるこの暑い夏、外に出なくて良いというのは、余計な汗をかかずに済んでとても良い。


世の中便利なのが一番だ。


けれどもその便利さのせいで、直視したくない現実を気軽に目の当たりにしてしまった。


0が少ない。


携帯の画面に並ぶ数字を見て思わず首をかしげてしまう。想定よりも0が少ない。1つだけでない。2つ3つは少ないのだ。


バイトの給料支払日は今日のはずだ。ただ時刻は、正午を少し回ったところ。振り込みが遅れているという可能性も否定できない。


急いでバイト先に電話を掛ける。しかし、繋がらない。それどころか何度かけても、呼び鈴が鳴らない。おかしい。星也のバイト先は飲食店だ。忙しくて中々出れないときはあっても、出前でも使っている電話なのだから、回線に繋がらないことはあり得ない。


通話アプリに切り替えてバイト先の後輩を探す。今日のシフトで出ているはずだ。


バイト中ならすぐには返信は来ないだろうが、休憩時間になればレスポンスが返ってくるはずだ。


「先輩知らないんですか? あそこ潰れましたよ」


思いの外早く帰って来たのは、予期せぬ回答だった。生姜焼きを口に運び込む途中で口が開いたままになってしまった。


星也のバイト先は、そんなに経営難だったのか? いや、そんなことはない。昨日だって、彼が何百人というお客の料理を作って大繁盛だったはずだ。


「違いますよ。……あんまり大きな声じゃ言えないですけど、泥棒が入ったらしいです。食材も調理器具もお金も、一切合財持っていかれたらしいです」


もちろん、その中の星也達アルバイトの給料も含まれているのだろう。全額を銀行に預けていないこともないのだろうが、奪われたのがお金だけじゃないことを聞いてしまうと、そこは追求しづらい。


「しかも、店長泥棒と鉢合わせて腰やちゃったらしいんですよ。あとで一緒にお見舞いいきましょうね」


さらに追求しづらい。


店長は人格者だった。そこを考えて給料はなくなく諦める他ない。


後輩と見舞いの日取りを決めて通話を切る。途端に目の前の生姜焼き定食が憎たらしくなってきた。


大体なんだ安くて旨い生姜焼き定食(400円税抜)って。特別安くもなければ、旨くもない。厨房に立っていた星也の方が数倍はうまく作れる。よくよく見れば、量もたいして多くない。


こんなことなら、億劫がらずに弁当を持参すればよかった。返品できるならしてやりたい気分だ。


「食べないならもらうよ」


横から手が伸びてきたかと思うと止める間もなく、箸でメインの豚肉を一拐い。星也が豚肉泥棒を見たときには、憎たらしい口に収まってしまっていた。


「あんまり美味しくないわね」


奪ったのならせめて満足そうな顔をしろ、と星也は優花に悪態をついた。


片桐優花かたぎりゆうかとは高校からの付き合いだった。とはいえ、高校時代は特に仲が良かったわけではない。


話すようになったエピソードをいうならば、星也の第一志望大学と優花の第二志望大学が被っていて、嫌みを言われたのが始まりだ。そこから、優花はちょくちょくからかうようになり、星也は辟易している。


それだけの話だ。


今現在、同じ大学に通っているということは彼女は第一志望に落ちたということで、それを餌にやり返したい気持ちも星也に無くはなかったが、そこまで彼も下衆ではない。


彼女から箸を奪い返し、ようやく一口目を口に運ぶ。この際、腹に入れば何でも良い。


とは言え、新しいバイト先を見つける必要がありそうだ。


「何? あんたのバイト先つぶれたの?、ご愁傷さま」


何食わぬ顔で優花は星也の前の席を陣取った。そして鞄から持参した弁当を取り出した。自分の分あるのかよ。


中身も豪華でうまそうだ。星也に対する当て付けにしかみえない。


「あんた料理だけは得意なのにね。あーあ、また店いってやろうと思ってたのに」


どの口が言うのか。以前店に来たときは、さんざん難しい料理ばかりをたくさん注文して、帰り際に「もっと腕あげなさい」と宣ったのだ。


それ以来、週に一回は必ず来て評論してから帰る。二度と来るなと言いたい。もう来る店はないが。


「今度見舞いに行くわ」と言ったところで優花は友達に声をかけられて別の席についた。


何がしたかったのかわからないまま、星也は数少ない豚肉を口へ運ぶ。午後はバイト探しになりそうだ。


002


星也は朝に弱いほうだ。出来ることならばお昼近くまで布団にくるまっていたい。それが災いして授業には遅れていったこともあるが、三大欲求のうち睡眠だけは我慢する気が更々ない。


しかし、それは許される範囲内でという意味だ。


授業も単位を取れるようにテストやレポートは奮起する。人との約束があれば、眠い目を擦って服に袖を通す。


それが、バイトの面接ともなれば尚更だ。


ジャケットを羽織る星也の顔は、少しだけ不安そうだった。次のバイト候補は思いの外早く見つかった。たまたま立ち寄ったコンビニにおいてあった求人情報紙に、目を引くものがあったのだ。


『シフト自由。仕事内容、雑務。日給3万円』


破格の内容だ。けれどもそれゆえに危ない臭いを感じる。旨い話は大抵裏がある。まあ、裏がない仕事なんて存在はしないのだが、程度というものは存在する。


情報はこれ以外に書かれていなかった。普通ならば乗らない話だが、3万円に後ろ髪が引かれる。


行くだけは無料ただだ。それにフリーペーパーとは言え、大手の求人情報紙に載っていたのだから大丈夫、と危機感をごまかして、記載されていたメールアドレスに連絡をとった。


『明日、何時でも良いので来るように』


それだけの文面が返って来たのは日を跨ごうかという時間だった。


ますます行きたくなくなる。時間を考えず、たった一言で約束を取り付けるというのは如何なものか。


それでもやはりお金は偉大だ。甘言に乗ってしまっている自覚はありながらも、すぐに了承メールを返して昨日は床についた。


バイトとは言え仕事は仕事。スーツに袖を通して自転車にまたがってもまだ不安はぬぐえないが、土壇場で約束を反古にするわけにはいかない。


幸い、バイト先は近いようだ。自転車で十分通える。遅刻することもないだろう。


夏は朝日も日差しがきつい。こうなるとますます冷房のきいた部屋が恋しくて、朝の出不精が悪化しそうだ。


ペダルを踏むごとに汗が滲む。汗だくで面接に望むのも印象があまり良くないだろう。時間はあるし、どこか喫茶店で時間を潰すのも手だ。


そんなことを思いながら生暖かい風を切る。


寸胴鍋とすれ違った。


思わず二度見して、すぐにブレーキを引く。粗大ごみだろうか。いや、それならば、物珍しさに二度見したとしても、わざわざ止まることはしない。


中に何かいた。動いていた。


それも寸胴鍋にすっぽり入る程の大きさだ。捨て猫の類いじゃないだろう。でなければ、あそこに入っているのは、小さな子供ではないのか。


最近は、外で遊ぶ子供はそう多くない。まあ、寸胴鍋に収まることを外遊びとは言いづらいが、それならばなおさら、違う可能性が脳裏をよぎる。


ネグレクト。


あの寸胴鍋に入ってる子供は可哀想にも心無い親に育児放棄され捨てられてしまったのではないか。


悲観的な憶測ばかりが出てきてしまう。少子化といえど子供の数はごまんといる。変な遊びを面白がる子供もいるだろう。しかし、抜けなくなって困っているとしたら。かき消してもかき消しても次々と最悪のケースが浮かぶ。


様子を見るだけだ。


星也は自転車から降りると覚悟ができないまま寸胴鍋の前に立つ。見間違いであってくれと踏ん切りもつけないまま、中を覗いた。


中には女の子が入っていた。


窮屈そうに膝を抱えて大口を開けてのんきに寝ていた。何とも幸せそうな寝顔だ。


これは心配するような事ではないな。


服装もいたって普通だ。ジーンズ生地のホットパンツにパーカーを着てフードを被っている。汚れてもいないし、むしろおろし立てのように綺麗だ。


一応、声を掛けると、重たそうにまぶたが開いた。


「……お兄ちゃん、食べ物持ってる?」


まともな物は持ってないが、ポケットに入っていたチューインガムを渡す。


「……お兄ちゃん。これから何しに行くの?」


子供というのはどうも突拍子の無いことを聞いてくる。面接といってもわかるまい。星也が、お仕事だよと返すと、女の子はガムを噛みながら続けた。


「朝早いのに、凄いね」


そこまで朝早くはない。もう普通に活動していても良い時間だ。星也も長く寝ていたい質ではあるが。


「そうだよね。私もずーっと寝てたいもん」


そう言って女の子はまたまぶたを閉じた。


え? また寝るのか? いやしかし、この分だと心配する必要は一切無い。警察や児童相談所に連絡をいれては、かえって大事になってしまうだろう。


星也はサドルを跨いだ。気づけばもう良い時間だ。


気にせず面接にむかう。いかにバイトとは言え、遅刻してしまえば、採用はされないだろう。


この結果に、今後の生活もかかっているのだ。気合いをいれて望むべきだ。そう気を引き締めて星也はペダルを踏んだ。


「……お兄ちゃんは助けてくれる?」


踏み込んだ足が止まる。でもすぐに、星也はその場を離れた。女の子の問いかけは耳に届いていたのに、無視して離れた。


自分ができる範疇の事ではない。そう判断して、強めにペダルを回した。


勝手に踏み込んでおいて勝手に離れた。


そんな大した問題じゃない。星也の判断は特別じゃない。お節介で踏み込んで手に終えそうになかったら逃げるやつなんて大勢いる。


人通りの少なくない道なのだから、他の正義感の強い人間が助けてくれる。


そう言い聞かせて逃げるようにペダルをこぐ。


夏の朝日は鋭すぎて、星也の背中を刺していた。


その背中を女の子はだまって眺めていた。でもすぐに、鍋の中に隠れて、満足そうに目を閉じた。


星也は気がつくべきだった。夏の朝。星也でなくても外出をいやがる熱気といえど、人々は生活のなかで外出を避けられない。


住宅街のど真ん中。熱気の中にポツンと寸胴鍋がひとつ。


その違和感に星也は気がつくべきだった。


もう闇は彼の影を捉えていた。


逃げるようにこぎ出して間もなく、星也はバイト先に到着した。雑居ビルを目の前にネクタイを締め直す。


今まで受けた面接と言えば、前回のバイト先の一件だけだ。それも終始和やかに進み、気がつけば熟練のアルバイターになっていた。すぐに馴染めたのも店長の人柄ゆえだろう。


全員が全員、気の良いおじさんじゃないのは承知している。初対面は緊張する。ただそれだけの話だ。


雑居ビルの二階がバイト先らしい。一階は何かの店舗らしいが、暖簾が掛かっていないので何の店なのかわからない。すりガラスから微かに覗く古びた家具は、相当不気味な雰囲気を醸し出している。


ここで引き返すという選択肢は無くはない。もとから怪しげな話だったのだから、危機管理としてここで帰る事を批難する人はそう多くはないだろう。


しかし、すぐにちらつく福沢諭吉3人。


覗くぐらいなら……、自制の効かない心に唆されて、星也は一歩階段に踏み込んだ。


頭上からけたたましい音がした。


星也は階段の上に視線を向けると、すぐに足を引いて飛び退いた。


階段から茶色い大玉が転がり落ちてきたのだ。大玉はかなりの質量で、段差を砕きながら星也に迫ってきた。


星也は潰されたくない一心で後ろへ下がり横に避ける。しかし、大玉が目の前を通過することはなかった。


首をかしげる星也。先程地鳴りをあげるほど勢いで転がってきたはずなのに、今はただの静寂。星也の鼓動の方が煩く感じるほどだ。


恐る恐る階段を見上げる。段にはヒビが入っている。それも明らかに経年劣化によるものではない。何か強い衝撃にあって破片が辺りに散らばっている。大玉が確かに落下してきたことを物語っている。


では、なぜ大玉はこつぜんと姿を消した?


星也はもう一度階段へ足を踏み出す。


危機管理というのは、自然体だから出来ること。怪しいバイトを不安がる猜疑心はあっても、目の前で起きた突拍子の無い出来事は星也の頭を混乱させていた。


大玉は落ちてこない。ならば見間違いか。じゃあ、砕かれた階段をどう説明する。


疑問符が生まれる毎に星也は段を上がっていく。疑問符の解決を後回しにして、勝手に足が進んでいく。


怖いもの見たさではない。得たいの知れない何かに引っ張られていくような感覚だった。


扉の前に立つ。ビルの2階だ。バイト先の扉だ。


黒いスチール性の扉は際立ってきれいだった。まるで、空間的な仕切りの意味だけでなく室内と外とを分断しているようだ。


扉の中は踏み込んだことの無い空間が広がっている。星也にはそう思えた。


手はドアノブへと伸びていく。星也の行動を咎めるものも示唆するものもいない。


彼は彼自信の手で、その扉を開けた。


目の前に広がっていたのは、一般的な事務所の風景だった。壁に並ぶ棚にはファイルが並べられ、端にこじんまりとしたデスクが一つ。来客用なのか、革張りのソファと黒檀の長机がならぶ。一番奥にはひときわ立派なデスクがおいてある。


誰もがイメージするオフィスの風景だ。


奥のデスクの上に立つ女性以外は。


「機が悪かったな、新人」


女性は青く冷たい目で星也を見下ろしていた。


白を基調として青い花模様が咲く着物の上に黒いライダースジャケットを来ていた。ハーフだろうか。欧米人のような顔立ちと煌めく金髪。しかし、着物が似合っていないわけではない。彼女の風貌は見事に調和していた。


女性はロングブーツの踵を二回鳴らした。


「もう少し時間がずれていれば、巻き込まれずに済んだ。寄り道でもしたのか」


時間は指定されていない。遅刻をした訳じゃない。そして、女性が言いたいのはそういうことではないのだろう。


「愚かで向こう見ずの一歩を私は称えよう。呪うんだったら、自分を呪うんだね」


星也の口は動かなかった。呼吸もできなかった。唯一動いているだろう心臓さえも、先程とはうって変わって鳴りを潜めている。


見てしまった。女性の背後。全面ガラス張りの窓の外に浮かんでいる「大玉」を。


鳴り響いたのは叫び声のはずだ。


星也は生まれてはじめてその音を聴いたことがなかった。だから曖昧な言い方で表現する他無い。


耳をつんざく咆哮に星也は思わず尻餅をついてしまう。


次の瞬間、ガラスが砕け散った。粉々に舞う破片がオフィスに降り注ぐ。


その中で女性は笑っていた。


悪魔のような微笑みだった。


「ようこそ。ーーー裏側へ」




良い匂いのする男だった。まどろみの中で少女はそう思う。お腹が減る臭いだ。


「一杯ご飯食べれると良いなー」


寸胴鍋を引きずって、少女は眠たそうに欠伸をかいた。



第一譚 締














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