5話
綴は暗黒層へ降り立った。
降り立ったと言っても、汚泥のような情報の沼に着地しただけで、ここはまだ暗黒層でも浅い場所だ。周囲は広陵のような広々とした大地が広がり、一帯には毒々しい紫の霧が立ち込めている。普通の電子領域と比べると見晴らしが随分と悪い。
この霧はバグのようなもので、暗黒層の遍く場所で揺蕩っている。
綴はソフィアから預かったケリィのアカウントとパスコードを入力する。
轟、と大気が唸った。まるで暗黒層が威嚇しているようだった。
霧が嵐のように渦巻き、空気の流れが大きく変わる。そしていままで目で見えなかった小さな歪みが、この空間の至るところで露わになる。
綴の目的のものは、すぐ傍にあった。最初は極小のヒビだったものが、雷の光跡のように一瞬で広がり、まるで峡谷にも似た歪みへ変わった。
これがケリィの暗黒層でのアカウントの入り口だ。警戒しつつ、綴はさらに潜っていく。
足を踏み入れると、黄昏時も終わりそうな海岸に出た。
様々な情報が対流する海は真っ黒で、水平線の向こうから微かな光があるが、全く薄暗く、足元の浜は腐葉土のような柔らかな土をしている。
情報の海から一部を掬うと、ケリィが極秘裏に購入していた禁止物語が出てきた。それだけじゃない。作者名にケリィ・エンハンスと表示されているものもある。これは、ケリィが違法な物語を売買していた決定的な証拠だ。なにより、ほんの少しこの海を味見しただけで多くの証拠が出てきたのだ。この海を飲み干せば、ケリィの刑罰が一体どれほどのものになるか、綴は少なからず興味がある。
だがいますぐそうしたいのはやまやまだが、一旦物倫から誰か応援を呼ぼう。ショウコがいれば十分ではあるが、まずは物倫でこの情報の海を吸い上げた方がいい。
そう思い、一旦ここから脱出しようとHWを操作していると、
〈誰か、助けて欲しい〉
というメッセージが何者かから送られてきた。
綴は警戒を強めた。暗黒層の最大の利点は、秘匿性が高いことだ。メッセージのやりとりをしても、送り主の情報は自動でエラー表示になり、受け手は全く知ることが出来ない。情報自体も量子通信による暗号化で通信中に盗み見ることも出来ない。だからソフィアは信用に価値を置いている発言をしていた。
だがこの助けを求めるような文章は暗号化されていない、オープンな情報だ。意図を考えてみても思いつかない。こんなものに接触するやつは暗黒層へ踏み入らないし、そんな常識を知らないやつもここには立ち入らない。
だが綴は、この救難信号のようなものに引っ掛かった。なんというか、予感のようなものがあったのだ。
綴はおそるおそるメッセージを送る。〈あんたは誰だ?〉
返信はすぐだった。〈良かった! 繋がった。もう駄目かと思った。どこの誰かは知らないが、助けて欲しい〉
〈まず落ち着け。俺は
数秒ほど経過して、「俺はエドガー。ここがどこなのか分からない。ツェントラールという街とそっくりの景色なんだが、辺りには誰一人として人がいない」
〈あんた、もしかしてエドガー・レイラインか? 『ペインの雨』の作者の?〉
〈なんて俺の作品を知っているんだ?〉
「実は、あんたのことを探していた」
綴はHWでショウコ宛に文章を作り始める。まさかこんな場所でエドガーとやりとりをすることになるとは思わなかった。存在しているのではないかと考えていたが、まさか本当にいるとは思わなかったのだ。
もちろん相手は肉体を持った人間ではなく、どこかの軍用AIかもしれないが、エドガーの名前を語る全くの別人かもしれないが、一先ずこの相手とやりとしをすればなんらかのことが掴めるように思えた。
エドガーからメッセージが送られてくる。〈あんたもしかして、都市警察隊か? それとも物倫か?〉
綴が文章を組み上げる手が止まった。なぜ綴が物倫の人間だと察することが出来たのか。こちらはヘマをしていないはずだ。
いや、違和感の正体は都市警察隊の名前だった。違法な物語の売買は犯罪だ。だから暗黒層なんて場所で流す訳だが、その場合、担当する機関は物倫だ。であれば、都市警察隊の名前が出るのはおかしい。もしエドガーが、とうとう禁止物語の件で捕まると考えた時に思い浮かぶのは、物倫だけのはずだ。だが彼は、物倫より先に都市警察隊の名前を書いた。
もしかして、エドガーは禁止物語以外に、なにかやったのではないか?
綴がどう返事しようか考えていると、エドガーから続けてメッセージが送られてくる。
〈もうこの際、誰でもいい。とにかくここから出して欲しい〉
〈ツェントラールにいるんだな?〉綴が訊く。
〈ツェントラールの第二交差点、あそこを彷徨っているが、ここは本当に現実なのか? 俺とあんたの世界は一緒なのか? 俺は本当に、〉
文章が中途半端な所で切れ、慌てて綴はメッセージを送る。
〈どうかしたか?〉
〈理由は分からないが、さっきから誰かにずっとつけられている。はやく助けて欲しい〉
〈落ち着け。誰につけられているんだ?〉
〈また、死神が鎌を引きずる音が聞こえる〉
エドガーからのメッセージは途絶えた。
〈死神ってなんだ? 誰がお前を追っているんだ?〉
綴はしばらく待つが、やはり応答がない。
〈おいエドガー! なんでもいいから応答しろ!〉
綴は悪態を吐きたくなったが、ふと、エドガーがメッセージを送ってきたということは、彼はHWを持っていることになる。いまのやりとりから彼のIDを割り出して、検索をかけた。
なんと検索結果に引っ掛かった。
ケリィの死体を拝んだ時は、全く駄目だったのにだ。念のためにツェントラールと世界統合政府のデータベースにアクセスしたが、両方に、当たり前のように情報の羅列があった。
綴は訝しんだが、喰いつくように閲覧する。
エドガー・レイラインはAT社と契約する作家で、物語を書くための国家資格取得後、作品を販売。だが数字の伸びが悪く、ここ二年は一つも販売していていない。極度の鬱症状も確認されており、その結果書けなくなり、担当編集だったリリアンにも愛想を尽かされ見放された。今年に入ってから暗黒層へ頻繁に潜っており、物倫も目をつけていた。
こんなこというのもなんだが、エドガーのような境遇の人間はたくさんいる。綴もその中の一人だったから、少し彼に同情した。
これまでのことをまとめ、一先ずショウコに送った。綴はリリアンという担当編集についてさらに調べる。
リリアン・クローネ。彼女は今時珍しい人間の編集者だった。五年前にAT社に入社したらしく、多くの作品に携わっている。その中にも綴が知っている物語がいくつかあり、彼女が有能だということが想像できた。そして今年、突如姿を消した。
姿を消した?
綴の頭の中で、なにか嵌る音がした。
ケリィは存在しないが、確かにいる。彼は作家で、暗黒層で出入りしていた。理由は分からない。でも、彼は助けを求めていて、ツェントラールにいるらしい。だがそれだけでは、エドガーとケリィという二人に繋がりはない。
綴はリリアンの情報の中に、彼女がケリィの副担当編集だというのを見つけ、点と点が線で繋がる。なにより、リリアンは消えた。もしこれが無関係でないと仮定したら、ある可能性に行き当たる。
ケリィは、エドガーを食ったのではないか?
綴は周囲が明るくなっていることに気づき、我に返る。
先ほどまで仄暗い電子領域にいたというのに、いま綴がいるのは、高層ビルが立ち並ぶ街道だ。あちこちの立体ディプレイが作家たちの新作動画を流している。ここはツェントラールだ、間違いない。
なんの予兆もなかった。まるで最初からこの場所に立っているかのように。
〈ショウコ、そちらで異変はないか?〉
綴はすかさずショウコの安否を確認するが、しばらく待つも、一向に返信はこない。
「くそっ」綴は悪態を吐いた。自分の間抜けさに苛立っている。「今回は駄目かもしれんな……」
いまなにが起きているのか、状況を把握するのが遅すぎた。
綴はケリィに呑み込まれた。
創成因子が情報を咀嚼するように、物語も人間を食らう。
つまり、ケリィは虚構存在なのだ。
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