3話
綴たちが車を止めたのは、聖堂近くの空き地だった。
あれからAT社を出て、ツェントラールから水底トンネルを抜け、スラムの入り組んだ道を突っ切った。ショウコの限りなくグレーな荒々しい運転のおかげで、一時間もしない内に聖堂周辺に到着したが、その代償として幾度となく吐き気を堪えることになったのだ。
空き地からトンネルを潜ると、広大な広間に出る。眼前にはゴシック調の聖堂が沈黙していて、ツェントラールの大型建造物にも負けない大きさをしている。
石畳の路地をショウコと並んで歩くと、聖堂の電子領域境界線を越えたらしく、身分証の提示を要求された。一応、世界統合政府及び物倫から配布されている擬装身分証を提示したが、おそらく綴たちの正体は勘付かれたかもしれない。なにせここは電子要塞だ。偽装など見透かして、本物のアカウントまで特定してくるだろう。
この聖堂は表向き宗教の礼拝施設だが、この建物の周辺や地下は、世界統合政府の頭を悩ませる反政府組織の根城となっている。そのため、中枢部分のセキュリティは強固で、安易なクラッキングや聖堂の奥へ足を踏み入れると、生きて帰れないだろう。
だからこそ、そういう場所に綴が求めていたものがあるのだ。暗黒層へと潜るための、ポータルが。
綴とショウコは聖堂の中へ入り、中央の通路を進んでいく。歩き回る者はいなかったが、両側の椅子で祈祷している者はそれなりにいた。
聖堂内部は薄暗いが、微量の光が多彩なガラス越しに虹を投射して、静謐で、どこか神秘的な雰囲気を醸していた。テクノロジーの発展で神秘性が失われつつある現代では、とても希少で、どこか奇妙な光景だった。ほんの数百年まえまでは当たり前だったのだ。ショウコはその光景に興味津々で、周囲を警戒しながらで綴は気を抜けなかったが、それでも彼女がなにか感じるものがあれば嬉しいと思った。
綴たちが歩く先に、神父が待ち構えていた。皺の濃い中年期くらいの男性で、柔和な笑みを浮かべているが、綴から見ればかなりこちらを警戒して、監視していた。場合によっては直接殺す、といった殺意すら瞳に籠っている。どうやら望み薄らしい。
こうなると回りくどいことは悪手だ。こちらから切り込みにいくべきだ。
「すいません、ソフィア氏はおられますか?」綴が言う。
一瞬、動揺からか間があり、「ソフィアさんに、どういったご用件でしょうか?」
「彼女にお話したいことがありまして」
「ふむふむ、私たちには話せない内容ですか」男は自分の頬を撫で、「大変申し訳ございません、本日ソフィアさんは不在でした」
ショウコが舌打ちした。「よくも言ったわね。私に嘘が通ると思わない方がいいわ」
神父は瞬きをして、「と言われましても、いない者を出せと言われもどうしようもなくて」神父は困った表情を浮かべる。
「こいつ――」ショウコがいまにもとびかかろうとして、
綴が慌てて抑えかかる。「またまて、落ち着けショウコ」一先ず宥めた後、神父に向き直り、続ける。「であれば、また出直すことにしましょう」
綴たちは神父に背を向け、出口へと向かう。HWでショウコからメッセージが送られてきた。
〈あんた、なぜこんな場所に来たのよ?〉
〈ここには、ソフィアという暗黒層の管理人がいるんだ。だから暗黒層へ直行出来るポータルもあるし、なによりケリィが本当に暗黒層で禁止物語の売買をしていたのであれば、専用のアカウントがあるはずだ。それを尋ね、もし存在するなら潜る〉
〈その顔は……ふーん、女ねぇ〉ショウコは舌打ちをした。
〈なんでそんな気持ち悪そうな顔になるんだ? もしかして女性アレルギーか?〉
〈女性アレルギー? 誰が? もしかして私のことを言っているの?〉
綴は頷くと、ショウコが見た目よりも三十歳老けたようなため息を吐いた。綴はその反応に首を傾げる。
〈話を戻すが、いまさっきツィーリエに事後報告をすると教えてくれた。機嫌が良かったらなんでも快く頷いてくれるらしいが、機嫌が悪いと殺されるらしい〉
〈もうその女の話はいいわよ。別に私はどうでもいいんですけどね。いや本当に〉ショウコの顔は苛立っていた。綴はその理由を察して、少しだけ申し訳ない気分になった。〈あとその管理者さんは、機嫌悪いみたいよ。あんた、さっきの数分間に三度も死にかけた〉
ショウコが視線を、椅子で祈祷する数人に向ける。
おそらく先ほどの時間に、数人がすぐハックをかけられるよう、綴の攻性防壁の前で待機していたのだ。獲物を狩るために、じっと息を殺す捕食者のように。だがショウコが言った、嘘が吐けないという言葉を聞いて、あの神父はショウコが虚構存在ではないかと勘付いた。もしここで手を出せば、綴を消すことは出来るかもしれないが、虚構存在に皆殺しにされる。そうなると戦争になって、神父側からすると、あまりいい展開にはならない。だからショウコはああいう言動をしたし、おかげで綴も水面下を知り引き返す選択をとった。
〈ありがとう、ショウコ〉綴はショウコの肩を軽く叩いた。〈また命を救われた〉
〈だから、私は本当にどうでもいいんですけど。ただあんたの体は重いから、引き摺って帰るのが面倒だっただけで〉ショウコは鼻を鳴らして、顔を逸らした。
「了解しました。少々お待ちください」HWで誰かとやりとりをしていた神父が、一度は見送った綴たちの姿を見つけると、声をかけてきた。「すいません、一(にのまえ)さんはどちらですか?」
「俺ですけど」足を止めた綴がそう言い返す。
「ついてきてください」神父は聖堂奥にある、小さな扉に身体を向ける。「ソフィアさんがお会いしたいそうで」
神父に連れられ、聖堂地下を薄暗い通路を進んでいく。
正直、綴には俄かに信じられなかった。秘匿されているであろう領域に、綴たちを招くことを。考えられることは、綴たちを最深部まで引きずり込んで、ショウコ諸共消すことだが、折角諦めて帰ろうとしていたのを辞めさせ、おそらく多大な被害が出る方法をとるのはあまり合理的ではない。
〈どう思う、ショウコ〉綴はつい聞いてみた。〈罠じゃないかと思うんだが〉
前を歩く神父がついてくるよう言ってきた時に、疑心を抱いて拒否しようとしたが、それを言葉にするより先に、「じゃあそうしましょう。最初からそうしてればいいのよ」とショウコが悪態を吐いたのだ。
〈あの男は確かに、あんたを連れてくるよう命令されていた。それに、この神父も文章では言い返したけど、押し切られたみたい。もしかしたら、その相手がソフィアとかいう奴かもしれない〉ショウコはいつのも増して不機嫌そうだった。だがこれは警戒しているのではなくて、単純になにか気に入らないものがあるだけなのだ。綴にはよく分からないが、彼女も複雑なことを考える年頃なのだろう。
神父が足を止め、傍にある扉を開けると、綴たちへ中に入るよう促してきた。
中は小さな待合室で、さらに長い通路が続いている。綴はショウコを連れ、さらに進もうとすると、神父から声がかかった。
「ここから先は一さんのみでお願いします」
ショウコが眉を顰める。「なに意味不明なこと言ってんのよ?」
「ソフィアさんからは、一さんのみでと言われています。どうか、何卒」
いまにも神父の顔面を殴ろうとするショウコを制して、綴は口を開く。「ショウコはここで待っといてくれ」
「……あんた、分かっているの?」ショウコがじっと綴の眼を見つめた。
地雷原をなんの手がかりも無しに歩くようなものだ、そうショウコは言っているのだ。彼女がいなければ、綴など一般人とそれほど変わらない。禁止物語を脳へ流し込まれるか、情報兵器を使われれば、死んだことにすら気付かないまま逝ってしまうだろう。だがソフィアと会うためにそれしかないなら仕方がない。暗黒層へ潜り、ケリィについて、そしてエドガーについて調べなければならないのだ。
「大丈夫、終わったらまた帰ってくるさ」綴は微笑む。
そう言って、綴は一人で通路を進んでいった。
突き当りを左に曲がると、すぐの所に扉があり、近づくとひとりでに開いた。おそらく中から自動で開けたのだろうが、誘われているようで不気味だった。
内装は石造りの牢屋に似ていて、生臭さと鉄っぽさが混ざったとても嫌な臭いで充満していた。大量の電子計算機が唸るような音を出して駆動しており、巨大なコンソールのランプが点滅している。
鈍い音が連続で続き、綴はその音の方へ向かうと、そこには無塵服の人間が、拘束台にくくられている――いまはもう肉塊になった――男を、先端が握りこぶしはあるハンマーで殴っていた。
「なにをしているんだ!」綴が怒鳴る。
「ようやく来たようだ。全く、遅いんだからさぁ」最初はくぐもってあまり聞こえなかったが、無塵服はこちらを向くと帽子をとった。亜麻色の髪が舞う。翡翠色の瞳は、まるで真贋でも見定めるかのような視線を綴に注いでいた。「ふーん、君がかぁ」
「あなたが、ソフィア?」綴は恐る恐る尋ねた。
「そうそう」ソフィアは朗らかにほほ笑む。「一度、君とは話がしたかったんだよ」
「あなたはいまなにをしているんだ?」綴は血の滴るハンマーを指さす。
ソフィアはそれを目線の高さまで、綴が差し占めているものをようやく理解する。「あぁ、これか。こいつ、ちょっと悪い奴でね。拷問の依頼が来ていたんだよ。生まれてきたことを後悔するように、殺せって」
「よくもそんな惨いことを……」綴は顔を顰める。
「まあこいつがやったことと比べれば、僕のほうがまだ人道的さ」ソフィアは無塵服を脱ぎだすと、綴の傍を通り、物が乱雑に置かれているデスクの椅子に腰かける。ソフィアは笑顔のままだ。「それとも僕のことを捕まえるかい? 物倫ツェントラール支部の特殊機動零課の一綴くん?」
どうやら自己紹介する手間が省けたようだ。
「あなたに頼みがあって来た」
「僕に一体なにをさせるつもりだい?」ソフィアは自分のデスク上の書類をまとめ始める。
「暗黒層の、あるアカウントの電子領域へ潜りたい」
ソフィアは作業の手を止める。「おっと、いくら物倫の頼みでも、僕は暗黒層の管理人なんだ。信用こそ一番大切なもので、おいそれと他人に教えない。ましてや電子領域を無断で譲渡するなんて、もってのほかだ。少し考えたら分かることだろ?」
「俺が潜りたい相手の名前は、ケリィ・エンハンスだ」
「昨日、ニュースになっていたね。でもそれがどうした? 死人だからって、簡単に電子領域は渡さないぜ」
「なら、ここであんたを拘束して物倫まで連行する」
「あははははっ」ソフィアはけたけた笑い始める。「綴君、もっと物事考えてから話しなよ。ここは僕の要塞なんだ。君程度じゃ、三秒も持たないよ」
「そんなこと関係ない」綴は本気だった。じっとソフィアのことを睨みつける。「あんたがケリィの電子領域を開示しなければ、俺はいますぐあんたと戦う」
ソフィアは笑いを急に止めると、ため息を吐いた。「なんでそうなるかねぇ、あの子とそっくりだ」
「どういうことだ?」
「まあいい。別に私も、ケリィ・エンハンスのアカウントを絶対に渡さないとは言っていない。条件がある」
「条件? 早く教えてくれ」予想外の返答に綴は前のめりになる。
ソフィアは手で制して、「そうがっつくな。あの娘と寝る時も、そんながつがつしているのかい?」
「そんなことよりも――」
ソフィアが腹を抱えて笑う「まーだ手を出してないの!? そりゃあ、あの娘もあんな風になるってものね」少し笑いをこらえ、「それとも、なにか理由があるのかい?」
そこでソフィアの目的を理解した。「あんた、まさかショウコが欲しいとか言うんじゃないだろうな?」
「よく分かったねぇ。虚構存在なんて、そうそうお目にかかるものじゃない」ソフィアは立体モニターを表示する。そこには廊下の壁に背中を預け、じっとしているショウコがいた。「あの子を一晩貸してくれるなら、君の要求を呑まないこともない」
「話にならない」綴は全身から霧のように噴き出る殺意を抑え、「あんたこそ、もっと物事を考えてから話した方がいいんじゃないか?」
「あははははっ」ソフィアはまたもけたけた笑い始める。
彼女の笑い声はしばらく続いた。最初は癇に障ると苛立ちがあったが、十秒が過ぎると逆に冷静になり、二十秒過ぎた頃には心配になってきた。
「なにがおかしんだ。こっちは大真面目だぞ」
「いや、これが笑わずにいられるものか」ソフィアの表情は笑顔のままだが、目は全く笑っていない。「まあいいや。僕も持て余していた問題だ、丁度いい」
すると、ソフィアからメッセージが届き、それにケリィのアカウントとパスコードが添付されていた。いきなりのことで綴は頭が追い付いていない。
「どういうことだ?」
ソフィアは立ち上がると、傍のコンソールを指さして、「それ使っていいよ。暗黒層へ繋がっている」
「なんでいきなり貸してくれるようになったんだ?」
「理由なんてないよ」ソフィアはどこか嬉しそうに微笑む。「実は今日、僕の機嫌が最高に良くてね」
綴は促されるままに、コンソールに腰かけ、体重を預ける。
ソフィアが傍まで歩いてくると、綴の顔を覗き込み、「最後に聞くよ。本当にいいんだね?」
「いまさら駄目だって言われても聞かないぞ」綴が訊く。
ソフィアは首を振った。「違う、そうじゃない」数秒沈黙して、「君はこちら側の人間だ。私と同じ眼をしている。憎悪に囚われた、救い難い人間の眼を」
「どういうことだ?」
綴が尋ねると、ソフィアはどこか憂いるような面持ちになった。「君は、あの子を連れてどこかで暮らせ。いまのところ、沼に沈んでいる君を、あの子が引きずり上げている状態だが、この先どうなるかわからないよ」
「こっちは、あんたがなんの話をしているのか分からない」
「なんでもない、どうでもいい話だ」ソフィアは自嘲気に微笑むと、「人生儘ならないものだ」もう一度首を振り、「さて、君は暗黒層に潜った経験は?」
「何度かある」
「それは結構。であれば、ようこそ暗黒層へ。ここは秩序なんて概念のない、混沌とした電脳空間だ。いままでの常識をゴミ箱に捨ててだな、精々、轢き逃げに遭わぬよう祈っておきなよ」
綴は頷くと、HWをコンソールに接続する。両目を閉じて、没入を開始した。
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