2話

 かつて、橘章子という作家がいた。

 彼女はケリィにも勝るとも劣らない筆力の持ち主で、綴は橘章子という作家以上の才能にはいまだ出会っていない。

 執筆の速度が特別早かった訳ではない。

 目を見張るような題材を次々と書いていた訳でもない。

 彼女の凄まじさは、そういったの話ではないのだ。

 これは食べた人間にしか分からないが、熟慮された文章はいまにも産声を上げそう で、綿密に編まれた構成は常に脈動していた。

 そう、章子の物語は紛れもなく生きていた。それはいまもショウコが証明し続けている。


「いつか、私を満たしてくれる物語を食べてみたいわ」

 章子は口癖のように、いつもそう言っていた。だから綴はいつもこう返している。

「いつか、俺が生み出してみるさ」冗談めかしながらも、本心を。「章子がびっくりするような物語を」

 あれは、穏やかな昼頃だった気がする。何年も昔、まだ綴がAT社と契約する売れない作家時代に、橘章子と交流があった。

 彼女の正確な年齢は知らない。白いワンピースが似合う十代の少女で、髪は色素が薄かったが、艶やかで、とても甘い匂いがした。常に余裕を漂わせ、微笑を浮かべており、透き通った彼女の瞳は、見ていると気が付けば身を投げてしまいそうなほど美しかった。

 綴とは生まれも育ちも違うような人だった。とはいえ、近い歳の知り合いがいない綴としては貴重な友人だ。身なりなどいくら融通が利く現代とはいえだ。

 昼前に目を覚ましては、毎日のように章子の自宅へ足を運んだ。いつもは広大な庭園へ案内されると、値段を訊くのが怖いような紅茶をごちそうされ、他愛のない話をする。その時間が、とても心地よかった。

「綴は私を驚かしてくれるのね」章子は控えめに笑い声を漏らす。

「言っといてなんだが、恥ずかしい」自嘲げに綴は言う。

 こうして章子と話しているだけでも、傍から見れば奇妙な光景だと思えて、死にたくなってくる。ただただ彼女の存在が眩しかったのだ。

「ごめんんさい、そういう意味ではないの」章子は紅茶を一度啜り、穏やかな口調で続ける。「いやちょっと可笑しくて」

 つまりそういう意味じゃないか。綴は内心で不貞腐れてしまう。

「そう怒らないで頂戴」章子は綴の空のカップを見て、「紅茶のおかわりでもいかが?」

「いや、そろそろ御暇するよ」庭園の緑に夕焼けが重なり始め、綴は席から立ち上がった。見送ろうとする章子を綴は手で制する。「章子の世話にはならないさ」

 そう言うと、彼女はいつも不満そうに、微かに頬を膨らませて反抗の意思を示す。だが綴も譲らない。なにせ彼女は、生まれながらにして下半身の末梢神経障害で、不自由な生活を余儀なくされていたからだ。

「どうしたの、綴?」章子は不思議そうに首を傾げていた。

 気が付けば、章子をじっと見つめていた。どうして彼女が、綴を気に掛けるのか理由を問いただしたかった。綴にしかメリットがない。

 だがその言葉を飲み込む。自己嫌悪ではない。ただ予感があった。綴が問うと、彼女はそれに返答して、その言葉はこのつかみどころのない靄を一瞬にして晴らしてしまうような確かな予感があった。

 言葉を重ねて言い訳じみたことを言っているが、正直なところ、なにか変わることを恐れていたのだ。だが章子は綴の瞳をじっと覗き込んでいて、こちらがなにを言いたいか、十二分に理解している様子だった。

 いま思えば、理由だけ聞いておけば良かったと後悔している。なにせこの日が、最後の機会だったから。

 後日、橘章子の封印作家措置が報道された。

 物倫の公式発表では、物語情報の違法改竄。つまり人を殺せる違法物語を作成したことによる、半永久的な物語作成権の凍結である。

 だが橘章子と親しい綴なら分かる。彼女はそんなことをしない。いつも、自分の限界を弁え他者を尊敬していた人格者で、誰かの幸せを願っていた女性だ。

 すぐさま章子の元へ駆けつけたが、彼女は完全に引きこもり、綴は拒絶された。ある程度予想出来たのと、一番苦しんでいるのが彼女だと思えば、どうということなかった。

 だが、家の外からでも聞こえる、狂ったような嗄れた声を耳にして、綴は思わず脱力してしまった。冷静に思い返しても、あれから半日は立ち上がれなかったように思える。

 そしてとうとう、あの日を迎える。

 視界一面が真っ赤だった。あの緑が生い茂り、手入れがとても行き届いていた花も芝も、全てが灰となっていた。

 後から聞いた話だと、章子が自ら自宅に火を放ったらしい。つまり自殺だ。

 その光景を見た瞬間、綴は反射的に章子の家へ突入していた。

 建物内の部屋も廊下も、赤、朱、紅が、のたうつように蠢き、壁や家具、足元に散乱するごみ屑を燃料に、勢いを増していく。空気すら灼きつき、綴の肺は熱で爛れそうだった。

 いまにも焼け落ちそうな十五畳の部屋に、彼女はいた――赤く爛れ腐った亡骸となって。最初、車椅子に座る瓦礫かなにかかと思った。が、車いすの周辺に、電子補助計算機で彼女の電子領域が展開されており、なにより章子と名前が入った作品が残されていたのが決め手となった。

 彼女の甘い香りは全くしなかった。それどころか、食欲を掻き立てるような最高に香ばしい臭いがして、脳裏に章子の微笑が過った瞬間、火に包まれていることなど忘れて長い間嘔吐えずき続けた。

 赦さない。AT社を、物倫を。

 AT社は庇うどころか切り捨てた。

 物倫は言いがかりで章子を追い詰めた。

 人々は沸くだけで、なにか行動を起こすことはおろか、事件が終わるとすぐに忘れた。

 彼女は世界に殺されたのだ。赦さない。全てを 。


「おい起きろ、クソ野郎」

 誰かの舌打ちが聞こえ、綴は車の助手席で目を覚ました。

 倒されていたシートから体を起こすと、運転席で胡坐をかくショウコと目が合った。いつもと同じ不機嫌そうな、でも力強い眼差しを見て安心する。

 前方のフロントガラスにはコンクリートの景色が一面に広がっており、そこでようやくAT社の地下駐車場に到着したことに気づいた。

 綴はAT社が苦手だった。この場所に足を運ぶと、いつも章子のことを思い出す。

 不意に、ショウコの姿に彼女の影が重なった。外見は明らかに似ていない。だが、さすが彼女の娘というだけはある。眼が一緒だ。

 ショウコは物語から生まれた意識――虚構存在 。

 その原理を、理屈を、綴は全く理解できていない。

 事実、そんなもの知らなくても彼女と一緒にいることが出来る。

 綴が知っていることは三つ。一つは、彼女には意識があり、その発生源は橘章子の無題の遺作であること。二つは、ショウコ自身は電脳を触媒に偏在しており、電子領域を持つ全ての人間の認識に割り込むことが出来ること。三つ目は、彼女は綴たち人間同様、現実に存在しており、情報を食べて生きている。

 ツィーリエは、ショウコを仮想現実みたいなものだと言っていた。だが仮想現実との一番の違いは、現実感を与える虚構ではなく、虚構自体が意思を持ち、人間の認識に干渉して、現実の側を歪めるという所だ。

「なによ? じっと見ないで頂戴、気持ち悪い」

「そろそろ行こうか」綴は助手席の扉を開け、車外へ出る。「アポイトメントは既にとったとツィーリエから聞いている」

「はいはい」ショウコも気怠さを漏らしながら付いてくる。

 地下駐車場からエレベーターに乗り、地上へ出ると、視界一杯に巨大な建造物が聳えていた。AT社の建物は全体的にスレンダーな形状をしており、下の三分の一辺りが腰のように括れ、そこから上にかけて徐々に捻りが加えられている。地上から伸びる数多の極太の特殊ワイヤーが、頂点から等間隔に取り付けられている。

 必要は発明の母、そんな言葉があるけど、人間同士の争い――私は好きよ?

 章子はAT社についてよく話してくれていた。

 世界最大の物語供給企業、それがATアルターテイルインダストリー。

 数十年前に起きた大戦以前から、人類は深刻な食糧危機を抱えていたが、実際に大戦へと突入するとトドメを刺され、人類は元の生活に戻ることが出来なくなったそうだ。

 それから数年は、人類は自滅の一途を辿っていたが、情報戦で生まれたテクノロジーを応用して、情報をエネルギー及び栄養へ変換する、マイクロマシン『創生因子』がDr.マキシミリアンによって生み出される。

 情報戦での勝敗が結果に直結していた当時、凄まじい勢いで発展していたのがAT社の前身であり、世界に根を張る情報売買企業だった。そんな時、創生因子に可能性を感じていたAT社は、マキシミリアンを取り込み、数多の発展を遂げ、人を水と情報のみで生命活動を維持できるように変えた。

 一瞬だけ、ショウコへ目を配らせる。

 彼女は虚構存在だ。奇跡のような確率でしか生まれない存在で、そんな貴重な実験体をAT社の情報研究部署――通称虚構研が欲しがらない理由がない。物倫に所属する間はツィーリエがどうにか守ってくれるだろうが、綴としてはショウコの身が心配でならない。

「なによ、横にいるのが私じゃ不満なわけ?」

 綴の感情を読み取ったらしく、ショウコは口を尖らせた。

「やっぱり俺一人で行くから、ショウコは車に戻ってくれ」

「いちいちうるさいわね。私が付いていくって言ったら、そうなるのよ」

 ショウコの機嫌が悪くなる前に、綴は仕方なく頷いた。

 AT社のビル内に入ると、物倫の軍服は視線を集めたが、事前にアポイトメントしていたせいか、誰もがケリィの死を知っているせいか、名前を名乗っただけで建物の四十階へ案内された。

 四十階から上へ数フロアは編集部であり、その半分以上の場所を、作家を補助する編集補助特化AIの機器が置かれている。といってもスレーブばかりで、マスタは地下最深部にあるとの噂だ。これも章子から教えられた。

 応接間でケリィの担当編集を待つことになり、綴は窓から街の景色を見ていると、ショウコが口を開いた。「ねえあんた、嫌なら帰りなさいよ」普段以上に険しい顔だった。

「一体どうした、なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」訳が分からず、いつもなら聞き流していることを、綴は尋ねた。

「あんた、最低な顔しているわよ」ショウコはそう吐き捨て、出されているお茶を一気に飲み干した。「ツィーリエにも一発ぶん殴らないと気が済まないわ」

 それから待つこともなく、青年が姿を現した。茶髪は台風が過ぎ去った後のように荒れはて、薄いシャツの上に白衣を羽織っているが、葉脈のように皺が行き渡っている。そのうえ、靴下でサンダルを履いている、なんともあべこべな格好をしていた。

「こんなぁ、朝早くからお疲れさまです。三好ケ丘みよしがおか玄幸げんこうと申しぁす」

 なんとも気の抜けた返事で、この風貌に、この対応をされれば、普通の人間だとあまりいい顔をしないかもしれない。だが綴はそんな当たり前の感想を持つより先に、肝が冷え切っていた。

「おっと、この部屋暑いですね。冷房強めましょうかぁ」玄幸は自分のHWを操作して、空調を強めた。

「どうも」綴はそう捻りだすので精一杯だった。

 このひょうきんな佇まいは、もちろん仮面だろうが、普通に装っているだけであれば、目や些細な特徴から、相手の底がどれくらいの深さが覗けるが、玄幸という男はこちらに情報を全く与えてくれない。正直、圧倒されている。

「あんたが、ケリィ・エンハンスを担当する編集者?」ショウコが訊く。

「はて、担当編集ですか?」玄幸は首を捻る。「彼の作品の編集作業を行っているのは、編集補助特化AIですねぇ。私は少しばかりそれの管理をしているだけのただの一社員なんですよぉ」

 綴は困惑した。「あれ、ケリィ・エンハンスには人間の編集者がついていたはず」

 玄幸は少し考え込むが、答えは変わらない。「はて、私の記憶違いで無ければ、ケリィ先生には、ここ最近はおろか、過去にも人の編集者がついた記録はないですよぉ」

 そんな訳あるか。綴はその言葉を飲み込んだ。

 綴は元々AT社の作家で、ケリィとは知り合いだ。だがその時に彼は美人の女性編集者を連れていたし、看板ということもあって副編集者も多く侍らしていた。当時の綴の担当編集がその女性編集者に好意を抱いていて、話を聞いたことも覚えている。

 いや、待て。本当にそうだったのだろうか。綴が見た女性編集者は、編集者であってケリィと友人なり恋人なりの関係だったのではないだろうか。一度疑問を持つと、自分の記憶が急に信用できなくなって、暗鬱とした感情が頭の中をぐるぐると回る。

「それで?」しばらく黙り込んでしまった綴に変わりショウコが話し始める。「こっちは編集者連れてこいって言ったの。で、あんたなに? なにが出来るの?」

 完全に話がかみ合っていないクレーマーの主張だったが、ショウコにとっては威嚇のようなもので、ここまで癇癪を口にするということは、綴と同様に警戒しているのだろう。

「これは困りましたぁ。どうしたらいいですかねぇ?」玄幸は綴へ視線を配らせた。

 どうせ全て分かっている癖に。「まあいつものことなんで、スルーしてもらって構わないです」

「勝手に私を仲間外れにするんじゃないわよ!」ショウコが玄幸を指さす。「私、あんた嫌いだわ」

「残念ですねぇ」玄幸の眼が一瞬光る。「私は好きですよぉ、あなたのこと」

「あんた……っ」ショウコが腰を浮かせた。

「おい落ち着け、ショウコ」

 綴はショウコを宥める。玄幸はそれを笑顔で見守っていた。

 困った。最も尋ねたかったことが、訊けなくなった。

 ケリィに近しい人間と言えば、編集者だと思っていたから、そんなものは存在しないと言われるとなにか変な感じだった。

 だが公式の記録としてケリィの編集者は人では無かったし、それを管理する仕事に玄幸が携わっているというのであれば、本当なのだろう。否定する根拠も、証拠も、こちらにはない。

 全く成果が得られなかったが、これ以上、この男に尋ねても、簡単になにか漏らすとも思えなかった。

「ショウコ、そろそろ帰るぞ」悔しいのか綴の皮膚に爪を食い込ませるショウコの腕を掴み、立ち上がる。

 一瞬なにか言おうとしたが、それを飲み込んだショウコは答えた。「分かったわよ……」

 立ち上がった綴たちは部屋から出ようとしたが、その時に聞くことがもう一つあったことを思い出した。

「エドガー・レイラインという人間を知っていますか?」綴が問う。

「エドガー、レイラインですか?」玄幸の表情になんの変化も起きない。「存じませんね……一体誰なんですかねぇ?」

「ケリィが自殺に使った禁止物語、それを作った作家です」

 玄幸はこころなしか微笑している。「私なんかが、現存する作家全員の名前を把握するなんて不可能ですよ」

「エドガーのことはまあいいです。問題はそれをどこで買ったかです。禁止物語を購入できる場所と言えば、電脳の最深部――暗黒層くらいのものです」

「それは初めて聞きましたぁ。なにか証拠があがっているんですか」

 しらじらしいと内心でため息を吐く。「それはまあ置いておいて」

「といいますと?」玄幸はどうせ分かっている癖に、頑なに自分から喋らない。

「暗黒層に立ち入ることが、そもそも違法ですけど、もし購入しただけでなかったら? もしケリィが暗黒街で物語を売っていたらどうです?」

 昨晩、この可能性について考えていたのだ。

 いまだに、綴はケリィの仮面のヒビから一瞬垣間見えた、強烈な深々とした黒の瞳が忘れられなかった。いま思えばあの時から、綴はケリィを警戒していたのだ。

「どうでしょうねぇ」玄幸は笑顔も、気怠そうな声音を崩さない。「監視していたAIたちは異常を訴えていませんから、私からはなんとも」

 結局、綴の問いは玄幸にはぐらかされて終わった。

 AT社を出た二人は駐車場へ向かい、車を取りにいった。綴はいまだ、ケリィに人の編集がついていないという事実に困惑している。

 一方のショウコは車付近にたどり着くと、足を上げコンクリートの固い壁を思い切り蹴っていた。よほど、あの玄幸という男が気に入らなかったらしい。「あいつ、心底気に入らないわ!」

 綴は車に乗り込んで次の目的地を調べていると、ショウコが勢いよく運転席に乗り込み、エンジンをかけた。視線を綴へ向けてくる。

「どうした?」綴が訊く。

「気づいてないようだから言っておくけど、あいつ、編集者でもなんでもないわよ」ショウコは吐き捨てた。

「じゃあ一体誰だ?」綴は聞いた。

「玄幸とかいう文字列にどこかで見覚えあると思ったら、あの男、世界統合政府の要注意人物一覧に記載しているわ。AT社の部署統括顧問で、大戦を終結させた要因の一つにあげられる、あのアズリエルの現管理者よ」

「かなりの重役じゃないか。なぜそんな奴が、一介の捜査員である俺たちの対応をするんだ? しかも編集者じゃないのに」

「そんなの私がいるからに決まっているじゃない」ショウコは自信満々に続ける。「この私の対応が下っ端なんてありえないわ」

「はいはい」綴はショウコの言葉を流す。

 つまりショウコは、虚構存在として生活している自分を確認するために、あの男がわざわざ出向いたのだろうと言っているのだ。それについては綴も同感だが、本当にそれだけなのだろうか。

「で、次はどこに行くの?」ショウコがハンドルに手を置き、尋ねてきた。

「ツェントラールから出よう。これから暗黒層へ潜る」

「はぁ? ツィーリエに申請して物倫の使えばいいじゃない」

「ああいう手続きが必要なものは、実際に使えるまで時間がかかるんだよ。暗黒層は特にな」

「だからって違法ポータル使う気?」ショウコは心底呆れている様子だった。「物倫は一応正義の味方なんですけど?」

「ショウコも知っているだろ、俺が一時暗黒層に潜っていたこと。だから心当りがあるんだ」綴は笑みを溢す。「お前も変なところで真面目だなぁ」

「うっさいわね! 次そんなこと口にしたら、ほんっとに殺すから!」

 怒鳴るショウコは綴を殴ると、アクセルを強く踏み込み、広い駐車場にポツンと置かれていた車は急発進する。綴は正直、彼女の運転が苦手だった。荒々しい運転でいつも三半規管を責め立ててくるのだ。運転機能を持つ特化AIに任せていればいいのに、と内心でため息を吐いた。

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