1話

 最上階へと上昇するエレベーターは分速約五〇〇メートルに達しようとしていた。

 特殊ガラスから見えるツェントラールの景色は、普段より明かりが穏やかで、汚い化粧のようなけばけばしさがない。どこか物静かで、もしかしたら、人々、いや、この街全体があの男を弔おうとしているのかもしれない。

 にのまえつづりは到着までの残り時間、二度と会えなくなった天才作家に思いを馳せていた。

 ケリィと最初に会ったのは、綴がまだAT社と契約して作家をしていた頃だ。よくあの男は、自分の部屋に同業者を集めてはパーティーを催していた。

 それに呼ばれ、一度だけ、ほんの数分やりとりをしたのだが、ケリィの言葉は一つ一つに知性が滲み出ており、会って話すだけで自分が猿のように思えて仕方なかった。

 いまよりも随分と自尊心が高かった当時も、これは敵わないと思い知らされたものだ。その絶望的な憂鬱がいまでも色濃く綴の中に残っている。それが最後の出会いだった。

 それ以降、何度か声をかけられたが理由をつけて断っていた。なぜなら、ケリィは作家たちと話すとき、時折、まるで深淵のような黒々暗々とした瞳をしていたのだ。その場にいる人間は、彼の才能という光に目が眩んでいる様子だったが、綴は目を細めそれに気づいた瞬間、生きた心地がしなかったのを覚えている。

 エレベーターが徐々に勢いを殺して静止すると、ゆっくりと扉が開いた。

 扉の先は、展望台が広がっている。既にフロア内では同僚――黒い軍服姿の捜査員たちが動き回っており、遺品を押収している者や、トレンチ姿の都市警察隊の人間から引き継ぎをしていた。数人が綴へ目配せしたが、全員がご愁傷さまだといった表情をする。おおよそ想像がついて、ケリィの亡骸と対面するのが少しだけ億劫になった。ケリィが原因ではない。彼女が待ち構えているはずだからだ。

 リビングを突っ切ると、広々としたケリィの作業部屋に二つの人影があった。一つはケリィの亡骸。もう一つは、ポケットに手を突っ込む軍服の少女だ。

「なにか言うことがあるんじゃない?」

少女が苛立ちを隠さずに訊いてきた。白みがかった銀髪に、肌は白く、睫毛長い。両目は威圧的で、目元が険しく、不機嫌さが手に取る様に分かる。綺麗なピンク唇を噛んでおり、何人も近寄らせない力強さが彼女にはあった。

「言うこと?」綴は頭の中で候補をいくつか思い浮かべるが、首を横に振る。「ツィーリエから特に言伝は預かってないけど」

「ちーがーう!」少女はがつがつ歩み寄ってくると、「あんた、いままでどこでなにをしていたのよ!」

 彼女の渾身の握りこぶしが綴の顔面を捉え、五メートル後方まで吹き飛ばされた。

 ショウコは今日も平常運転で最高に機嫌が悪かった。這いつくばる綴を一瞥して、よく磨かれた床に唾を吐き捨てた。

「なぜそんな機嫌が悪いんだ? 」綴はよろめき立ち上がりながら訊いた。

「なぜ?」ショウコは露骨に眉を顰める。「はぁ? 私にそれを聞くの?」

「俺はお前と違って察しが良くないんだ。言葉にしてくれないと分からない」

 ショウコの顔が引き攣った。「あんたが現場に到着するのが、おっっっっそいからよ!」ショウコに頬を打たれ、首を両手で絞められる。「いままでどこでなにしていた! 早く答えなさい、さもなければあんたの脳みその皺を引き延ばして、力一杯擦って洗ってやるから!」

「待て、待つんだ」綴は命を守るために弁解する。「ツィーリエにずっと捕まっていたんだよ。それに一つ言わしてもらうが、通報聞いてすぐここに駆けつけたんだ。俺が遅いんじゃなくて、お前が早いんだよ」

 ショウコは一瞬固まり、「はぁ? つまりあんたが遅いってことじゃない」床に唾を吐き捨てると、「あんたのそういう所腹立つわね。なにより腹立つのが、ツィーリエとベラベラ喋っていたことよ」

 ショウコはそっぽを向くと、ケリィの元まで歩いていった。

「そういうことか……」

 彼女の本音を聞き、ようやく理解した。

 ツィーリエというのは綴たちの上司だ。ショウコと相性が悪く、口論が絶えない。だからショウコは、彼女と会話する相手を無条件で敵とみなし、許さない。となると、いまのように理不尽をぶつけてくるのだ。綴はため息を吐き、ショウコの後を追った。

 ケリィの垂れるこうべを下から覗いた。痛みの中で絶命したのだろう。整った黒の短髪は微かに乱れ、生前活気に満ちた瑞々しく整った相貌は恐怖と苦痛で強張り、虚ろで力なくだらりとしている。両目も限界まで見開かれ、口からは唾液を垂らしていた。あまりに無惨で、思わず両手で拝んだ。

 そして綴はショウコの横に並び立ち、尋ねる。「殺害方法は?」

「次、そんな分かり切ったこと聞いたら、殺す」ショウコは鼻を鳴らす。「私たち物倫に声が掛かるってことは、物語で殺されたのよ」

 視界右上にタブのようなアイコンが点滅しているのに気付く。開くと、メッセージが表示された。

〈被害者ケリィ・エンハンス。死因、物語による創生因子変異からの心停止〉

 おそらくショウコが状況をまとめてくれたのだろう。それにしても一体、どんな物語がこの天才を殺したというのか。

 物語で人を殺す、現代ではそれほど珍しいことではない。

 二二世紀も半ばになり、食糧問題と技術の発展により、人の主食は情報へと変わった。体内を巡り続けるマイクロマシン『創生因子』は、ある特定の形態をした情報を受け取ると、生命維持に必須な栄養素やエネルギーを生合成する。

 それと相性が良かったのは、膨大な情報で構成され、加工された――物語だ。

 創生因子は情報の構成に応じて、主要栄養素から微量栄養素のほとんどを生み出す。そのため、特殊な情報配列の物語などを摂取すると、大量の毒素が体内で生成され、死に至る。それでなくとも、人体に甚大な影響を及ぼす。

 だからこそ、綴たちが所属する物語倫理機構は必要とされている。市場に流れている物語を管理し、法に触れる物語の封印措置を行うために。

 綴は息を漏らす。「ショウコはどう思う?」

 普段なら即答する彼女に一瞬だけ間があり、「結論は自殺よ」

「それは……」綴の眼がショウコと合う。「そんな反応になるよな」

「状況的に、なにかしらの物語を食べて、そのまま苦しんで死んだようね。細胞レベルでズタズタになっている。天才の考えることは分からないわね」

 ショウコと同様、綴も困惑している。どうしてケリィが自殺したのか。

 ケリィ・エンハンスはAT社の看板作家であり、毎日作品のように作品を更新していた。莫大な富も名声もあり、世界にも影響を与えるほどの力を持っている。仕事も順調そうであったし、AT社の万全なセキュリティとバックアップのおかげで、命の危険すら感じていなかっただろう。自殺する理由など、まったくと言っていいほどないのだ。

「もしかして、ソースを覗く気?」綴の考えを先回りしたショウコがそう尋ねてくる。「攻性防壁は無力化しておいたけど、一応気をつけなさいよ」

「なんだ、心配してくれているのか?」綴が冗談めかして訊く。

「は、はぁ?」ショウコは少し口ごもり、「別に、あんたのことなんてどうでもいいんですけど。ただ死体を増やされるのが嫌なだけだったんですけど。いや、本当の本当だから」

 綴はショウコの言葉を半ば流しつつ、自分とケリィのHWを繋ぎ、彼の電子領域へ没入していく。

 クリアな視界は、さながら情報が泳ぐ水槽の中だった。が、内部崩壊が既に始まっているせいで、一部の情報は力無く浮いている。

 それでもさすがは天才作家だけあって、膨大な情報がとても整然と、そして過密に集まっている。頭の良い人間の神経メカニズムは、高効率のプログラミングのように、無駄な抵抗部分がなく、情報同士の結びつきが強いため、とても美しく芸術的だ。あともう少し経てば死による腐敗でこれが完全に失われるのかと思うと、どこか大きな損失を味わっているような感じがして、少し残念に思えた。

 綴は崩れ始める電子領域を泳ぎ続ける。目的は、ケリィが死の間際に摂取した物語について――そしてまもなく見つけた。

 ペインの雨、それがケリィの最後に摂取した物語だった。作者はエドガー・レイライン。少なくとも綴は聞いたことのない名前だった。

 綴は電子領域から脱出すると、すかさずAT社にアクセスした。作品名を検索する。

 だが不思議なことに、ペインの雨なんていう作品はAT社のどこにも無かった。一応、他社のサイトでも検索をかけたが、どこにも引っかからない。

 つまりこの作品は、いまも過去もライセンスが下りていない物語なのだ。認可が下りていない物語――禁止物語の可能性がかなり高い。おそらく暗黒層ダークウェブで売買されている、正真正銘の劇物なのだ。

「検索かけても出なかったでしょ?」ショウコには綴がなにをしていたか筒抜けだった。

「エドガー・レイラインって誰だ?」

「知らないわよ」ショウコはどこか不服そうだった。「エドガー・レイラインで検索を掛けたけど、どこにも引っかからなかった。AT社が管理するツェントラールの市民にも、世界統合政府が管理するデータベースにも」

「それはおかしいな」

 物語を購入するにも、販売している人間やそれを作った人間は必要で、現代で売買される物語を生み出すには、自身の電子領域で情報を編み上げなければならない。つまり、危険な物語を暗黒層に流すにも、例外なくHWかそれに類似する電脳環境が必要だ。一世紀前まで、小説や漫画を作るにも紙とペンが必要だったように。

 つまり、世界にエドガー・レイラインという人間は存在しないか、もしくは自身の電子領域を持っていない存在ということになる。だが怪訝そうな表情を浮かべるショウコは前者を押しているようだった。

「私がこの、ペインの雨やエドガーというものを認識できている時点で、電子領域を持っているということになる。私たち虚構存在は、電子領域を持たない人間とはリアルが断絶してる……つまり、繋がるための認識方法がないから」

 そう語るショウコは自信ありげだ。

 頭がこんがらがって来たので綴は一旦まとめようとする。

「つまり、ケリィは暗黒層で購入した劇物を、なんらかの事情で体に取り込み、そして死んだ。だがその取り込んだ物語を作った作家――エドガーというらしいが、その男がいる証拠がない――つまり存在していないということになる。この矛盾をどうするか」

 ショウコは腕を組み、手を顎に添える。「この場合、本当は『ペインの雨』とエドガーなんてものは存在せず、ケリィが自殺に使った物語は別物である、というのが一番マシな考え方だけど、それはあり得ないわ。いまペインの雨を分解しているけど、内部情報からエドガーの電子領域についての記録がサルベージ出来た。要するに、ペインの雨は存在するし、その作者も存在するということになる」

 特級プログラマウィザードに実力で勝るショウコが言うことだから、本当なのだろう。

 ただ一つひっかかることがあった。ケリィはなぜ禁止物語を購入したのだろうか。自殺の動機ではなく、なぜ自分で作り出さなかったのかが疑問だった。

 暗黒層に転がっているような物語は、信頼性も効果も不明なものばかりでかなりリスキーだ。ケリィほどの実力があれば、もっと楽に死ねるようなものを作れたはず。なのに、苦悶で固まった彼の表情を見ると、わざわざ苦しむような物語でなぜ自殺に臨んだのか、理由が見当つかなかった。

 しばらく考えに耽っていると、

〈CALL〉

 ツィーリエから通話がかかってきた。

 了承すると、視界に大きなデスクに座った幼女の映像が広がる。明るいブロンドの髪で、セルリアンブルーの両目をしている。第二次性徴に達していない体躯で、大人用の白衣を着ており、その上に綴たちと同じ軍服を羽織っている。綴はすぐさまショウコと画面共有した。ツィーリエからは綴たち二人を視認できているだろう。

〈状況はどうだい?〉ツィーリエは最初毅然とした表情だったが、ショウコの姿を見ると、仕事など忘れたかのように下心を露わにして笑顔を浮かべる。〈ショウコじゃないか、今日もいやらしい体つきで私は安心した。ナイスおっぱいだ!〉

「この間抜け! あんた、少しくらいは場を弁えなさいよ!」一瞬で沸点に達したショウコは怒鳴り散らかす。「その貧相な体じゃ威厳は出せないかもしれないけど、せめて言動くらいには気をつけろって何回言えば!」

 ツィーリエはそんなショウコの剣幕など涼しい風のようだ。〈別にいいじゃないか。こっちだって触りたいのを我慢しているんだ。大目に見て欲しいものだよ〉

「なんでこんなセクハラ野郎が私の上司なの……」

 ショウコが吐露する絶望感のなかに悲壮感も混じっていて、綴は心底同情した。だがこんな話をしている場合ではない。「ツィーリエ、実は……」

 ショウコを宥めつつ、ツィーリエに状況のおおまかな説明をした。

「なるほど、そういうことか……また面倒な案件に巻き込まれたものだ」だがツィーリエは、どこか軽そうに続ける。「じゃあ明日、聞き込みしにAT社に行ってきてくれ」

「AT社ですか?」綴は極力不満を押し込んで、低い声音で返答した。

「ケリィについて聞きこみをしてきて欲しい」

「ほかの人間を送ればいいじゃないですか?」綴が言う。

「もう君はこの事件に首を突っ込んだんだから、君が調査したまえ」ツィーリエはさらに続ける。「AT社を嫌っているのは分かっているが、君はもう物倫の人間じゃないか。それにこれは仕事だよ、綴」

「……分かっていますよ」

「まあ念のためにショウコを連れていけ」

 するとショウコが声を荒げる。「なんで私が綴の御守りしなきゃならないのよ! 私だけで十分よ」

「それは駄目だ」間髪入れずに綴は割り込む。「俺が行ってくる」

「二人で行け。そのための君たちだ」ツィーリエは笑みを浮かべているが、思考読み取れない。「まあショウコがいれば安心だ。引き続き頼んだよ。私の言うことを聞いてくれるのは、君たちくらいしかいないからね」

 そこで通話は終了した。

「ツィーリエにはまんまといいようにされたわね」肩をすぼめたショウコが綴を見て、急に不安げな表情を浮かべる。「綴?」

 綴はじっと黙り込んでいた。視界が真っ赤だった。

〈私は憎い。私から、物語を奪った全てが〉

「いつまで無視してるのよ!」

 ショウコにまた顔を殴られ、綴はようやく冷静になる。

 どっと疲れが押し寄せてきて、「明日も早い。今日はもう帰ろうか」

 ショウコが頷き、二人で現場を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る