虚構喰らい
世一
ペインの雨
プロローグ
世界で最も売れている作家を殺した。
数千万人に、毎日欠かさず食事を配る神童を。
ケリィ・エンハンスの死は、経済に数百億円単位の打撃を与え、数えきれないだけの人間を嘆かせるだろう。あの男の物語を、もう二度と食べることが出来ないのか、と。
エドガーはケリィの亡骸へ目をやる。
彼は椅子に腰かけ、両の指を絡めながら、なにか祈るような姿勢をしていた。その姿が、まるでいつ降ってくるか分からないアイデアをじっと待っているように見えて、死んでも自らの仕事を取り組もうとする彼に、エドガーは同じ作家として憧憬の念すら抱かされた。
ここはケリィの住居であり、巨大海上都市ツェントラールのセントラルタワー最上階の一室。三十畳近くある広い空間だが、中央にデスクが置かれているだけで、壁一面に備え付けられている本棚を除けば、目に止まるようなものはなにもない。
ケリィ曰くここは作業部屋らしいが、物語を生み出す作業というのは膨大な情報を捌くのと同意で、中型以上の電子補助計算機がないというのは、些か奇妙に思えた。綺麗に整頓され過ぎているからだ。エドガーは物語を吐き出す怪物だったが、自己電子領域を展開する
ところで誰か教えて欲しい。エドガーは内心でひどく動揺している。
なぜ自分はケリィを殺したのだろうか?
明確な理由があったはずだ。なのに、それが思い出せない。
いま思い返しても、ケリィという作家は良く出来た人間だった。博識で、聖人とまでいかなくとも出来る限りの手助けをする男。社会貢献と言い、莫大な富の多くを寄付する貴族観を持ち合わせていたし、讃えられることはあっても、他人から正当な怒りや憎しみをぶつけられることはなかった。
だが何故だろうか。ケリィを殺したことに対する後悔など、微塵も湧いてこない。
なにか頭に引っ掛かりを感じて――あぁ、そういえば確か――駄目だ、思い出せない。先ほどから、ひどく頭が鈍いのだ。思考が形を帯びると、次の瞬間、霞のようにふっと霧散していく。エドガーはこの感覚がとても不快だった。
金属を引き摺るような、嫌な音が聞こえる。
ふとエドガーは冷静になり、いますぐこの場所から立ち去った方がいいという、当たり前のことを思いついた。自分はケリィを殺した。理由は思い出せない。だが確実に、いま見下ろしている、この男を殺した。
最後にケリィの死体を一瞥して、部屋から出る――、
なぜか、エドガーはメルヘン調の街中に佇んでいた。
「――――っ」
空は群青色をしている。パステルカラーの住居が立ち並び、各々の建物の二階の窓から、橋でもかけるように紐を張り、白いシーツが干されている。傍の川沿いには船が誰の操縦も受けず一人で泳いでおり、植木たちがその行く先を親のように見守っている。とても色鮮やかな景観なのだが静まり返っていた。誰も一人として存在しないのだ。
この場所は見覚えがある。ツェントラールから約一万五千キロ離れた、仏領の東に位置する、エドガーの故郷だ。確か四半世紀前の大戦で焦土になったはず。
ただ、ここがどこかが問題なのではない。先ほどケリィの部屋から立ち去ったにも関わらず、自分が故郷にいる状況は辻褄が合っていないのだ。
背後を振り向くも、レンガ造りの路地が続くだけで、出口の扉などは存在しない。確か、あの部屋から出ればリビングがあり、その先は大理石のエレベーターホールに繋がっているはずだ。
足音が聞こえ、エドガーはその方向へ眼をやると、すぐ傍を小さな少年が駆け抜けていった。次第にあちこちから生活音が聞こえてきて、最初から存在していたかのように、なんの違和感なく多くの人間が街中にいた。誰もが、笑い、怒り、談笑している。
エドガーはまるで自分一人だけ世界から取り残されているようで、茫然とする他なかった。自分の認識能力を超える速度で世界が変異していくのだ。
狂っているのは世界か、それとも自分か。
いや間違いなく、後者だ。ケリィを殺した後、自分はなんらかのショックでおかしくなったのだ。良心の呵責による逃避でも、逃走がほぼ成功しないことへの絶望でも、なんでも構わない。とにかく自分がいま見ている景色は、精神負荷からくる幻覚だとするのが、最も合理的に思えた。
だが考えても始まらない。足を一歩踏み出して、少しでも動かなければなにも始まらない。エドガーは頭を整理して、深呼吸する。
エドガーが蹴った地面は――ツェントラールのアスファルトだった。
気が付けば、周辺の壁と屋根が取り払われたかのように、屋外に立っている。四車線の道がクロスするスクランブル交差点で、信号機が点滅しているが、それを遵守する人間はどこにもいない。いまさっきのエドガーの故郷と同じだ。無人の街、無人の世界。
立ち並ぶ高層ビルは雲へ迫るほどに聳え、時折雷鳴が轟いている。まるで御伽噺の巨人の国にでも迷い込んだかのように、周囲の建造物――企業やホテル、モールなど、大層立派な造りと絢爛な外装をしている。
空は暗いが、昼に負けないほどに明るい。それは建物群が発する煌々とした明かりが原因に違いないが、それだけでなく、至る場所に浮かび上がっている大量の立体ディスプレイが、様々な広告という衣装を身に纏い、自分を発信しているからだ。
自分は元の世界に戻ってきたのだろうか?
一瞬、眩暈が起きた。視界が回り、膝をつくと、走馬灯のようなエドガー自身の記憶が一気に再生され、逆再生される。生まれて間もない頃、貪るように母親の乳房を啜っていたこと。故郷の学校に通っていた頃、偶然横になった女の子に好意があったこと。世界規模の大戦で故郷を追われ難民として各地を転々としたこと。そして生きる為に、国家資格である作家の勉強をして、試験に挑んだこと。何度も繰り返された。痛みなどは無かったが、内臓を手で掴まれたような気持ち悪さがあって、反射的に嘔吐した。もちろん、なにも口から出てこない。
しばらくの間、じっとしていると思考も若干鮮明になり、立ち上がる。再び周囲を見渡したが、なんの変化も起きていない。
いま一度整理してみる。ケリィを殺害した後、部屋から出ようとするとなぜか自分の故郷の幻覚を見て、今度は現実に戻ってきたのか、幻の続きなのか、ツェントラールの街に立っている。
そう思うと次第に考えることが馬鹿らしくなってきた。
強いて可能性を上げるなら、何者かがエドガーの電子領域にクラッキングをしていることくらいだが、癌でもあるまいし攻性防壁になにも反応がないのはおかしい。触れた瞬間、エドガーの電子領域に報告が上がるからだ。
また、金属の擦れる音が聞こえる。
「――――っ」
反射的にエドガーはアスファルトを蹴っていた。あてなど無い。だがこの音を聞くと総毛立ち、本能が遠ざかれと命令してくる。まるで、死神が鎌の穂先を引きずっているような、不気味な音なのだ。
思い起こしたはずなのに、エドガーは聞いたこともない名前だった。そもそも綴という名前だけで性別は判断できない。
私は憎い。私から、物語を奪った全てが。
あまりに自然と沸いた憎悪で、困惑すると同時にエドガーは確かに綴という存在を渇望していた。
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