第二話

 ふ、とじぶんの意識が手のなかにもどってくるような感覚がからだを取りまいた。

 光にむかっていこうとするそいつをたぐり寄せて、もうすこし、もうすこしと暗闇に沈みたがる。

 じぶんにとって一番いい角度をさがそうと、ごろりと寝返りを打とうとして――あれ、とおもった。


 いつもの布団より、なんだかじめじめしていて、ちょっと硬い。

 ついでに言えば、枕もどこかに行っちゃってる。毛布もかかってない。だけど、べつに寒くはない。


 ……まって、それより、とてもじめじめしていて、なんだか――。

 瞬間、わたしの意識は覚醒した。いつもではありえないほど素早くまぶたが開く。


 だってだってだってだって、ありえない。

 いい歳した可憐な女の子が、なにをしているのだろうか!


「じょ、女子高生が、おもらしした!」


 一部では需要のありそうなことを叫んだわたしは、


「……え?」


 ふと入りこんだ目先の景色に、動きを止めてしまった。


「え」


 なに、これ。

 状況把握というほど頭はまわっていなかったけれど、視覚はきちんと機能してくれていた。目の前の景色に目を見開いたまま、まばたきもせずに呆然と見る。


 木がいっぱい立ち並んでいて、見えるはずの太陽は葉っぱのすき間からちらりと顔を出しているだけ。

 生い茂る草木がその姿を覆い隠してして、とてもじゃないが太陽なんて拝めそうにない。

 ちゅんちゅん、とかわいらしい鳥のさえずりが聞こえると同時に、ざわりと、風がなにかを知らせるように鳴いた気がした。


 そのすべてが威圧感をもってわたしを威嚇しているように見え、背筋に冷たいものが走る。

 大きくて太くてしっかりとした木の幹は、長年、そこに存在していたことを示すように丈夫だ。重力に反して伸びているのは大木だけでなく、その場にあるすべての植物もおなじようだった。

 一日二日で成長できるような長さではないそれらを見ると、時間の経過がここにあるように感じられて――とたんに、不安が押し寄せてくるのが分かった。


 ……なにこれ。

 おもらし、なんていうのはもう頭からすっかり抜けていた。


 じめじめしている感覚のした場所、つまり、体育座りになっている自分の足元を見る。そうすれば、茶色い土と灰色の砂利がたくさんあって、ところどころ、よくわからない雑草や花が堂々と立っていた。

 ついでに、自分の恰好にも気がつく――Tシャツとスウェットでベッドに入ったはずのわたしは、浴衣のようなものに身を包んでいた。

 グレーの着物にネイビーの帯と言ったらいいのだろうか。そんな着流しに身を包んでいた。


 ……なんで、なんなの。

 追いつかない思考は野放しにしたまま、視覚だけは働く。けれど、そこから入ってくる情報はどれもとうてい信じられないもので、わたしはざわつく心のままに勢いよく立ち上がった。

 そして、周囲をきょろきょろと見回す。


 どくん、どくん。なに、なにが起こってるの。

 どくん、どくん、どくん、どくん。なにが――。


「、あ、……や、」


 声を出そうとしたのに、のどの奥が詰まってなにも出てこない。ぐ、とこみ上げてくるなにかが、わたしを壊そうとしていた。

 ざわざわ、騒ぎ立てているのは、突然の侵入者に敵意をむきだしにしている森か、それともわたしの心臓か。


 そうだ、ここは森だ。どう見たって森でしかない。


 ゲームがあってちょっと汚くて「お掃除ちゃんとしなさいよー」と母さんに言われているわたしの部屋じゃない。

 「ねーちゃんの部屋に住む!」なんて言って、昴が自分のものをぜんぶ持ってきて居座ろうとするわたしの部屋じゃない。

 「せら、あそぼー!」なんて窓枠を超えて侵入してきて、だいすきな笑顔を見せてくる宇宙の家が隣の、わたしの部屋じゃない。


 じゃあここは、いったいどこだ。


 焦燥感が、体を乗っ取る。

 いったい自分になにが起こっているのかさっぱりわからなくて、混乱する脳は乱暴な様子で何もわからないことを叩き出した。


 なにが起こっているんだろう、どうしてここにいるんだろう、母さんは、昴は、宇宙は、――みんな、どこにいるの?


 たっ、と一歩踏み出せば、あとはもう本能のおもむくまま。

 なにも考えられず、森の中を走って走って走りまくった。


「っ、はぁ、――っは」


 わたしはどこにいるの、みんなはどこにいる?


「は、っく、……はぁ!」


 ここはどこで、なんのために来たの?


「はぁっ、は、っ」


 これは夢、夢だよね――?


 どんどん脳内をまわっていく疑問、けれど、だれも答えてはくれない。


 足がもつれて息が止まりそうになる。だけど、後ろからだれかに追いかけられているかのような焦燥感に襲われて、走るのをやめることはできない。

 走っても走っても、景色は変わらない。どれだけ進んだとおもっても、森の外に出ることもできない。


「た、――っす、け……!」


 ぼろぼろ、ぼろぼろ。止まることを知らないとでもいうように涙が出る。

 あらがうことのできない焦燥感を抱えたまま、どうしようもない不安と恐怖におびえたまま、わたしの涙はどんどんこぼれ落ちていく。


 むき出しの足が、また大きな石に引っかかって転びそうになる。

 だめ、とおもって体に力を入れて踏ん張ろうとしたけれど、走り疲れたわたしの足は言うことをきかなくて、そのまま地面に倒れこんでしまった。

 だけど、そのままその場に止まるわけにはいかない――なにかに急かされるように立ち上がったわたしは、擦りむいた場所から血が出ていることにも気がつかないまま、必死に走って出口を探した。


 こわい、こわいこわいこわいこわい。

 こわいよ、なにこれ、こわいよ!


 長くないはずの髪の毛が、自分の背中で揺れるのがわかる。

 おもわず反射的に揺れる髪の毛を握ってみせれば、ひとつくくりに結われた黒色のそれがあった。

 わたし、髪の毛こんなにながくない。

 わたし、髪の色、黒じゃないよ――そうおもうと恐怖がどんどん押し寄せてきて、吐き気がした。


「っ、うっえ……うえっ!」


 わけもわからないまま、立ち止まって吐きだす。異物感が胃のなかを這い回って、どうにも収まらない。

 ついでに、うまく息もできなくなってきて、「――っか、は」と声にならない声を出した。


 ――やばい、死ぬかもしれない。うええ、とまた吐きだしたわたしは、口をぬぐおうと手をあげる。

 だけど、息苦しさに耐えられなくなって、足からくずれおちてしまった。

 だめだ、もうだめ、これ以上、むり。


 流れ落ちる涙、動かない足、息もさせてくれない無情な喉と、どうしたらいいか教えてくれない役立たずの頭。

 ぜんぶ、ぜんぶ、それでもわたしのものなはずなのに。どうして言うことをきいてくれないんだろう。どうして、うまくいかないんだろう。


 たすけて、たすけてよ、お母さん、すばる、そら――。


「ゆっくり息を吐いて」


 ふ、と、耳に落ちたやさしい声色に、意識が引き戻される。けれど、うまく言葉を理解してくれなくて、パニック状態の頭は働いてはくれない。

 ゆっくり、いき、はく、ってなに。むりだよ、だっていきができない。ゆっくりなんて、していられないの。


「大丈夫だから、ゆっくり息を吐いて、心を落ち着かせて」


 、だって?

 なにいってるの、だいじょうぶなわけないでしょ。


 涙で潤んだ視界は誰が何をしてくれているのかさっぱり捉えてはくれなくて、突然聞こえたやさしい声も、恐怖の対象でしかなかった。


「おい」


 聞き慣れた声がした。さっきの声とは全然ちがうひとのものだとすぐに分かったけれど、それはどう聴いても聞き慣れた声。

 認識した瞬間、ざわつきを覚えた心臓が、泣き叫びたい気持ちと共に金切り声をあげた。

 飛びそうな意識と、どうしようもない息苦しさの中で、一筋の光が見えたようにおもえて声の主を確認する。勢いよく振り向いたら、ちょっとだけその人の目が開かれたような気がした。


 くりくりとしたまんまるの目は、いつもより鋭い。茶色く染められてたはずの髪の毛は、どういうわけか真っ黒だ。

 似合わない浴衣のようなものを着て、だけど落ち着いたテノールはどう聞いたって、わたしの大好きなでしかない。


 顔だって、あいつのまんまだ。


「そ……っ……ら」


 そら――ああ、どう見たってこのひとは宇宙だ。バカでアホでどうしようもない、だけどやさしくてだいすきな、わたしの幼なじみ。

 ようやく知り合いを見つけられたという安心からか、それとも宇宙がそこにいるからか。わたしは助けを請うように彼に向かって手を伸ばす。


 ねぇ、こわいことが起こってるの、聞いて、宇宙。

 わたし、こんなところに来た覚えもないし、たしかにバカだけど、夢を見ながら迷子になるようなおバカじゃないんだよ。知ってるでしょ。

 なのにね、どういうわけか、わたし、森に来てたの。知らない森に来て、迷子になってたの。

 おかしいよね。だってわたし、宇宙とおやすみなさいをしてベッドに入ったはずなのに。


 ねぇ、宇宙、聞いて、おねがい。

 これは夢なんだっておもいたいのに、これは夢でしかないんだって信じたいのに、わたしを取りまくすべての空気が金切り声をあげて主張しているの――これは現実だ、って。宇宙、宇宙、わたしこわいよ。

 いったいなにが起こってるんだろうって、すごくこわいよ。


「……ゆっくり吸え」

「は――、ヒュッ」

「一回息を止めろ」

「っ、ぐ」

「落ち着け、急ぐな」

「……っ」

「そのまま静かに息を吐け」


 言われるままに、従う。宇宙に言われたからには、やるしかない。

 いつもと口調がちがうだとか、とても落ち着いた話し方をするんだなとか、そんなことを意識のはしっこで感じた。


「繰り返せ。ゆっくり吸って、息を止める、ゆっくり吐いて、血の流れを感じろ」


 ゆっくり、吸って、息を、止める。ゆっくり、吐いて、血の流れを、感じる。

 どくん、どくん、どくん、どくん。


「っ――はぁっ、はぁ」


 ようやく、息がちゃんとできるようになった。

 びっくりした肺が酸素を求めてどんどん動き出すけれど、「まだだ」と言われてしまえば、先ほどの言葉をもう一度実行するしかない。

 ゆっくり吸って、息を止める、ゆっくり吐いて、血の流れを感じる。


「……はぁ、っ、あ、息、できる」


 うれしくて、心底安心して涙をながせば、わたしの隣に座っていた宇宙が立ち上がった。その様子をぼーっと見ながら、ふと気づく。

 ……あれ、なんか、背が高くなった?

 いくらわたしが座り込んでいるといっても、その状態での身長差なんてもうわたしたちの中では“当然”のもの。違和感を覚えることもない。

 だけど、なんだろう、この違和感は。


「そ、そら、わたしたち何でこんなところに――」


 だけど、いまはそんなことより現状把握だ。

 そうおもって声を出した瞬間、今までにない強い視線をもらった。

 ぞくり、と背筋に悪寒が走って、また息が詰まるような気がする。反射的に首元に手をやれば、くりくりとしたまんまるの目だと思っていたそれが、不審者を見るかのように冷たい色で細められた。


 こわ、い。

 宇宙なのに、目の前のひとはどう見たって宇宙なのに、まるで“しらないひと”みたいだ。

 震えだした手を抑えるように握りしめて、なんとかその目を見返す。


「誰だ、お前は」


 ……え? だれだ、って、どういうこと。


「……な、なに、言ってんの、宇宙、こんな、こんなときに変な冗談、やめてよ、ばっかじゃないの」


 笑みを作ってみたが口の端がひくついて、唇が理由わけもなく震えているのがわかった。


「確かに俺は“そら”という音の名を持っているが」

「じ、じゃなかったら、わたしだってびっくりだよ!」

「だが、お前のことは知らないし、お前に親しげに呼ばれる筋合いもない」


 がつん、と頭を鈍器で殴られたような気がした。拒絶されたと、はっきりわかったのだ。


「な、に、言ってんの、宇宙、わたしとお前は――」

「まぁいい。捕らえろ」

「御意」


 瞬間、わたしの体が誰かに拘束される。両手を背中で縛られ、首元に冷たい何かが触れたのを感じた――ころ、される。

 反射的にそうおもったわたしは、ヒュッと声にならない音をあげて、のど奥につまった何かを吐きだそうとした。

 だけど、まるでゴミでも見ているかのような、冷たくて暗くて恐ろしい宇宙の目を見たら、なにも言えなくなってしまった。


『おまえをなかせるやつがいたら、おれがぶんなぐってやる!』


 宇宙との思い出がよみがえって、どんどん脳内を占領していく。


 ねぇ、どこからどう見たって宇宙じゃん。お前の名前だって“そら”じゃん。

 なのにどうして、そんなこと言うの、なぁ、宇宙。


「牢に入れろ。侵入者だ」


 なぁ、おまえ、だれだ――?

 意識が途切れる前に見た宇宙の顔は、アイツには似合わない無表情だった。

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