第十話 さよなら、かみさま

 天井をあおぐようにしてベッドの上に寝転び、寝る準備は完了だ。時計の針はすでに1時をまわっている。さすがにねむい。

 普段から朝練で早起きをしなくちゃいけないわたしとしては、この時間まで起きているのはけっこうキツいものだった。

 それに、これ以上遅くなると命取りになる――起きられない。


 寝なきゃ。そうおもって、まぶたを閉じようとする。

 そのまま暗闇に意識を沈ませようと、無意識を装ってみること10分。ぜんぜん眠りに落ちる気配のない自分に舌打ちをひとつ。

 今日という日が無事に終わって、安心しかしていないはずなのに、いつもよりちょっとだけ速い鼓動がわずらわしい。


「……父さん」


 ぽつん、とつぶやく。

 今さらつぶやいてみたところでどうということもなければ、その存在こそが自分たちをこんな状態にした元凶でもあるのだけど。

 “父さん”をだいすきだった自分わたしがいたこともまた事実であり、わたしたちを戸惑わせるくらいには、その思いは“家族愛”として成り立っていたとおもう。


「……ちち、うえ」


 落とした、葉。胸のうちを焦がす響きを心にしまいこんで、そっと目を開けた。

 ゆがんだ表情をしている自信はある。

 それでも、心を巣食う感情はおさまらなかった。


 なにが、父上だ。そんなことを自分でつっこんで、はぁ、と大きなため息をひとつ吐きだす。

 夢に影響されすぎじゃないの、なんて自分を揶揄やゆするように叱咤しったしたけど、夢の中の“父上”がくれたやさしさを思い出して、どうしようもなく切ない気持ちになってしまった。


 バカか、わたしは。

 また自分でつっこんで、髪の毛を左手でぐしゃり。

 そうすれば、いっしょに心臓さえも握りつぶしてしまったかのように胸がきゅっとなった。


 ……痛い、なぁ。

 自嘲じちょう気味に笑ってみせるけど、心は晴れない。精神的な強さには自信があるものの、どうにも深夜は複雑な気持ちにさせてくれるらしい。


 昴はもう寝たかな。かわいい弟のことを思い出し、ちいさく息を吐いた。


「……だめだ、寝られない」


 すこしイライラしながら、起き上がる。布団がくしゃりと音を立てた。もう一度ちいさく息を吐きだし、ベッドから降りる。

 しかし、降りてどうこうする予定もなかったわたしは、結局その場に立ちつくしてしまった。

 なんだこれ、だっさい。おもって、ふと宇宙の部屋がある窓を振りむいた。


「え……」


 そう、そのときだ。窓の向こう側で、視線が交わったのだ。

 びっくりして、おもわず声を上げる。


「宇宙!」


 そいつは「よっ」なんて言いながら、こっちにひらひらと利き手の左手を揺らしている。

 そう言えばアイツは左利きだった。どうでも良いことを思い出すも、心臓の高鳴りは相変わらずのうるささだ。


「な、なにしてんの」


 どこかデジャヴを感じながら、急いで窓を開けた――開けようとした手がすこしだけふるえていたのは、見ないことにして。

 無意識のうちに跳ねあがった声を恥ずかしくおもったけれど、いまはそんなこと気にしない。


 ほんとどうしたの、こんな時間に。ちょっとパニック状態の脳が、それでもうれしさを叫んでいるような気がした。

 そんなわたしの混乱に気がついているのか、いないのか。いや、見るかぎりなにも知らないとでもいうような表情かおで、宇宙はすこし離れたその場所から、ニッといつもどおりいじわるそうに口角を上げてみせた。

 それは、いたずらが成功したときのような、本当にいつもの彼らしいものだった。


 なんだか、安心するなぁ。


「へへ、ラッキー」


 彼が上目づかいにこちらに視線を向けた瞬間、ふと、どきりとしてしまった。

 その目はまっすぐにこちらを向いていて、とても強い。わたしをまちがえなく捉えているのがわかって、ガラにもなく緊張した。


 だから、たまに思うのだ。


 コイツの目は、ぜんぶぜーんぶ見透かしちゃってんじゃないか、って。

 わたしのこころの奥底にある淡い恋心にも、胸の内を巣食うどうしようもない不安にも、きっちり気付いちゃってるんじゃないかって、そんなことをおもってしまう。


 おもってしまうほど、宇宙はわたしのことをよくわかってくれる。


「だってさ、寝られねーから、せら起きてっかなぁなんておもって窓見たら、おまえと目があったんだもん!」

「!」

「ラッキー以外になにがありましょうよ、奥さんや」


 ……ばっかじゃないの。


 ぐっ、と目に熱いものがこみあげる。身体の芯からわきあがったようなそれは、すぐにわたしの涙腺るいせんを刺激した。

 それでも、ぐっと目に力をこめて、涙がこぼれないように、泣かないように、必死にがまんするのだ。


「ね?」


 念押しのようにそう告げて、やさしく口元に笑みを添えた宇宙に、ふ、とわたしも笑ってみせる。

 ほんと、ばっかじゃないの。そう言いたいのに、うまく言葉が出なかった。のどの奥が詰まって、息もできない。

 でも、宇宙はそんな様子にも気が付いているのか。


「せらちゃんに会えると思ってたんだよ、ほら、オレたちの以心伝心やべぇから」


 びしっと指を向けてキメ顔をみせるだけ。

 そのままバーンっと銃を撃つかのようにしてみせたそいつは、「どーよ」なんてキザな姿を披露して、わたしの笑いを誘った。


 それなのに、泣きなくなる心は、何を求めているのだろう。


 こんなにもこの瞬間が愛おしい。愛おしくて、切ない。まるで、この日常がそのうち手からすり抜けていってしまうことを、予感しているかのように。

 そんなことあるわけないのに、不安だけはいっちょまえに募っていく。

 日常がいつ崩壊するのかなんて分からない――そのことを実感したあの日のことを重ねあわせて、不安になっているだけだってわかるのに。どうにも心は落ちついてはくれないのだ。


 とたんに、夢の出来事を思いだした。

 「セラ」と呼んでくれたやさしいそのひとの手、視線から伝わるあたたかな愛情。ぎゅ、と心臓がつかまれた感覚をつれてくるのに、いやじゃない。

 ふとさびしくなって、おもわず「そら」と目の前の幼なじみを呼んだ。「ん?」甘い返事でわたしをのぞきこんだそいつがくれるのは、やさしくてあたたかな視線。


 ――ああ、そっかぁ。

 わたしは宇宙のそのやさしさを見て、彼と夢の中のあのひとが、おなじような温かさでわたしを包んでくれていることに気がついた。

 しあわせにしてくれる魔力を持っているのだ。二人とも、確かな愛情でわたしをしあわせにしてくれる。

 やさしいんだ、コイツも、あのひとも。心からやさしくて、心から愛してくれている。


 すき、だなぁ。


「……ははっ」


 実感しちゃったら、ちょいと恥ずかしくなってきましたわ。


「……どしたの、せらちゃん」

「いーや、なんでもないよー」

「えー?」


 すきだ。わたしは確かに、東雲宇宙が好きなのだ。

 ばかでお調子者でいじわるでどうしようもない幼なじみだけど、とってもやさしくてあたたかい。

 茶目っけたっぷりの彼の目は、いつだってわたしを見放したりしないから、そのおだやかさに安心する。


「なー、せら」


 呼ばれて、「なあに」と返す。


 わたしも同じだけのものを与えられているだろうか。わたしといる瞬間を、すこしでも幸せにおもってもらえているだろうか。

 そうだったらいいなぁ。小さく微笑んで、「どしたん」と軽い口調で尋ねる。


 合わさった視線から伝わるのは安心感でしかなく、わたしがどれだけコイツに心を許してしまっているかがよくわかった。

 なーんか、ほんとうにこの乙女チック思考が恥ずかしいわ。おもうけれど、宇宙を見つめるたびにコイツがすきだって実感してしかたがない。


 ふふ、とわらえば、あふれるこころ。

 すき、だなぁ。


「好きだよ」


 ……え?


 そんなに大きいわけではないが、自分なりの最大限を記録するほどに目をかっぴらいて、その言葉をくりかえす。

 が、どうにも頭の中に入ってこないのだから、わたしのそれはやっぱりポンコツだ。


 しかし、なんの反応も返せないまま、キョトンと宇宙を見つめるばかりのわたしなど、彼にとってはどうということはないようだ。

 彼はそのまま「あー」となにかを吐きだすように声を出して、「せらちゃーん」とわたしを呼んだ。

 まだ脳は動作停止状態なため、視線だけで返事をする。


「オレさー、やっぱおまえのこと好きだわー!」


 ちょっと軽い口調で、それでももうガマンできないとでもいうような言い方が、どうにも心に訴えてくる。

 言った後に照れたように頬を染めて、頭をがしがしとかかれてしまっては――おなじ意味だって、期待しちゃうだろ。


 コイツの「好き」に、わたしの持つ意味はない、のに。


「わ、わたしも、好きだよ」


 無難な、返事を。そうおもって言えば、宇宙は睨みつけるようにこちらを見てきた。


「な、なにさ、いやなの?」


 動揺してすこし突っかかってしまったけれど、睨みの意味が知りたくてそう問いかけた。


 そうして、ふと寒さを実感する。

 そういえば、窓をたまたま見て視線があったことにびっくりしたまま、宇宙のことだけを考えて行動していたからだろうか。真冬の夜に窓を開けて話しているという事実を忘れていたらしい。

 寒い。自覚したら、名前のわからないぐちゃぐちゃな感情が一気に押し寄せてきて。

 ぐ、と口を一文字にむすんで、のどの奥にぜんぶを押し返した。


「せらの好きは、オレといっしょ?」

「え?」


 宇宙の言った「好き」と、わたしの「好き」が同じだって?


「待って。オレから目、そらすな」


 強い口調に困惑して、揺れそうになる視線をなんとか固定する。


「あのさ、オレに好きなヤツいるって言ったろ」

「う、うん」

「バカでアホでーってやつ」

「……うん」

「なんでそれで気付かないの。おまえ本当にバカだろ、アホだろ」

「え?」


 ごめん、本格的におまえが何を言っているのかわからない。日本語でいいぞ、宇宙。いや、日本語なんだけどさ。


「だから、せらちゃんはバカだって言ってるの」

「いやテメーこらふざけんなわたしはバカだ」

「うん、だよね」

「うん」

「うん」

「……」


 いや、バカだけどさ。バカだけどちょっと待ってよ、なにこれどういうこと。

 わたしの頭なんてさっきから何度も言われているようにとにかくバカなんだから、突然のことに対処できるほど優秀じゃない。


 そうしてパニックに陥っていれば、「はぁ」なんて宇宙のため息が聞こえてくる。ふざけんな、ため息ついてんじゃねぇよ。

 そうはおもったけれど、彼が口を開いて何かを言おうとしたから、結局静かに、その先の言葉を待ってしまった。


「好きだ、せら」


 そうして、宇宙が窓枠に足をかける。15センチほどのその距離なら、落ちる心配はない。

 いったいどうしたのかと不安になりながら戸惑いの表情を浮かべて彼を見れば、「せら」そう名前を呼ばれて――。


 すきだ。


 同時に、わたしのくちびるにあたたかいものが触れたのを感じた。

 ……あ、れ?

 それがいったい何なのかを把握する前に、その感触は離れていく。

 きょとん。やっぱりお決まりの様子で、その状態を受け入れた。


 わたしもしかして、宇宙にキス、された?

 当の本人は窓枠に乗っかったままで、うんこ座りを披露している。

 わたしの家の窓枠と、宇宙の家の窓枠の両方に足の裏が乗っかるから、決してむずかしいことじゃない。いつもこうして宇宙はわたしとおしゃべりをしている。

 だけど、いまの宇宙から“いつも”の様子は感じなかった。

 視線はするどくまっすぐにわたしを見つめていて、逃がさない、と言われている気になってしまった。


 本気、なのか。彼はわたしのこと、本気で、好きって。

 そう実感すると共に、どうしようもなく叫びたい感情に襲われた。

 だってだってだって、これって。

 そう思って感極まれば、出てくるのはなみだで。そんなわたしの様子に目を見開いた宇宙が、苦そうな顔をして「ごめん」なんて言うから。


「ばかっ、ばかばかばかばか!」


 ありったけの罵声を。


「え、いや、えっと……」


 そんなに嫌だと思わなくて、なんて言い訳が聞こえたが、そんなことじゃない。ちがうんだよ、宇宙。そうじゃないんだ。

 伝えたい、だけどなんて言ったら良いんだろう、ただ一言言えば良いだけなのに、なんだかそれじゃ足りないよ。

 ――それでも、伝えなきゃって思うから。だから。


「すきっ!」


 叫んだ。

 だいすきだって気持ちを、どうしようもなく愛おしい感情を、声にのせて。

 そうすれば、「え」なんてこぼして、今度は宇宙がキョトンとする。その表情にザマーミロなんて思って、泣きながらに口角をあげる。へへん、なんて照れ隠しも忘れずに。


 でも、そんなびっくりした表情は一瞬だけ。

 宇宙はすぐにうれしそうな顔をして、「まじ!?」と問いかけてきた。

 ほんとだよ。それを、うなずくだけで伝える。すると彼はパッと瞳を輝かせて、「オレもすきだ!」と子供のようにわくわくした様子で言うのだ。

 なんか、一気に恥ずかしくなってくるぞ。思いながら、「うん」と返事をひとつ。


 一気に明るい表情になった宇宙は、うれしそうに口元に笑みを浮かべて、抑えきれないとでもいうように「っしゃあ!」と声をあげた。

 これは近所迷惑だなぁ、とおもうけれど、心の中を回るうれしい気持ちは、わたしだっていっしょ。止まることを知らないかのようにあふれ出てくる。


「オレ、恋愛対象としてせらのこと好きだよ。まちがってない?」

「ま、まちがってないよ」

「ほんと?」

「もちろん、ほんとだよ」

「な、もう1回ちゅーしていい?」


 待って、なんて言葉をこの宇宙が聞きいれてくれるはずもなく。

 に、と口角を上げたその様子は“男のひと”そのもので。


 高鳴る鼓動、染まる頬、近付くくちびる、そして――。

 重なり合ったその場所から、しあわせがはじけ飛んだ気がした。そうして触れあったくちびるが、もう二度と重なり合うことなどないと知らないままに――わたしはこの時のしあわせを噛みしめていたのだった。

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