第九話

 学校を出てすでに帰り道。二人で慣れた景色を歩いていく。

 学校から駅まではそこまで長くないのだが、いかんせん、駅から家までずいぶんと距離がある。


「つーかーれーたー」


 宇宙が眉を寄せながら、手を上げて伸びをした。

 空まで届くように、なんて雰囲気を出しながら伸ばされた手は、それでもそこに到達するにはまだまだだ。


「あー、だねぇ」


 気の抜けた声で同意すれば、その手は奴の横に下ろされ、何事もなかったかのようにそこで揺れた。

 少し赤くなった手は、外気の冷たさに触れた証だ。手袋忘れたのかな、とちょっと心配した。


 あ、十字路が見えてきた。と言うことは、公園はすぐそこである。

 「よっしゃああっ」と狂喜しながら走って行く宇宙を、元気だなぁと感心しながら見守る。


 公園についたら、真っ先に自動販売機に向かった。

 ここの公園は地元でも有名なほど大きく、噴水、すべり台、ジャングルジム、ブランコ、その他多くのものが設置されていて、田舎にしてはがんばった設備だとおもう。


「せら、何にすんのー」

「炭酸飲みたいからなんかそういう系」

「あ、オレ、コーヒーな」

「おごらないよ。なにちゃっかり注文してんのさ」

「えへへー」

「べつにかわいくないからね」


 ぺろりと、いつの時代の少女漫画だと言いたくなるような様子で舌を出した宇宙に、一発デコピンをあてておく。いってーっ、と声を上げたのを完全に無視し、炭酸飲料水のボタンを押した。

 温かいものも飲みたかったけど、いま自分の喉は炭酸を求めている。

 その欲求に従順さを示し、勢いよく販売機から吐き出された缶を取り出す。つめたーっと思ったが、一刻もはやく飲みたいという気持ちが強い。


「ふんぬっ」

 非力なわたしは奇声を発しながら缶を開ける。


「そこで開けて~って言わないあたりが、せらの勇ましさだよな」


 けらけら笑いながらそんなことを言ってきた宇宙に「あったりめぇよ!」と返しておく。

 女々しくて弟を守れるかっての。ふ、と笑ったら、やさしい顔でそいつも微笑んだ。


 冷たい風が肌を突き刺す。すっかり闇に包みこまれてしまった様子に目を細め、夜空に浮かぶ数々の星を見つめた。

 きれいだなぁ、とちょっと感傷に浸れば、なんだかやりきれなくて、大げさにはぁあああっとため息を吐きだしてしまった。


「あ、しあわせが逃げちゃうかな」

「逃げるわけねーじゃん」

「や、逃げるって言うし」

「逃げねー逃げねー!」


 適当だな、こいつ。


「いやだってさ、ため息って疲れたときとか嫌なことがあったときに吐くだろ」

「うん、まぁね」

「それって、嫌なもんをぜーんぶ体から出そうとしてるからじゃん?」

「な、なるほど」

「だから、つらいときとか苦しいときとかにため息吐かなかったら、体内に悪いモンためちまうってことじゃん!」


 なるほど確かに。そんな発想のなかったわたしは、なんだかむず痒い気持ちになって。

 それでも「ありがとう」と言えば、宇宙はすぐに良い笑顔を取り戻す。「おうっ」と元気よく放たれたテノールが、耳に心地よさを残して溶けた。


* * *


「ただいまー」


 そっと玄関のドアを開ける。

 アイツはもう帰っているだろうか、なんて、弟のことを思った。


 父さんっ子でよく懐いていた昴は、今でこそバカをやれているものの、立ち直るまでにずいぶん時間がかかった。もちろん、それはわたしだって同じ。

 だけど、昴が泣き叫んで納得いかないとわめいてくれたおかげで、わたしは“物わかりのいいお姉ちゃん”でいることができた。

 こいつがこんなだから、しっかりしなきゃって踏ん張れたのだ。


 母さんは女手ひとつでわたしたちを育ててくれているけれど、なにも今の時代、特別めずらしいことじゃない。

 母子家庭の家なんて今や数えきれないほどあるし、それでもしあわせに暮らせるよう皆頑張っている。

 だけど、めずらしいことじゃないからといって、家族がバラバラになった悲しみが消えるわけでもない。


 たまに見かける両親そろった幸せそうな家族がひどくうらやましいとおもって、歯がゆく感じることがある。

 ねたましく思う自分に嫌気がさして、なにやってんだとぶん殴りたくなるのに、家族のなかで咲く笑顔がまぶしくて、どうしようもなく心が痛くなるのだ。

 そして、帰ってくることのないあのひとに、わずかな“夢”を見てしまう。


「あ、ねーちゃん、おかえり!」


 キッチンから聞き慣れた声がした。

 はずんだ声はちょっと焦りを含んでいたようにも聞こえたが、安堵あんどの感情も乗せてあったので良しとする。

 声の主・昴は、帰りの遅かったわたしの代わりに、食事を作っていたらしい。


 部活で疲れているだろうに、悪いことをしたな。そのことを声に乗せて謝罪すれば、弟は「帰って来てくれたからいい」と切なげに言う。

 「だから、おかえり」なんて、拗ねた表情がいやに印象的だった。

 良い嫁さんになりそうだなぁ。そんなことをおもって笑えば、不機嫌な視線を寄越してくる。

 おや、もしや考えていることがわかっちゃったか。それがまたおもしろくて噴きだしてしまった。


「なに笑ってんの!」

「や、イイお嫁さんになりそうだなって」

「旦那さんならわかるよ!」


 はいはい、と適当にあしらいながら、手を洗いに洗面所へ向かう。後ろから聞こえた「もうちょっとでご飯できるよっ」という言葉に、やっぱりイイお嫁さんになりそうだと、口元に笑みを浮かべた。


 リビングから出て玄関へ向かい、階段横を通って洗面所へ。

 がらがらーっ、ぺっ! うがいと手洗いってなんでこんなに気持ちいいんだろう。


 ふと、目の前の鏡に映った自分わたしを見た。

 茶色く染められた、ミディアムヘアー。髪染めは特別禁止されていないからと、宇宙といっしょに染めたんだっけ。わたしの方が明るいけどね。

 猫目の二重まぶたは気の強そうな性格の表れ。まんまるとしたくりくりの宇宙の目をおもうと、性格って多少なりとも顔に出るよなぁと実感する。

 めったに他人を否定しないし、ポジティブでだれとでも仲良くなれちゃう宇宙は、まんまるとしたくりくりの目がよく合っているとおもう。


 そっと、自分の両頬に指の腹をあてる。


 この顔は、父さんそっくりだ。

 母さんはわたしの顔を見て、あのひとを思い出さないのだろうか。

 彼女はわたしたち姉弟を心の底から愛してくれているし、わたしたちのためをおもって毎日働きに出ている。

 だけど、時々不安になった。わたしの顔を見たくないから、あまり帰ってこないんじゃないかって。


 べつに母さんの態度がどうとかじゃなく、わたしの被害妄想なんだけど。


「んなわけ、ないのにさ」


 皮肉った笑いで考えるのをやめれば、「ねーちゃん、できた!」という昴の元気な声が聞こえた。

 はやく行ってやるかー。「いま行く!」と声を張り上げれば、自然とやさしい笑みが浮かんだのだった。


 ご飯はカレー。父さんが唯一作れた料理だ。

 一芸にひいでていた、という表現がこの場合正しいかはわからないが、父さんの作ってくれるカレーがとても美味しくて、月一の楽しみだったと思う。

 だから毎年この日にカレーを作ることで、カレー好きな父さんが帰ってきてくれないだろうかと、そんな期待を抱いている。


 いただきます、と手を合わせてスプーンを口に持っていく。

 味が気になるのか、無言でわたしをじっと見つめてくる昴に少し居心地の悪さを感じながら、舌に運ばれたやさしい味に、「おいしい」と笑顔を見せた。


「よかったー!」


 安心したように笑う昴を見ながら、胸を渦巻く灰色の感情が、喉奥でつっかえて苦しい。


「ねぇ、昴」


 ぽつりと弟のなまえを呼んだ。

 不思議そうに「ん?」と声を出しながらこっちを見た彼とは反対に、おだやかな表情をしている自信がある。

 疑問を投げたそいつにちょっと視線を向ければ、やっぱりいぶかしげにこっちを見ていた。

 そんな様子にまたわらって、「あのね」と言葉を続ける。


「わたしがいなくなったら、全力でさがすって言ってくれたでしょ」

「え、う、うん」


 突然の言葉に戸惑っているのだろう。昴にとって「わたしがいなくなる」という“もしも”を考えるのは苦痛でしかないから。

 それでも、控えめに揺れる瞳をコントロールして、静かに耳を傾けようと頑張っているあたり、やっぱりこの子はかしこいなって、ひいき目なしに感じてしまった。

 いや、ひいき目も入っているんだろうけどね。かわいい弟だよ、ほんと。


 ああ、うん、でも本当になんていうか。

 イイコに育ってくれたなぁ、昴。


 ふ、と安心したように息を吐きだす。昴はやっぱり戸惑ったように目を揺らしているけれど、同時に、わたしの一瞬の変化も見逃さないとでもいうように、じっとこちらを見つめていた。

 彼の、なにかを言おうとしてためらいがちに動いたくちびるが、すこしだけ震えているのがわかる。

 結局、なにを言うともなく閉じられた口が、昴の戸惑いをよく表現していたとおもう。


「わたしも、おまえがいなくなったら全力でさがすよ」


 当たり前のことだろ?

 かわいくてどうしようもない大事な大事な弟なんだから、全力で探すに決まっている。例えこいつが探されることを望んでいなかったとしても、わたしは探しだすとおもう。


 だって、わたしがそうしたいから。

 わたしが昴をだいすきだから、きっと昴のことを探しだすよ。

 たった一人、血を分けた弟なんだ。わたしにとって、かわいくて仕方ない弟にちがいない。


「嫌って言っても、だからね」


 なんでこんなことを突然言い出したのかなんて、そんなことをいまここで伝えるつもりはない。きっとそれを言えば、こいつは不安で眠れなくなってしまうだろう。

 わたしだってこれを言い出したきっかけを、自信を持って“こうだ!”って言えるわけじゃない。


 だけど、言っておかなきゃいけないような気がした。

 今、ここでこいつにこれを言わなかったら、きっと後悔する――わたしが、きっと後悔する。

 それは確信で、ともすれば、なにかのしらせのようなものだった。


 ただの勘違いかもしれない。ただの気のせいかもしれない。それならそれでいい。

 だけど、後悔だけはしたくないから、わたしはこうして“ぜったいにありえないだろう未来”を危惧きぐしながら言葉を吐くんだ。


「おまえがわたしを想ってくれてるように、わたしもおまえのことを想ってる。おまえのねーちゃんとして、家族として、おまえのこと守っていきたいとおもってる」

「うん」


 うん――なにかに耐えるように出されたその「うん」が、昴の感情を率直に表しているようだった。


 きっと、どうしたらいいのか分からないんだろう。うれしさがにじみ出ている半面、ちょっとだけ不安そうだ。

 うつむき加減になったそいつの頭を撫で、安心させるように名前を呼ぶ。


「すばる」


 やさしく出されたそれは、思っていたよりずっと不安定なもので。その色に気付いた瞬間、ちょっとだけ、胸に何かが落ちたような感覚を覚えた。

 こちらを見てきた昴に、ちいさく微笑む。ぎゅ、とスプーンを握りしめる昴の手が、震えているのを見た。


「だから、不安におもうことなんてなにもないんだよ」

「……わかってる」

「うん。わかってることもわかってるよ」

「うん」

「だけど、わたしの弟はおまえ――昴しかいないんだから」

「、うん」

「まぁ、父さんはそれでもわたしたちを置いて行ったけど、わたしは、……ううん、わたしも母さんも、おまえを置いてどこかに行ったりなんかしないし、離れたりもしない。だから」


 泣きそうにゆがんだ昴の頬をそっとなでてやる。


「もっと信じてくれるとうれしいね。ねーちゃんのことも、母さんのことも」


 今はむずかしいかもしれないけれど、ちょっとずつでいい。コイツが「なにがあっても、自分から離れていかない」とちゃんと確信して、その上でいいなぁとおもう。


「おれも、ねーちゃんのことだいすき」

「うん、そうだとうれしいよ」

「ねーちゃんを泣かせた犯人が例え宇宙兄でも、おれ、容赦なんてしないからね」


 まっすぐとこっちを見つめてそんなことを言う昴に、わたしは笑顔を見せずにはいられなかった。


 これから先の未来になにが待っているかなんてわからない。

 この妙な胸騒ぎは無視するには大きくて、漠然とした恐怖は抱えこむには強くて、落ちつかない気持ちはどんどん増していく。

 それでも、見つめた先の笑顔がたしかにそこにあるから、こいつのことはちゃんと守ってやんなくちゃって、ただそう思うんだ。

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